「赤を見る」


赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由

赤を見る―感覚の進化と意識の存在理由



赤を見る

これは意識にこだわる心理学者ニコラス・ハンフリーが2004年にハーバードで行った講演内容を一冊の本にまとめたものだ.そのため中身は一本のストーリーが簡潔に描かれており,コンパクトで分かりやすい.また装丁も講演のポイントにあわせてしゃれた作りになっている.

余談だが個人的には美しい横書きの仕上げが気に入った.日本ではなぜか読みやすいのは縦書きという思いこみが出版業界にあるようで,数式が出てくるような本でも何とか縦書きにしてみましたという本が多い.そういう本は馬鹿みたいに読みにくい.どうして縦書きの方が読みやすいと考えるのだろう.現代の日本に住んでいる限り日常の文書の多くは横書きだし,英文や数式が混ざれば圧倒的に横書きの方が読みやすいと思う.(本書で残念なのは句読点が「,」(コンマ)「.」(ピリオド)ではなく「、」(点)「。」(丸)になっていることだ.最近は入力ソフトの初期設定の影響か横書きでも点,丸の文章が増えてきた.これは慣れの問題かもしれないが,横書きはコンマピリオドの方がしっくりくるのは私が古いのだろうか.)


さて本書はまず赤いと感じることの中身をじっくり考えていく.赤を感じることが個人的な事実であることからはじまり,視覚的クオリア,赤い感覚を経験しているという意識の状態(赤をする),感覚モダリティ,証拠性などの難しい概念が飛び交う.しかし赤いというのは光の波長の混合スペクトルを脳が解釈している状況で,物理的には「赤」の実体は波長スペクトルしかないということが頭に入っていればこの部分はそれほど難解ではない.
最終的にハンフリーは,赤を見ている人は(1)赤い感覚を抱き,(2)その赤い感覚を持っている自分自身を感じ,(3)赤だという知覚を持つ(4)そして経験者としての「自己」を経験するという4段階の現象があると結論づける.
特に強調しているのは赤の感覚と赤の知覚は別の脳の働きだということだ.これは盲視(視覚的な感覚はない(見えているという実感)はないが視覚的知覚(質問されれば答えられる)はある状態)の例を出して見事に説明している.


するとなぜ知覚の他に,赤を感覚としてとらえ,それを感じている自分を感じるような仕組みが我々に備わっているのかということが疑問として浮かび上がる.これは特に進化的な思考をするときに難問となる.


ハンフリーは再び盲視の例を挙げてこの問題について議論する.彼女は実は自分に視覚的な知覚があることを教えられ,本人も納得する.しかしそれを実感できなかった彼女は「見ること」が重荷になり,結局,黒眼鏡をかけて盲人として生きる道に戻ってしまったのだ.そしてハンフリーは感覚と意識が深く結びついていると議論する.


ここからはハンフリーの仮説である.まず生物は刺激に対して反応するために,刺激に対して身体が身もだえし,そして身もだえを知覚する局地的なシステムを進化させた.さらに生物は自分自身もモニターする方が有利になるためその局地システムの動きをモニターできるようになった.これが赤いという感覚やそういう感覚を持っている自分自身を感じることの起源である.その後中枢神経が進化し直接刺激を知覚できるようになったが自分自身をモニターする回路は古い回路がそのまま使われることになった.そして刺激への反応がまるまる内包化されて「感覚」になったというのがハンフリーの説明だ.どこまでも仮説だが,私には結構説得力があるように思える.


そしてここからが意識の難問である.この感覚を操作できれば反応を制御できることになる.共感作用やミラーニューロンの話を引きつつ,ハンフリーは感覚が他人の精神状態のシミュレーションソフトの部品であると議論している.これはハンフリーが古くから行っている意識の説明である.しかし本書ではハンフリーはさらに一歩進む.
「意識的な時間感覚には厚みがある.これは感覚の回路がフィードバック効果を持ち,自分自身のモニターとして機能しているためだ.そしてこのような厚みのある自己を感じる意識は,より自分自身を重要視できるように,自分自身を身体と独立の精神として二元的に感じられるように進化したのだ.」
この仮説はなかなかトリックのような響きがあって人により評価は分かれるだろう.しかし「意識」という問題はなかなかとっかかり自体が難しい難問であり(ピンカーはヒトの進化した認知能力ではこの問題は把握できないのだとさじを投げている)現時点ではこのようなトリックの響きは仕方がないのではないか,それを割り引いても十分興味深い仮説だというのが私の感想である.


ハンフリーらしく,通常とは角度の異なったアプローチが斬新で,説明は丁寧で直感的な説得力もある.まさにとてもよくできた講演を聴いたような読後感が心地よい.意識の問題に興味のある人にはお薦めの一冊である.






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