「5万年前」


5万年前―このとき人類の壮大な旅が始まった

5万年前―このとき人類の壮大な旅が始まった



原題はBefore the Dawn: Recovering the lost history of our ancestors ということで,「夜明け前」つまり書かれた歴史以前の私たちの祖先の歴史についてが主題であり,特に5万年前のことにこだわっているわけではない.著者は有名なサイエンスライターで,ニューヨークタイムズのサイエンスコラムを長年持っていたことで知られる.

手練れのサイエンスライターの手になるものだけあって,破綻はなく興味深い話をつづっているが,論争のなかで,なぜそれが正しいと考えるのかというような理屈付け,証拠,根拠についてはやや乏しい.そこが直前に邦訳出版された「人類の足跡10万年全史」に比べると物足りない部分だろう.


一般向けにDNA分析でどのようなことがわかるのかの前振りがまず語られる.ひとにたかる2種類のシラミの分析から衣服の普及年代を推定できるという(7万年プラスマイナス数千年前)導入部は面白い.


本書では現代のアジア・ヨーロッパ・アメリカに住む人々の出アフリカは一度だけで南回りルート,そして5万年前だったという説に沿って書かれている.なぜオッペンハイマーの主張するトバ噴火(7万年前)より前の8万年前説ではなく5万年前説を採るかについてはあまり詳しく説明されない.ちょうど同じ時期に「人類の足跡10万年全史」が翻訳出版されている日本の読者から見るとここは残念なところだ.


ヒトの進化についてはチンパンジー系統との分離から簡単に説明されている.おきまりの直立,社会の拡大,脳の増大という話題に加えて,黒い肌の進化,頭髪が伸び続けることなどにふれているのが,いかにも一般人の話題に敏感なサイエンスライターらしい.(頭髪が伸び続けるのは20万年前あたりから,社会的地位を表すハンディキャップシグナルだという解釈も興味深い.私的には性淘汰信号と見る方が良いのではという感想)


石器の解釈については「人類の足跡10万年全史」と明瞭な対比がある.オッペンハイマーは遺伝的な進化と石器様式を対比的に考えるべきではないと力説しているが,本書では5万年前頃に遺伝子も文化も大きく変わったという説明方式になる.5万年前直前に東アフリカのごく限られた地域に数千人の集団があり,そこで遺伝子的にも文化的にも現代的なホモサピエンスが出現し,アフリカ各地と全世界に広がっていったというのが基本シナリオで,アフリカの遺伝多様性については数千人のうち150人のグループのみ出アフリカしたことによって説明できるということのようだ.もっともこれに対する反論も本書の中では紹介されている.


言語についても石器様式から推論を進めていて,またFOXP2も文法遺伝子として紹介しており,やや強引な印象.また現代のクン・サン族がもっとも祖先集団の言語の特徴を良くのこしているという推測から祖先言語には舌打ち音があったと主張しているが,やはり根拠は弱いように思う.


ミトコンドリアY染色体の分析から再構成された出アフリカ以降の人類の足跡については,初期年代,アメリカ進出以外は「人類の足跡10万年史」とほぼ符合している.年代については冒頭にも述べたが,遺伝子分析よりは考古学の証拠の方を信頼すると述べるに止まっており,ちょっと物足りない.アメリカの進出についてはオッペンハイマーは懐疑的であったグリーンバーグ説を採っている.

出アフリカ後の歴史としては定住と農耕の問題に触れている.少なくとも中東ではまず定住がはじまり,その後に農耕が生じたことが本書の主張だ.またイヌの起源を取り上げており,東アジア起源であること,もともと番犬として始まったであろうこと,さらに私有財産の嚆矢であったであろうという推測まで述べられている.


社会性の進化についてもチンパンジーボノボとの対比から始まって(ボノボの融和的な社会はゴリラと共存していないことからの帰結だという仮説は興味深い),ヤノマモ族までふれている.狩猟採集社会がかなり暴力的な社会であることは今ではかなり共通理解になっているように思うが,初期の考古学者の平和神話に寄り添うような解釈を辛辣に皮肉っているところもあって面白い.異色なのは食人風習にふれていて,狩猟採集社会では広範囲にあったであろうこと,プリオン病に対する耐性遺伝子がいろいろな民族である程度見られるのは過去の食人と関連しているであろうこと.BSEへの耐性もそれに含まれるであろうことが書かれていてここも異色だ.このあたりの記述では社会的な行動を単独遺伝子で説明しようとする記述が多く,ややスロッピーな感は否めない.宗教についてはチーターへの対抗として説明しようとしているが,この論拠も厳密を欠くだろう.


足跡以外の本書の主張の力点は出アフリカ後も人類は進化し続けているということを強調しているところだ.乳糖耐性やマラリア耐性の話はポピュラーだが,脳の増大にかかる遺伝子,ユダヤ人の知性まで扱っているのは異色だ.そしてそれは現代において,肌の色ではなく,遺伝的な多様性の観点から「人種」を記述することができるし,さらに遺伝的な違いによる医療の効率性の観点からそうした方が良いという主張がされている.ここはなかなか微妙な部分だ.「政治的に正当な」問題から,本来きちんと研究されるべきことが抑圧されているのではという問題意識はよくわかる.著者はニューヨークタイムズに関わっていたことからもわかるように「政治的に正当な」言い回しには手練れだけに,なかなか踏み込んだ記述をあえておこなっているのだろう.もっとも本当に人種特異的医療が有効かどうかについては,最近認可された黒人用医薬については一部疑問視する向きもあり微妙だろう.


またユーラシア言語の祖語推定に,最尤法を適用した生物学者べーゲルが紹介されているのもおもしろい.この主張の説得性についてはよくわからないが,分野を超えた統計手法の利用としては興味が持たれる話題だ.最後にこぼれ話としてチンギスハーンのY染色体ユダヤ民族の伝承を裏付けるY染色体,ジェファーソン大統領の隠し子の話が紹介されて本書は終わっている.


中にはこれはどうか思われるような主張に加担して紹介している部分もあるが,興味深い話題を豊富に紹介してくれるのはこのような本のありがたいところだろう.「人類の足跡10万年全史」とあわせて読むことをお勧めしたい.



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