「類人猿を直立させた小さな骨」


類人猿を直立させた小さな骨―人類進化の謎を解く

類人猿を直立させた小さな骨―人類進化の謎を解く



あまりにださい表紙カバー,進化生物学書籍ではあまり見かけない出版社,そして著者が外科医兼生物学者だというあたりから実に微妙な雰囲気を醸し出す本である.著者は実はグールドの教え子の1人なのだ.読んでみるとそれはそれは濃厚にスティーブン・ジェイ・グールドの世界が広がっている.いかにもグールド的な全編を貫く強引な主張に思わずめまいがする感覚が味わえる.もっともすべてがトンデモというわけではなく,人類進化に関してのまじめに考えるに足る主張もなされているが,とにかくもグールドがアメリカに残した知的影響の大きさがしっかり実感できる本だ.


本書から最初に感じられるのは,まさにグールド的な,正統的な現代進化学への微妙な誤解である.ダーウィニズムの神髄は自然淘汰というメカニズムなのだが,なぜか著者(そしてグールド)によるとそれは漸進的な進化しか説明できないことにされてしまう.
というわけで本書の前半は最近のエヴォデヴォの知見がダーウィニズムに変更を迫る知見だとして得々と紹介される.原口動物と新口動物のボディプランの反転やHox遺伝子の変異によるボディプランの組み替えがそうだというのだが,正直このあたりはややしんどいところだ.発生の仕組みは今後詳細がわかってくるブラックボックスで,いろいろな制約・拘束があったり,場合によっては単一の変異で大きな変更が生じるだろうというのは十分現代的進化学の理解の範囲内だと思うのだが,(そしてドーキンスらがそう主張しているということも知りながら)そこは著者には見えないのだ.グールドはもしかしたら(政治的アジェンダで,あるいは自説の断続平衡説を擁護するために)確信犯的に進化における偶然性を強調していたのかもしれないが,それを真に受けて論じられるとやや悲しい気分になる.


つづいてそれを巡って,過去ことの本質に気づいていた先駆者の歴史エピソードとして,ゲーテの脊椎原型説とジョフロワによる動物のボディプランの一貫性の考えの紹介がなされる.また続いて種の定義に踏み込み,マイアの生物学的種の定義とヘニックの系統学的種の定義を巡る蘊蓄,そしてオーウェンの「相同」を巡る物語が語られる.ジョフロワがナポレオンのエジプト遠征に参加したときのエピソード,ヘニックの分岐論の主張を巡る論争など興味深い話も記されている.この歴史的蘊蓄話炸裂のあたりは良い意味でいかにもグールド風だ.もっとも中にはいきなり「染色体複製による種分化」とか,「Hox突然変異により,脊椎の5分割,上腕下肢の5分割,指の5本化が一度に進化」という微妙な主張がなされている部分もあり,ちょっと怪しい雰囲気も醸し出される.


ここで話は一転してグールドが「The Structure of Evolutionary Theory」で主張している「複数レベルでの選択説」を最大の賛辞とともに紹介している.この大著は未読なので,ある意味要約として興味深いと思って読み進めるが,しかし読んでいて感じるのは,グールドの進化の論理の混乱あるいはぐちゃぐちゃぶりだ.私はここでいう「高次レベルでの選択」がどのようなメカニズムで生じるのかが理解できない.ここにもグールドが,(やはり政治的なアジェンダあるいは別の理由により)どうしても複製子レベルとヴィークルレベルの違いがわからないふりをし続けたことが残した影響が読み取れる.
このあと本書ではエヴォデヴォの知見がグールド説でのみ理解できるという話がしばらく続く.このあたりは興味深いエヴォデヴォの知見としてのみ読み進めることになる.


最後に著者は興味深い仮説を紹介している.それはモロトピテクスの椎骨の化石から導き出した人類進化に関する仮説だ.本書のこの部分はまじめに読むに足る内容だと思う.モロトピテクスというのは21百万年前の類人猿だが,この椎骨から見てこの類人猿は直立していたというのが著者の見立てだ.その骨の構造に絡む議論には説得力がある.(もっとも直立歩行していたのか,単に懸垂姿勢だったのかはよくわからないという印象だが)
そして著者はこのほかにも古い類人猿の中には直立姿勢だったと思われるものが多いと指摘し,人類に至るまで現生類人猿との共通祖先は皆直立であったという仮説を提示する.テナガザルやオランウータンは直立姿勢に近い.チンパンジーとゴリラは森の中にニッチを見つけて独立に斜行姿勢を進化させた.オランウータンはナックルウォークではなく,チンパンジーとゴリラのナックルウォークは微妙に異なっていて平行進化したものだ,腰椎骨の数がモロトピテクスからテナガザルまでは5つ以上あり,チンパンジーとゴリラは4つ,人類はまた5個以上になっているのはチンパンジーとゴリラが特殊化していると解釈すべきだ等々という主張だ.


この仮説については,その他の化石類人猿も本当に直立していたのかがまず問題になるだろう.(モロトピテクスが少なくとも懸垂姿勢だったことは認められているが,その他の化石類人猿については通説ではないようだ)
そこを認めるとすると直立姿勢が何度か独立して進化したのか,斜行姿勢が2度独立して進化したのかについて証拠がないという状況だという印象を受ける.私個人としてはチンパンジーとゴリラがあれほど似ているのだから,共通祖先はああいう動物だったと考える方が自然だし,モロトピテクスが懸垂姿勢を独立に進化させた動物だったと考える方が節約的な気がしているが,いずれにせよこれは今後発見される証拠により決めるべき問題だろう.ヒトは人間のみ独自だというバイアスにとらわれがちだというグールド的な声が聞こえるような気がしてちょっと面白い仮説というべきだろう.


ところどころ楽しかったり興味深かったりする部分もないではないが,全体としてずれてしまった土台の上に立てられた大きな建物という感じの本だ.訳もちょっと微妙で(あまり進化生物学に造詣のない訳者のようだ.個々の訳語も微妙に変だし,例えばテナガザルとヒヒの区別がわかっていないような部分もあり読みにくい),グールディズムをたっぷり浴びたいという人にのみお勧めしておこう.




関連書籍


The Upright Ape: A New Origin of the Species

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原書 毎度のことながら,こちらのカバーの方があるかにおしゃれだ.一体邦訳書のこの絵の方が良く売れると思う根拠は何なのだろう.





The Structure of Evolutionary Theory

The Structure of Evolutionary Theory

グールドの大作.何しろ分量は巨大.あちらの書評などを読むとなかなか通読する勇気がわかない.



http://nervemed.libsyn.com/
なお本書関連のサイトもある.各類人猿の動画などもあってちょっと楽しい.