From Darwin to Derrida その168

 

第13章 意味の起源について その6

 
ヘイグはRNA配列の組み合わせの数(その膨大さ)をデネットを引用しつつ指摘し,しかし自然淘汰は短い機能的配列を発見して累積していくことによりその中から有用なものを選び出していくことを説明した.ここから可能な配列と選び出された配列についての考察になる.

 

潜在性と現実性 その1

 

  • 1000ヌクレオチドRNAの可能配列数は超天文学数的に大きい.そのようなそれぞれの配列1つ1つに対して超天文学数の可能三次元配座が存在する.

 
配列は1次元だが分子の立体的な位置関係(配座)は3次元であり,その1種類の配列に対して個別の結合の回転や立体反転により変換可能な配置がやはり組み合わせの数つまり超天文学数だけあるということになる.
  

  • 1つのRNAの完全なエネルギー地形は,永続的な時間の中でのそのリニアな配列の全ての潜在的配座を網羅するものになる.1つのRNAは,無限の時間の中で,エネルギーバリアの高さにより決められる配座転移頻度とともにそのエネルギー地形の全ての地点を占めうる.しかしその1つ1つの極小の時間の中で,そのRNAは何らかの実現される配座をとる.
  • 生命は永続的な時間を生きるわけではなく,極小の時間においては何も生じない.永続と極小の間では,そのタイムスケールに依存した潜在と現実の違いが生じる.

 
あるRNA配列はこの超天文学数の可能配座のどの状態にでもなることができるが,実際にはその極く一部が実現される.そしてどの程度まで実現されるかはタイムスケールに依存するということになる.
 

  • RNAは,(とりうる)状態の一時的な組み合わせ(temporal ensembles of states)だと考えることができる.しかし普通の長さのRNAの全ての可能な配座空間は,そのRNAが宇宙開闢以来に実際にとることのできる全ての状態を合わせたより大きい(レヴィンタールのパラドクス)

 
潜在配座数は超天文学数的に多いので,そういうことになる.レヴィンタールのパラドクスがパラドクスとされるのは,それほど配座の潜在数が多いのにほとんどのRNAやタンパク質が自発的に短い時間で折り畳まれることを指している.ここで参照されている論文は以下の通り
pubmed.ncbi.nlm.nih.gov
pubmed.ncbi.nlm.nih.gov

 

  • ある程度の長さ以上のどんなRNAもその全ての潜在性を実現できるほど存続できない.しかし実際のRNAは実際的な時間内に動的に達成可能な配置に折り畳まれる.折り畳みは階層的に進む.ローカルで二次的な構造から折り畳みが始まり,次にそれらの折り畳まれた要素がゆっくり相互作用するのだ.

 
この部分の参照論文.
pubmed.ncbi.nlm.nih.gov

 

  • 機能的RNAのエネルギー地形は,高エネルギー状態から低エネルギー状態への複数のパスのファネル的な折り畳みという形態をとる.これらの進化した自己指令組み立てを行わせるメカニズムがレヴィンタールのパラドックスを解決するのだ.

 
というわけで,RNA配列の選択だけでなく,その選択されたRNAの立体配座の決定も自然淘汰によるものだいうことになる.ここでの参照論文は以下の通り.
pubmed.ncbi.nlm.nih.gov
pubmed.ncbi.nlm.nih.gov

From Darwin to Derrida その167

 
ヘイグは意味を論じるにあたって,まずリボザイムとリボスイッチの仕組みを説明した.そしてリボスイッチはそのRNA状の遺伝子の発現についての複雑な制御を行うものがあることを示し,これはリガンドとの分子の高次構造に基づく結合に限定されずに「意味」を作り出したと見ることができると論じた.ここから遺伝暗号の組み合わせの数(その膨大さ)とそしてそこからどのように意味ある構造の進化が可能なのかが議論される.
 

第13章 意味の起源について その6

 

超天文学数について

 

  • RNAやDNAの塩基がnからn+1に増えるたびに可能な配列の数は4倍になる.アミノ酸が1つ増えるたびに可能なプリペプチドは20倍になる.nビットの配列は2のn乗の異なるメッセージを送れる.有用なベンチマークとして述べておくと300ビットの配列の数は宇宙の全素粒子の数と同じぐらいになる.すると150ヌクレオチドのRNAや70アミノ酸のタンパク質は同じ程度配列数を持つことになる.

 
この組み合わせの場合の数が極めて大きなものになるというのは遺伝暗号に限られず,普遍的な現象だ.この手の議論で私が思い出すのはドーキンスの「盲目の時計職人」にあるバイオモルフの遺伝的空間の議論とデネットの「ダーウィンの危険な思想」によるメンデル図書館の議論だ.そしてこのデネット本はすぐあとに参照される.
 

 

  • ほとんどのmRNAは150ヌクレオチドより長いし,ほとんどのタンパク質は70アミノ酸より長い.例えばヒトのIGF1R遺伝子のmRNAは7000ヌクレオチド以上あり,1000アミノ酸以上あるタンパク質をコードしている.対応するDNAはイントロンを含むと316000ヌクレオチドある.これらの可能配列数は超天文学数(hyperastronomic)あるいはヴァスト(Vast*1)といえる.しかしヒトのゲノムは万単位のタンパク質コード遺伝子を持ち,それが海図のないノンコーディング領域の大海のなかの島のように浮かんでいる.知りうる全宇宙においてそのごくごく一部のRNA配列やタンパク質が見つかっているに過ぎない.この超天文学的空間は(超天文学的空間を探索するのと無限空間を探索するのに実務的には違いがないという意味で)「事実上無限」だ.そのような空間を網羅的に調べることはできない.

 
hyperastronomicの参照元はクインによるこの本だ.どうやら哲学の辞書という風体の本らしい.

そしてVastの参照元は先ほどのデネットの本


 

  • 可能なRNAやDNAの配列数は長くなるとすぐに超天文学数になるが,このような超天文学数は自然淘汰による進化の領域には実在しない.これまで実在した配列は確かに多いが,せいぜい地球規模だ.遺伝情報の小片が深い過去から送られてくるには,生と死の違いを何度も作り出さなければならない.それは単一の突然変異から集団に広がらなければならないし,そこから浮動や新しい変異に対抗して残らなければならない.残る配列は違いを作ってきた歴史的プロセスの産物なのだ.

 
そしてこのような超天文学数的な可能性の中から,自然淘汰はその極く限られた一部のみを実現させることになる
 

  • ある特定のリガンドのためのアプタマーを作る方法が1通りしかないのなら,100ヌクレオチドのアプタマー(これより長いアプタマーも短いアプタマーもある)はこの惑星時間において自然淘汰では達成できないだろう.しかし1012オーダーの30~200ヌクレオチド程度のランダムなRNA配列プールの中からある選ばれた化学活性を見つけることはそれほど難しくはない.これは,似たような特徴を持つアプタマーが多数存在可能であること,そして全てのヌクレオチドが機能により制限されているわけではないことを意味している.とはいえ,極めて選択性の高い既存のアプタマーがその形態で突然出現したということはありそうもない.早い時期のアプタマーのリガンドに対する不完全な適合性は,すでにある機能的配列に「近接」するランダムな突然変異の上にかかる自然淘汰による洗練を受けただろう.

 
これも進化の説明にはよくある説明だ.最初から最適応的な最終形が選ばれるわけではなく,適応地形を少しずつ登っていく中で,改良が累積する.そしてアプタマーとリガンドの結合はそういう形で改良を累積していけるようなものだということだ.この最後のについてはこの論文が参照されている.
www.ncbi.nlm.nih.gov


  • 数千配列の機能的RNAはどのように進化したのだろうか.ありそうなのは,自然淘汰は,まずより短い機能的配列を発見し,これらを組み替えながら長くし,より洗練された機能を持つ配列にしていったというシナリオだ.

 
ここで参照されている論文はこれだ.論文誌は「Entropy」という名前だ.
www.mdpi.com

 

  • 2nの長さのランダム配列プールからの新奇機能の淘汰的探索の問題は,すでに長さnについての機能的配列が得られており,それを組み換えることができるなら遥かに容易になる.組み替えによるイノベーションの例としては,古いアプタマーを組み合わせて新しいプラットフォームにすること,単純なりボス一致を連結して複雑な計算デバイスを作ることなどが知られている.そのようなすでにある道具を使った進化的な間に合わせ仕事は,複雑な構造の中の階層的なモジュラー組織という跡を残している.このような過程によりリボスイッチは進化的に組み合わされ,広い範囲のデジタルおよびアナログ計算を行う複雑な回路となったのだ.

 
そして適応地形を登っていくにつれて論理計算もできるスイッチが進化するというわけだ.

*1:大文字になっているので超天文学的な大きさを表すデネットの造語なのだろう

From Darwin to Derrida その166

 
ヘイグは意味を論じるにあたって,まずリボザイムとリボスイッチの仕組みを説明し,リボスイッチはそのRNA状の遺伝子の発現についての複雑な制御を行うものがあることを示した.ここから「サインの恣意性」の議論に進む.冒頭にはソシュールが登場する.
 

第13章 意味の起源について その5

 

リボザイムとリボスイッチ その4

  

  • ソシュール言語学の中核はサインの恣意性,つまりシニフィアンとシニフィエの連合に必然性がないことにある.

 
参照されているのはソシュールの「一般言語学講義」になる

 

  • 分子生物学におけるパラレルな概念はアロステリック効果(allostery)と呼ばれ,マクロ分子のある結合部位の結合が別の部位の機能的変化を生じさせることを指す.アロステリック効果は,リガンドと反応の連合を生理化学的に自由にし,進化を化学の3次元的制約から解き放つ.モノーとシャンジーとヤコブの魅力的な結論はここに引用するに値する.
  • 制御性のアロステリックタンパクは,淘汰エンジニアリングのための特別なプロダクトと考えられる.これにより(そうでなければ相互作用しない)代謝産物間の間接的な正および負の相互作用が可能になり,特定の反応を本来関係のない化合物に制御させることができる.
  • これにより,我々はそれにより細胞や個体が生存可能になるような生理的に有用な制御作用が,適切なアロステリックタンパクの選択を通じ,どのように成立したのかを理解できる.それは特定のタンパク質を単に触媒や運搬に用いるのではなく,化学的シグナルの受信者や送信者として用いることにより,それなしでは得られない化学的な制約からの自由を得たのだ.そしてそれにより自然淘汰は生命体の驚異的に複雑な回路を発達させ相互連絡させることができたのだ.

 
分子生物学における「サインの恣意性」の最も有名な例は遺伝暗号で,アミノ酸とDNAやRNAの塩基配列の間に化学的な必然性はない.ここでヘイグが取り上げているリボスイッチの制御信号の恣意性はさらに深いもので,これにより柔軟な発現制御が進化可能になっている.確かにモノーたちの論文の引用部分はそれを雄弁に語っているといえるだろう.
なお引用されている論文は以下の通り
pubmed.ncbi.nlm.nih.gov

 

  • リボスイッチの文脈では,アプタマーの発現プラットフォームへの配座的カプリング(conformational coupling)はシグナルと反応の物理化学的な恣意的カプリングを可能にした.アロステリック効果はアプタマーと発現プラットフォームについての進化的にうまく働く組み合わせを可能にした.

 
配座的カプリングとは分子の3次元的な構造に基づく結合を指している.アプタマーとリガンドの結合はこの分子の高次構造に基づくもので恣意性はない.しかしリボスイッチとして自らの遺伝子の発現を制御する際には,この結合をキーにして自由に論理演算を含む様々に複雑な制御を行うことができる.これは進化的には極めて重要な仕組みだというわけだ.
 

  • GlcN6PはmRNAの切断について物理化学的に必須だったわけではない.それはわずか3塩基が変異したリボザイムがGlcN6Pなしで切断を行うことからわかる.またglmSリボスイッチがGlcN6Pの合成と関係のない機能を持つmRNAに存在できない物理化学的理由もない.glmSリボスイッチは,例えばthiM mRNAのTPPリボスイッチの代わりにGlcN6Pの有無によりチアミンの合成を制御することもできる.しかしそのようなGlcN6Pなしで切断を行うリボザイムも,GlcN6Pがあるときにチアミンの合成を阻害するmRNAも適応的な「センス」がない(neither a ribozyme ・・・, nor an mRNA ・・・, makes adaptive “sense.”)のだ.

 

  • 進化的なタイムスケールにおいては,その時々の生物学的解釈者の機能における情報的な入力と意味のあるアウトプットの因果的な連結は,アロステリックに恣意的であり適応的に有用だ.形態のシフトが「センス」を作る(makes sense:意味がある)のだ.

 
分子の高次構造に基づく結合だけでは,恣意性がなく柔軟な制御にはつながらない.リボスイッチの仕組みによる恣意性のある制御構造の中では,様々な制御方式の中から(淘汰により)最も有用なものだけを選び出すことができる.それは淘汰による解釈者の意味の創造だということになるのだろう.

From Darwin to Derrida その165

 
ヘイグは意味を説明するために,リボザイムとリボスイッチの比較を行う.リボザイムはリガンドと結びついて触媒になるだけの「行動者」でありリボスイッチはリガンドと結びついて自分自身の発現を制御する「解釈者」であるとし,その制御が非常に精妙になりうることを示した.ここから更なる分子生物学の詳細が記述される.分子生物学にあまり詳しくない私にはなかなかハードルが高いが何とかついていこう.
 
 

第13章 意味の起源について その4

 

リボザイムとリボスイッチ その3

 

  • ビタミンBとされるビタミン群は,RNAの構成要素であるリボヌクレオチドと関係がある.そのためこれらは全ての生命過程に関連するタンパク質酵素にとって本質的な共同因子となる.これらはRNAワールドではリボザイムの共同因子だったのだろう.

 
まずRNAワールドではビタミンB群はRNAのリボザイムとしての働きに何らかの関与をしていたという推測がなされている.
 

  • リボスイッチの大きなクラスはチアミンピロリン酸(TPP)のアプタマーを持っている.TPPはチアミン(ビタミンB1)の生物学的な活性体だ.アプタマーは不安定な状態だが,TPPと結びつくと安定化する.この結びつきによるRNAエネルギー分布の変化は下流で遺伝子発現に影響を与えるプラットフォームの配座を変化させる.原核生物のTPPリボスイッチは転写や翻訳を直接調節するが,真核生物のTPPリボスイッチはmRNAのスプライシングを調節する.

 
ヘイグは明確に書いていないが,このビタミンBの関連物質がリガンドとなるリボザイムの存在が,同じような物質をリガンドとして用いるリボスイッチに転用されたというシナリオがあるのだろう.そのように転用されたある種のリボスイッチはビタミンB1の活性体であるTPPと結びつき,遺伝子発現の制御がなされる.原核生物では直接転写や翻訳が制御され,真核生物の場合はmRNAのスプライシングが制御されるということになる.
 

  • Escherichia coliのthiM酵素はチアゾールとATPとの結合部位を持つ.この酵素はリン酸をATPからチアゾールに移し,そこからTPPが合成されるチアゾールリン酸を作る.thiMをエンコードするthiM mRNAはTPPアプタマーを持つ.そこには反・反・シャイン・ダルガノ配列(SD配列)が含まれる.SD配列は翻訳開始の配列で,反・SD配列と結合していなければリボソームでの翻訳が開始する.だからTPPがないときの反・反・SD配列は反・SD配列と結合して,翻訳を進行させる.この反・反・SD配列がTPPと結合すると翻訳が抑制される.このような二重否定ロジックの存在は,ある分子の存在でオンオフするような「単純な」リボスイッチモデルでもより複雑な計算が可能であることを示唆している.

 
原核生物であるEscherichia coli(大腸菌)においてthiM mRNAには,TPPアプタマー部分があり,リボスイッチとして翻訳開始の信号を制御している.そしてその制御には二重否定ロジックが用いられている.これはあるリガンドがあるかないかでオンオフするより複雑な論理計算を使った制御ができることを示している.
 

  • 時に2つのリボスイッチが同時に働く.Bacillus clausiiのmetE mRNAはS-アデノシルメチオニン(SAM-e)とアデノシルコバルミン(ビタミンB12)のペアのリボスイッチを持っている.いずれのリボスイッチもリガンドと結合すれば転写を止める.つまり転写はSAMもビタミンB12もないときに進むのだ.この仕組みの生理的合理性は,metE酵素がSAMの前駆体であるメチオニンを作るのだが,このバクテリアがビタミンB12を共同因子としてより効率的にメチオニンを作る仕組みを持っていることで説明できる.つまりSAMもビタミンB12も不足しているときだけ(より効率の悪い)metE酵素によるメチオニン生成を行うのだ.

 
Bacillus clausiiとはグラム陽性桿菌に含まれる細菌の一種のようだ.この細菌のmetE mRNAには2つのリボスイッチがあり,両方がリガンドと結合したときのみ転写を止める.これは論理計算である「AND演算」が行えるということになる.
 
ここまでのリボスイッチの詳細をまとめると,要するにRNAリボスイッチは1つのアプタマーに2種類のリガンドをもって競合させたり,SD配列を使ったり,2種類のリボスイッチを使ったりして,(自然淘汰により進化した解釈者にふさわしい)様々な論理演算を行って制御ができるということを示したということになる.

なおここで参照されている論文は以下の通りだ.
 
pubmed.ncbi.nlm.nih.gov
pubmed.ncbi.nlm.nih.gov
pubmed.ncbi.nlm.nih.gov
pubmed.ncbi.nlm.nih.gov
pubmed.ncbi.nlm.nih.gov
pubmed.ncbi.nlm.nih.gov
pubmed.ncbi.nlm.nih.gov
pubmed.ncbi.nlm.nih.gov
pubmed.ncbi.nlm.nih.gov

書評 「食虫植物」

 
本書は食虫植物を扱った岩波科学ライブラリーの一冊.食虫植物といえばハエトリソウやモウセンゴケやウツボカズラが頭に浮かぶ.彼等は窒素を(根からの吸収ではなく)虫を捕らえて消化吸収することによって得ている.貧栄養土壌に置ける合理的な窒素獲得戦略であり,様々な植物群で見られるものだと思っていたが,考えてみればそれ以上のことはあまり知らない.というわけで手に取った一冊になる.
 
前書きで早速食虫植物についてのいくつかのトリビアが開陳されている.冒頭からなかなか楽しい.

  • リンネはハエトリソウが昆虫を食べているという報告をその乾燥標本を見たあとでも信じなかった.
  • ダーウィンはハエトリソウを「世界で最も不思議な植物の1つ(one of the most wonderful [plants] in the world)」と記述している.
  • 現在食虫植物は860種ほど知られているが全て被子植物だ.

 

食虫植物とは何か?

 
第1章は食虫食物の定義の変遷について.単にこういうふうに変わりましたというわけではなくお話仕立てにしているのが読ませる工夫ということだろう.

  • ロリデュラはトリモチ式の罠を持ち小さな昆虫類を捕らえる.ダーウィンはロリデュラが食虫植物であることを疑わなかった.
  • 1942年に食虫植物の大著を書き上げたロイドは食虫植物を「動物を捕獲し消化できる罠を持つ植物」と定義した.(モウセンゴケのような多糖類の粘液ではなく)ロリデュラの粘液は樹脂であり,そこに消化酵素が含まれていない.これによりロイドはロリデュラを食虫植物から除外した.
  • 1989年,ジュニパーが生理学や生化学を中心に100本を越える論文を体系化した食虫植物の大著を書き上げる.彼は誘引,保持,捕獲,殺害,消化,吸収を食虫植物の能力とし,誘引と消化は必須ではないしたが,なおロリデュラを食虫植物とは認めなかった.栄養吸収に特化した細胞が見られず,吸収能力の証拠がなかったためだ.ジュニパーはロリデュラの捕獲能力は食害から守る防衛と考えた.ただし彼はロリデュラにからめ捕られることなくはい回れるクモやカメムシが捕獲した昆虫を摂取していることを認め,食べられたあとの死骸やクモやカメムシの排泄物がロリデュラの窒素源になっている可能性を考察している.
  • 1990年代後半に同位体窒素を使った追跡により捕獲された昆虫からカメムシの液体の排泄物を経由してロリデュラに窒素が受け渡されていることがわかった.またロリデュラの表皮細胞にはクチクラの切れ目があり,そこから栄養を吸収できることも解明された.つまりロリデュラとカメムシは消化共生にあると考えることができる.2018年の66名の共著による食虫植物の本により食虫植物の定義は「捕獲,殺害,消化,吸収,利用が全てそろったものと食虫植物とする,ただし食虫植物自身による消化の完結を条件としない」とされ,ロリデュラは食虫植物に返り咲いた.
  • 定義は動物の窒素源を利用する新しいタイプの植物が見つかれば書き換えられうるということになる.近年知られるようになった食虫植物のタイプには,地中に葉を忍ばせて線虫を捕食する植物,ハエやハチに作らせた虫こぶから栄養を吸い取り,中の虫を殺す植物が見つかっている.

 

食虫植物の猟具

 
第2章では様々な食虫植物の動物を捕らえる方法が解説されている.基本形はトラバサミ,トリモチ,カタパルト,落とし穴,スポイト,ウナギ筒の6種類だそうだ.面白いところを紹介しよう.

  • ハエトリソウのトラバサミ式罠は葉にある感覚毛で感じた刺激で閉じられる.ただし1回目では閉じず,30秒以内に2回目の刺激があったときに閉じられる.この「記憶」は刺激によりカルシウムイオン濃度が急速に上昇しその後ゆっくり減衰する仕組みと30秒以内に2回目の刺激があったときだけ閉葉のための閾値を超える様な閾値の設定により可能になっている.また一旦閉じた後も感覚毛で獲物がもがいているかを感知し,感知できれば消化液を分泌する.もがいていることを感知できなければ短時間で開く.
  • グランデュリゲラモウセンゴケはトリモチ式の罠を持っているが,葉の外縁から延びる触毛を持ち,そこに触れた獲物をトリモチ式の罠に放り込むカタパルト式の罠も持つ.
  • ゲンセリアは葉が二分岐し,先がらせんに巻いたウナギ筒罠を持つ.らせんの切れ目が入り口で,筒の内側には一定方向を向いた毛がびっしり生えていて,入り込んだ無脊椎動物のような獲物を逃さない仕組みになっている.
  • ウツボカズラのような落とし穴式の罠は雨水であふれてしまわないようにフタを持つのが通常だ.しかし多雨で知られるギアナ高地にあるエリアンフォラの落とし穴罠はフタを持たず*1,オーバーフロー穴と(オーバーフロー穴までの壁面に細かな毛をびっしり生やすことによる)毛細管現象を利用したサイフォンで対処している.

 

食虫植物の偏食

 
第3章は食虫植物の獲物の選好について.一般的にはトリモチ罠には双翅目昆虫,落とし穴罠にはアリ,トラバサミ罠にはアリやクモがよくかかり,タヌキモのスポイト罠にはミジンコやカイアシがよく入る.ここではそれ以外のちょっと特殊なものが解説されている.ここも面白いところを紹介しよう.

  • アルボナーギナタウツボカズラは捕虫罠から地衣類に似た味や匂いを出し,地衣類を食べるシロアリを誘引する.
  • ツボウツボカズラは樹冠から舞い落ちる木の葉を主な栄養源としており,シビンウツボカズラはツパイやネズミのような脊椎動物の排泄物を主な栄養源としている.さらにヘムスレヤナウツボカズラはエコロケーション案内板を持ち,コウモリにねぐらを提供してその排泄物を得ている.*2
  • 壺状の落とし穴罠を持つムラサキヘイシソウは昆虫のほかサンショウウオを獲物とする.

 

食虫植物の葛藤

 
第4章は食虫戦略の適応性,特にコストとトレードオフについて.以下のような説明の流れになっている.

  • 植物の中で食虫植物は少数派だ.これは罠に作成・維持コストがかかるためだと考えられる.
  • 罠には葉を用いることから光合成との間でトレードオフがかかる.ウツボカズラやハエトリソウでは葉の先端側に罠を作り,基部で光合成を行っている.ヘイシソウは葉基だけでなく捕虫網から延びる突起状のキールでも光合成を行い,どこまで光合成に投資するかを制御可能にしている.フクロユキノシタやゲンセリアは光合成葉と罠葉の二種類を造り分ける.これらは表現型可塑性の一種だ.
  • 全ての食虫植物は光合成能力を維持している.ただし葉緑体の機能に重要なNAD(P)Hデヒドロテナーゼ複合体をコードする遺伝子群は失われている.これらは寄生植物や菌従属栄養植物でも失われていることが知られている.(残念ながらどのような淘汰圧でそうなると考えられるのかについての解説はない)
  • 送粉に昆虫を用いる被子植物が食虫植物になると,昆虫に来てほしい花と捕らえたい罠の間でトレードオフがあるのではないかと考えられる.しかし実際に送粉者を捕殺してしまい送粉できなくなったという観察例はない.これについてはそもそもそんなトレードオフはない*3という考え方と,食虫植物にそれを回避する適応*4が生じているという2つの仮説がある.原因の切り分けが難しく議論が続いているが,少なくとも花を罠に用いない理由としてこのトレードオフには一定の説明力があると考えられる*5
  • 食虫植物は昆虫から食害も受ける.通常の植物は食害を受けたときにジャスモン酸を用いた障害応答(防御反応)を行うが,多くの食虫植物ではジャスモン酸を捕虫応答に用いていて,シグナルの誤認のリスクがあると考えられる.実際にアフリカナガバノモウセンゴケではこの2つの応答の混戦が観察されている.

 

  • 食虫植物を利用する昆虫も存在する.ある種のハナアブの幼虫はモウセンゴケの罠の上を歩き回り捕らえられた獲物を横取りする.またモウセンゴケトリバ(トリバガの一種)の幼虫もモウセンゴケの罠の上を歩き回り粘液を食べる.食虫植物の袋型捕虫網を専門に食べる蛾(Pitcher plant mothと呼ばれる)も知られている.
  • ビカルカラタウツボカズラはアリと相利共生している.ウツボカズラは蜜腺から蜜を供給し,ツルを空洞にしてアリに住処を与える.アリは捕虫袋の開口部の襟状構造の滑りやすさを保ち,捕虫袋の中の(獲物を横取りする)ボウフラを退治し,さらに袋からはい上がろうとする獲物を攻撃して袋に追い落とす.

 

それでも虫を食べる意味とは

 
第5章は食虫戦略の適応性の続き.ここではまず虫を捕らえることの利益にフォーカスされ,次に食虫戦略進化の条件が考察される.解説は学説史的に進められ,最初はダーウィン父子の研究から始まる.

  • チャールズ・ダーウィンは1860年に英国のハートフィールドでモウセンゴケに出会い,しばらくそれに熱中する.彼はモウセンゴケの粘液に消化能力があることを発見し,その運動,消化,吸収能力を調べ,1875年には「食虫植物(Insectivorous Plants)」という本を出している.彼は食虫には利益があると考え,生育を促進するかどうかを調べる実験を企画したが,実験処理区の仕切りに亜鉛版を使ったためモウセンゴケが枯れてしまい実験は失敗した.
  • 彼の息子フランシス・ダーウィンはこの研究を引き継いだ.仕切りを木に替えて,様々な条件下で肉を与えたモウセンゴケと与えなかったモウセンゴケの生育を比較した.結果は明瞭で食虫植物が捕虫によって利益を得ていることが実証された.これに触発されて,様々な食虫植物で実験が行われ,食虫の利益が明らかになった.
  • これは条件が整えば食虫戦略が進化可能であることを示している.ではその条件は何か.
  • 1980年ギブニッシュはギアナ高地で,タンクブロメリアと呼ばれる貯水槽を持つ植物の一種ブロッキニア・レデュクタが食虫植物であることを発見し,なぜあまたのタンクブロメリアの中でこの種のみが食虫植物なのかを考え始めた.そして多くの食虫植物の生態を比較し,共通条件を調べた.その結果多くの食虫植物は,貧栄養の土壌で日当たりがよく,湿った環境を好むことがわかった*6
  • タンクブロメリアの多くの着生だが,ブロッキニア・レデュクタは地上性だった.ギブニッシュは着生の食虫植物があるのかを調べたが,それは極めて稀で全世界でたった18種しか見つかっていないことがわかった.着生植物は日当たりが悪く乾燥した環境で生育し,地上性のブロッキニア・レデュクタは日当たりがよく湿潤な環境で生育する.条件には(貧栄養だけではなく)光と水が関係するのだ.
  • これは(光合成に必要な)光と水は豊潤だが,光合成回路の合成に必要な窒素とリン酸が足りない状況と考えることができる.この場合罠にコストをかけても虫を捕れば,それにより光合成回路を合成でき,潤沢に光合成を行うことができるようになるのだ.
  • この考え方によると,食虫植物が夏に捕虫葉を作りそれ以外の季節は光合成葉を作るか休眠するという戦略をとっている理由も説明できる.ギブニッシュはこれを費用対効果モデルにまとめ上げた.

 

食虫植物はなぜ「似てしまう」のか

 
第6章は食虫植物の進化史について.特に分子系統推定,収斂,(単独では意味なさそうな)捕虫のための複数形質の進化シナリオが扱われている.

  • ブランションやダーウィンはモウセンゴケ,ロリデュラ,ビブリスはいずれもトリモチ式罠を持つことから単一系統と考えた.クロワザは全ての食虫植物が単一系統と主張した.
  • 1990年以降DNAを用いた系統推定がなされるようになり,食虫植物の複数回起源が明らかになった.モウセンゴケとロリデュラとビブリスのトリモチ式罠は収斂だったのだ.2016年時点での研究コンソーシアムの情報整理によれば被子植物全64目の中の6目(イネ目,オモダカ目,カタバミ目,ナデシコ目,ツツジ目,シソ目)で食虫植物が進化している(さらにそれぞれの目の中で複数回進化しているものもある).
  • 興味深いことにウツボカズラとフクロユキノシタの消化酵素遺伝子ではDNA配列にまで収斂現象(分子収斂)が見られる.これは消化酵素進化(消化酵素はもともとはバクテリアや菌に対する防御としての分解酵素から進化したようだ)の適応度地形が非常に急峻でほとんど一本道であったことを示唆している.

 

  • 食虫植物には,虫を誘引する仕組み,捕らえる仕組み,消化する仕組みが必要だが,3つそろわなければ意味がなさそうで,どのように進化したのかが問題になる.
  • 多くの維管束植物は食害からの防御のためにプロテアーゼを腺状突起から分泌する.プロテアーゼは粘着性とタンパク質分解機能を持ち,食虫植物の粘液と消化酵素に割と簡単に転用進化できたと思われる.
  • 消化酵素の分泌にエキソサイトーシス(細胞内の輸送小胞を細胞外に押し出して物質を輸送するもの,押し出された小胞膜は細胞膜と融合される)を使ったなら,膜の回収のためにエンドサイトーシスが生じると考えれば,吸収は同時に進化しうることになる.するとトリモチ式食虫植物の捕獲,消化,吸収は同時に進化可能であったと考えられる.
  • 現生の食虫植物の多彩な捕虫様式はトリモチ式から派生したものだと考えられている.トリモチ式から落とし穴式などに進化するのは,葉の形態を変えればよい.葉の形を決める仕組みから考えるとウツボカズラやタヌキモのように葉を変化させることはそれほど難しいことではないと考えられる(これは著者たちが提唱している仮説であり,かなり詳しく解説されている).

 

食虫植物のゆくえ

 
最終章では食虫植物と人類との関わり,そしてその将来が考察されている.

  • オーストラリアのフクロユキノシタは分布域が狭く,気温上昇で奇形の葉が増えることが報告されている.気候変動で絶滅の危機に陥る可能性がある.多くの食虫植物は捕虫葉の上に独自の生態系を形作っており,独自の共生生物も多い.食虫植物の絶滅はこれらの生態系の消失を意味する.
  • 食虫植物は栽培種として人気がある.このため原産地から離れて栽培されることが多く,侵略的外来種となった食虫植物も多い(岡山県の調査では県内だけで10種以上の外来食虫食物が野生化しているそうだ).日本で野生絶滅したムジナモは米国に侵入して分布域を広げている.
  • 栽培種ではしばしば捕虫機能が退化する.これは条件がそろえば野生でも生じる進化だ.
  • これまで人類は様々な食虫植物を利用してきた*7.袋型捕虫葉の中に入った水は時に探検家(その1人はウォレスだそうだ)の命を救った.
  • 将来的には遺伝子編集など技術を用いて,害虫駆除への利用,袋型捕虫用にたまる消化液に着目したタンパク質工場としての利用も考えられる.ウツボカズラのプロテアーゼは便利なタンパク質切断デバイスとして使える可能性がある.薬理活性を持つ成分の探索も行われているし,捕虫網の様々な仕組みをバイオミミクリーとして利用することも可能だ.

 
以上が本書の内容になる.食虫植物の定義から始まり,その機能とメカニズム,捕虫戦略の進化,系統,そして将来まで包括的に説明された本に仕上がっている.本書は一般向け書籍としてに初歩の部分から丁寧に解説があり,学説史を交えることにより興味深さを保つく工夫が成功している.私にとっては何より本書の隅々にまで著者の食虫植物愛が感じられる楽しい一冊となった.
 
関連書籍
 
ダーウィンの食虫植物本.残念ながら(私の知る限り)邦訳はされていない.

Insectivorous Plants

Insectivorous Plants

Amazon
 
ダーウィンの(食虫植物を含む)植物研究に関するこんな本もあるようだ.

*1:なぜかは解説されていない,おそらくあまりに降水量が多いので,密閉できないフタでは役に立たないからなのだろう

*2:ということになるとこれらのウツボカズラは第1章の食虫植物の定義から外れてしまうような気もする(ツボウツボカズラの場合には落ち葉と一緒にわずかでも微小動物が入っていればいい,シビンウツボカズラやヘムスレヤナウツボカズラの場合には排泄物に腸内細菌が含まれるからいいということだろうか?)が,ここではその問題には触れられていない

*3:野外で捕殺している虫は送粉者以外が大半で,送粉に対する捕殺の影響はあまりないと考える

*4:罠の時期と花の時期をずらす,物理的に距離を作る,識別シグナルで誘導するなどが議論されている

*5:ただし本書の執筆終盤時の2021年8月に花茎で捕虫する新しい食虫植物が見つかったそうだ

*6:典型的なのは湿地であり,日本でも多くの食虫植物は湿地で見られる

*7:ウツボカズラの蔓を用いたロープ,ムシトリスミレを入れた発酵乳飲料,ウツボカズラの捕虫葉を用いた容器などが紹介されている