「ヤナギランの花咲く野辺で」

ヤナギランの花咲く野辺で―昆虫学者のフィールドノート (自然誌選書)

ヤナギランの花咲く野辺で―昆虫学者のフィールドノート (自然誌選書)



これはかなり前に出版されているもので,沓掛先生のブログ http://d.hatena.ne.jp/shooes/20080816 で紹介されていた一冊.ベルンド・ハインリッチは「マルハナバチの経済学」で有名な昆虫の研究者だ.本書は著者がたどってきた人生と研究生活を振り返りながら,その時々の生物との出会いや研究の中身,動機などの裏話が綴られている.淡々とした叙述振りだが,その人生の紆余曲折が(特に前半部分で)強烈なのと,研究にかかる部分が真摯に描かれていることで印象深い本に仕上がっている.また著者本人による数多くの挿絵もいかにもナチュラリストの手によるもので魅力的だ.


最初に強烈なのは著者の生い立ち.著者の父はアマチュアの動物研究家(世界中の博物館に標本を売っていたりもしていたそうだ)で現在のポーランド領に住むドイツ人だったが,祖母がユダヤ人であったため,ナチによる迫害を逃れるためにドイツ空軍に入隊する.そして第三帝国の崩壊とともに迫り来るソ連軍からいかに逃れるか,一家のぎりぎりの脱出行が何回も続く.あわやというところで何とか米軍占領地帯に逃げ込むが,そこもドイツ分割でソ連に引き渡される直前,姉と懇意にしていた米軍兵から「とにかく橋を渡れ」と教えられて間一髪で西ドイツに落ち着く.このあたりはスリリングだが,淡々と書かれていて,子どもであった著者自身の実体験だという深みが逆に感じられるところだ.
ようやく西側占領地域のドイツにたどりついても着の身着のままだった一家は,森で自給自活の生活を何年も続ける.このあたりの思い出は空軍基地で見たレンギョウの花,ドイツの森のアオガラ,エナガ,トガリネズミ,アリジゴク,オサムシなどの描写と不思議なハーモニーを持って語られる.
ドイツの森で5年間暮らした一家は著者が10歳の時にアメリカに渡る.落ち着き先のメイン州の自然の描写も美しく,ヒメバチやヤマシギの生態が語られる.大学に進む際には最初に林学コースに進むが,父の採集旅行にアフリカについていき,生物学を学ぶ決心をする.この際のアフリカの自然の描写と進化適応した動物の行動の不思議について目覚めていく物語もなかなか味があっていい.


このあたりから本書は研究物語になっていく.スズメガの体温の不思議,彼等は恒温性なのか,どのように体温調節しているのか,その適応的な意義は何か.まずスズメガの手に入る限りの文献を読みあさる話,体温測定を巡るテクニカルな詳細,ライバル研究者のデータとの間にある謎.ひらめきと新しいデータ,問題の解決とわくわくする体験談だ.
そして著者の研究対象はマルハナバチに移る.このハチを深く研究するうちに,彼等がいかにエネルギー効率最適化で説明できる行動様式をとっているかが徐々に明らかになる.アダム=スミスについての考察まで披露されていてこのあたりはさすがに深い.
その後はミツバチの分封行動の効率性,アフリカのクソコガネのエネルギー効率,ミズスマシの群れ行動と採食効率,ケムシの葉の採食戦略,対捕食者戦略(いかに捕食者から目立つ食痕を作らないか,有毒種と警戒色と擬態)アリジゴクの最適捕食戦略,スズメバチのエネルギー戦略などの研究紹介が続く.淡々と語られているが,中には「スズメバチに刺されるのは1日3回が限度だから」などという記述があり,ということはデータ採集のために毎日2回刺されていたのかとその根性というか迫力に驚かされる.
また冬期に体温が氷点下と低いまま飛べるように適応したガと飛翔筋を震動させて熱を作り出すガと同じ問題に解答が複数ある例を示し,メイン州の自宅の周りの自然の中にもまだまだ謎があることを具体的に例示しつつ本書は終わっている.


研究内容は,エネルギーや捕食効率から見て,いかに生物が最適化しているかが中心で,行動生態学というよりエソロジー的.一流のナチュラリストかつリサーチャーの鋭い視点,飽くなき探求心,粘り強い取り組み姿勢を間近に感じることができる.叙述は多岐にわたるようで円環をなしているようで,多面的で不思議な魅力を持つ本だ.