「こころと言葉」

こころと言葉―進化と認知科学のアプローチ

こころと言葉―進化と認知科学のアプローチ



これは東京大学21世紀COEプログラム「心とことば−進化認知科学的展開」の成果の1つを1冊にまとめたもの.(心と言葉のひらがな漢字表記が本書の表題で逆転している理由は定かではない)多くの研究者のエッセイをまとめた3部構成になっていて,第1部は進化生物学的に見た言語,言語の起源・進化が扱われている.第2部は言語学からのリサーチ,第3部は認知科学からのリサーチという構成だ.



第1部「進化からことばを見る」



幅広い読者のためか,まず生物進化全体を解説するエッセイが冒頭におかれている.
斎藤成也による「言語能力獲得にいたる生命進化の諸相」


冒頭では生物の系統分類とヒトの位置を概説し,こころに関連する神経系の進化を解説している.

その後は斎藤独自の考察が収録されている.言語を進化させる前提条件として,複雑な世代間学習を可能にする子育て,また前肢の複雑な運動制御とそれによる同種個体間の何らかの信号伝達などが考察されている.このあたりはなかなか興味深い.

論理的思考と言語の関係については,思考は言語とは独立にあり,言語以前に高度な思考が存在している可能性があるのだと議論している.(このあたりはワーフ仮説とも関連しているようだ.最近よく議論されているのだろう,本書のほかの論稿でも繰り返し取り上げられている)

そのあとは,遺伝学者らしく言語と遺伝子の関係について解説がある.特定の遺伝子が言語と1対1に結びついている必要はないことが説明され,FOXP2遺伝子にかかる最近の知見などが紹介されている.

遺伝学から踏み込んで考察されているのは発音と意味の関係について.言語学ではそれは恣意的だと簡単に片付けられているが,言語の初期段階ではそれは大いに関係があっただろうと議論している.今後発音時の脳神経の状態,情動との関係が解明されるのではないかという推測だ.
最後に言語を可能にした神経系の大きな特徴として「自己言及」をあげている.少し後で長谷川眞理子が「再帰性」を挙げているが同じ趣旨だろう.確かに脳神経系の研究とあわせると面白い知見が得られるかもしれないと思わせるところだ.

後半は自由にいろいろ論じていて(中立進化擁護ムードもなく)楽しい小稿だ.




2番目は岡ノ谷一夫による「言語の起源を探る生物学」

自らのジュウシマツのリサーチを紹介しながら,言語進化の前提条件であっただろう前適応にはどのようなものがあったのかを論じている.

まず発声制御と発声学習.これには潜水や飛翔などが有利になる呼吸制御が前適応になっているのではないかという議論がある.岡ノ谷はアクア説を擁護するのではなく,ヒトにおいてはグループ性から幼児の被捕食リスクが減少し,泣き声をあげて親に信号を送ることが有利になったことが発声制御の前適応だっただろうと論じている.なかなか面白い考えだ.


音と意味の対応については,有名なベルベットモンキーの捕食者ごとの警戒音を紹介しつつ,このような状況依存的発声が前適応だっただろうと推測し,しかし生得的対応がどのように学習対応になったのかなど課題は多いとしている.このあたりは単なる思いつきの域は出ていないようだ.

音の組み合わせによる統語能力はどうか.岡ノ谷は自らのジュウシマツのリサーチから,それは性淘汰におけるハンディキャップシグナルとして進化したのではないかと示唆している.(「文法の性淘汰起源説」)今後の面白い研究エリアだろう.

象徴性と統語性の融合については,歌を歌う霊長類から,その複雑な歌が,周りの状況との共通要素を分節化するという効果を生んでいったという仮説を提唱している.(「音列状況相互分節化仮説」)このあたりはまだかなり先の話になりそうだ.

言語の起源について研究を続けている筆者ならではのエッセイだという感じだ.



3番目は長谷川眞理子による「ヒトの進化と言語獲得の背景」

言語能力の進化について究極因から考察をし,現時点での筆者の考えをまとめている.

一番最初に言語能力が適応性質なのかそうでないのかについて述べられている.一度でもピンカーを読んでしまうとそうでないとはとても思えないところだが,チョムスキーやグールドが反対しているので,論争としてはまず片付けておかなければならないということのようだ.

長谷川は,現在の進化生物学のさまざまな知見を総合すると言語能力が適応性質だということのほうがありそうだといい,確かにそれは証拠がまだない直感だが,反対論者の言っている創発だの副産物だのという議論だって直感に過ぎないと切って捨てている.


それから人類の進化について概説している.社会脳仮説,脳容量の拡大ペース,ネアンデルタール人喉頭骨,FOXP2などだ.

次にチンパンジーとヒトの比較を行っている.生活史,社会生活,認知感情面での違いを整理している.

ここで大脳の増大にかかる2004年のリサーチが紹介されていて,まず食性が肉食に変わり,噛む力が必要なくなって,咬筋,側頭筋が頭頂部からなくなって,脳の増大が可能になったという因果があるのではという仮説を取り上げている.これは脳の増大があってはじめて食性変化が可能になったという逆の因果もありうるところであって,何故こちら向きの因果のほうが強いのかが示されていない.ちょっと読んでいてよくわからないところだ.


さて,ここからは長谷川のヒトの生活史戦略の理解からの考察がなされている.脳の増大のために子供は出産後非常に手間のかかる子育てを行う必要があり,それを可能にするために愛情の絆形成が強くなるという理解だ.増大した脳は自意識を生み,深いレベルの「心の理論」「共感」が可能になる.そしてそれが積極的に適応的価値を生むのは子育てをする母親であるということになる.親は子に働きかけ,(チンパンジーでは消えてしまう)新生児模倣を強化し,ミラーニューロンもあいまって動作模倣を生む.そしてそれは指示コミュニケーションにつながり,身振りとものとのつながりを理解するようになる.つまり「意味性」が獲得される.

そして心を理解するために「再帰性」についての計算ができるようになり,それが意味性とあわせて言語が生じる素地ができるのだと議論されている.

付け加えて,思考はもともと言語とは独立にあったのであり,言語は母子のコミュニケーションの道具として進化したのだろう.こう考えると言語能力にかかる性差,子供が回りの世界の叙述的発話を行うこと(これは言語を教えられた類人猿にまったく見られないヒトの特徴だ.注意の共有を図り,絆形成が強化される機能があると考えられる)が説明できると考察している.長谷川は最後に,どのように身振りから音声になったのかは今後の課題だとしている.

なかなか流れるような説得的なストーリーだ.興味深い仮説のように思う.




第2部は言語学からのエッセイが並んでいる.


そのなかでは編者の一人,C.ラマールの「言語変化と機能語」というエッセイが面白かった.

これは助数詞という現象を扱っているもので,1個とか1匹とかの「個」「匹」というような単語が世界の言語のなかではどのように分布し,どのように変遷してきているのかを説明しているもの.まず分布が面白い,助数詞を使う言語は東アジア,東南アジアに分布が集中しているが,そのほかの地域でもぽつぽつ見られるようだ.そして実際に用法を詳しく見ていく.英語,中国語,日本語の例を対比してこのような現象が「あるかないか」の2つに分類できるものではなく,勾配をもっていろいろな状態にあるいろいろな言語が存在することを示している.そしてそれは次に示される「冠詞」の分析,「補文標識」の分析からも同じような状態であることがわかるのだ.

私から見ると,これらは,言語の深い構造がヒューマンユニバーサルとしてあって,パラメーターにより調整されている,そしてそれは短い歴史的な時聞により可変である(冠詞はラテン語にはなく,フランス語,イタリア語などで採用されたのはそれほど古いわけではないらしい)という考え方と整合的な事実のように思われる.ラマールもこのような文法化カニズムの背景に,人間のきわめて一般的な認知パターンが潜んでいる可能性が高いと述べている.

それはさておいても,助数詞や冠詞について通常同じとされている言語の違いなどがわかり大変興味深い論考だった.(テキス卜としてハリー・ポッターの日本語訳と中国語訳が使われているのもちょっと面白い)

ふたつおいて中澤恒子の「“come”が「来る」でないとき」もラマールの論考と同じでで,それぞれの言語で「来る」「行く」にあたる2つの単語がどのような条件で使い分けられるのかを考えている.そしてやはり勾配を持ったいろいろな言語現象が現れるのだ.


田中伸一の「音から迫る言語学」は音韻に関する法則を考察しているもの.

英語ではLとRの音に関しては同じ単語内で連続できないという規則があって,これによって形容詞形が -al になったり -ar になったりするのだ.日本語では似たようなおなじ単語内での濁音にかかる規則があって,このため「書いた」は清音,「嗅いだ」は濁音になるという.やはりこれも何かヒューマンユニバーサルが現れているようだ.


藤井聖子の「話し言葉の談話データを用いた文法研究」は何故「〜ないと」「〜なきゃ」「〜なくちゃ」がそうしなければならないという義務を表すような表現になるのかを考察している.そしてそのために談話データを大量に取って解析するという手法を紹介している.結論は,そのような表現の後には否定的な文言が来ることが多いのでそういう意味になったのだろうという常識的なものだが,方法論の紹介としては面白かった.

それにしても現代日本語で,義務や必然を表すには「ねばならない」と6音節も必要になる.文章を書いているときに(キーボードで指がもつれたときなども)「ベし」という助動詞の用法が失われてしまったのは残念だと時々思わずにはいられない.




第3部は認知科学からのエッセイ


編者の一人である伊藤たかねの「ことばの脳内処理」がなかなか面白かった.

ピンカーを読んでいると,規則動詞の変化と不規則動詞の変化という2つの処理方法が言語においていろいろ並存しており,それには異なる認知処理なされているということが強調されている.Words and Rulesという本には一冊丸々それが書かれている.

この小稿で伊藤は動詞の使役形について同じ現象を指摘し,さらにその処理をしているときの脳内イメージングで,確かに異なる認知タスクとして処理されていることを示しているのだ.取り上げられている現象は「乗る」という動詞に対して「乗せる」という使役他動詞形があるものと「せる」という使役助動詞が付いた「乗らせる」という形だ.使役他動詞は規則的ではなく,語彙として覚えなければならない.助動詞は動詞に対して規則的につけることができる.さまざまな使役表現については最近ピンカーの「The Stuff of Thought」を読んだばかりだったので大変興味深く読むことができた.そしてそれが脳損傷患者の症例やイメージングによって確かに異なる認知タスクになっていることが示されている.

ピンカーを信じていればある意味当然ともいえるが,このような研究は今後さらに実り多い知見をもたらしてくれるだろうと思うとなかなか楽しい.


今井むつみの「事物の認識の普遍性と言語,文化の影響」はサピア=ワーフ仮説の弱いバージョンに関連したもの.

言語によって思考は影響を受けるのかどうか.それを助数詞のカテゴリーが事物カテゴリーの認知に影響を与えるかどうかとして,いくつかの言語について調べたもの.結果はごく一部(中国語話者が事物カテゴリー分けを行う際に弱い影響が現れる)のみ影響が現れ,全体としてはその効果はないか,あっても非常に弱いものだというものだった.(日本語話者にとっては助数詞の使い分けが事物カテゴリーに影響を与えない)これはピンカーのまとめをほぼ裏付けるものだろう.

今井はそのような結論を認めながらも,ではなぜ動物性やかたちの次元性などの意味特徴が世界中の非常にかけ離れた言語のあいだに共通に存在するのかと疑問を呈している.しかしこれはヒ卜のこころのユニバーサル性を認める立場からは,答えはあまりにも明白だ.時にヒトは自分が使っている言語から思考に対して何らかの影響を受けることはあるだろう.しかし思考は言語により構成されているのではなく,それと独立にユニバーサルなこころがあると考えればよいのではないだろうか.



最後は田中久美子による「言語の文節に普遍的に観察される統計的性質」

言語解析技術の最前線.コンビューターとネットワークの発展により,過去考えられなかったような自然言語のデータが集積し,それを力任せに分析できる時代になっていることが紹介されている.とりあえずここでは単語の切り分けについての量的分析が示されている.人工知能による自然言語の扱いなど,工学的に興味深いところだといえるだろう.



本書はさまざまな研究者からいろいろな視点で語られたエッセイが寄せ集められたものだ.すべてが緊密に連関しているわけではないが,ピンカーを読んだばかりの私にとってはなかなか興味深いものが多かった.進化的視点,認知科学の視点から言語に興味のある読者にはなかなか参考になる本に仕上がっているのではないだろうか.




関連書籍

Words and Rules: The Ingredients of Language

Words and Rules: The Ingredients of Language

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature


ピンカーの著作.前者は規則型と不規則型を巡る物語.動詞の活用形や複数形などを使って丁寧に議論されている.
後者は最新作.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20080925



世界の言語と日本語―言語類型論から見た日本語

世界の言語と日本語―言語類型論から見た日本語


私は言語学の本をあまり読んでいるわけではないが,この本は,世界の各言語の様々な特徴が,ある次元に沿って連続して勾配を持っている様子をよく示してくれていると思う.