Bad Acts and Guilty Minds 第1章 必要性 発明の母 その3

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)


さてカッツはここでスペルンシアン星のケース,つまり「必要性の原則」から少し離れてそのほかの犯罪阻却事由を見ていくことになる.


最初に取り上げられるのは,車の窃盗をやるから仲間に入らないかといわれて承諾,車を運転して目的地に行ったら,仲間がいきなり警官を殺害,そのまま逃げるための車の運転を手伝ったところ,謀殺の共犯で訴追されたというケースだ.彼は「それをするしかなかった」と供述した.
次に朝鮮戦争で北に捕虜になった軍人が巧妙な共産主義の洗脳を受けて反米放送に協力したというケースだ.


カッツはこれらはどう考えればいいのだろうと問いかける.
そしてまず関連のありそうな法原則から説明を始める.


まずコモンローには「Principle of Duress」「強制の法理」と呼ばれるものがある.


参考書を開いてみるとこれは以下のような原則だ.

謀殺をのぞく犯罪について,犯罪を犯さなければ殺すあるいは重傷を負わせる旨を,ある者が,行為者,第3者(特に親しい親戚)に脅迫し,行為者がその脅迫が本物であると相当な理由を持って確信し,脅迫が犯罪行為時に「現在し,切迫し,そしていまにもおこなわれそう」であり,要求に従う以外に脅迫から逃れる方法が全くなく,行為者に脅迫を受けるに至ったことに落ち度がない時に抗弁として認められる.

要するに脅迫されたときには謀殺以外の犯罪について抗弁ができるという原則らしい.認められるのはかなりまれな厳しい原則のようだ.謀殺が駄目というのがいかにもコモンローらしい「理屈より現実」風な解決だ.


日本刑法にはこのような明文規定はない.絶対的にあらがうことができないような場合(銃を突きつけられて命じられたような場合)には「行為性」を否定できるだろうが,通常の脅迫の場合には犯罪でなくなることはないという前提なのだろう.ただし緊急避難の要件(緊急の侵害をさけるためやむを得ない,同害を超えない)を満たせば違法性阻却が可能だ.これで読めない場合には誤想避難,さらに難しい場合には「期待可能性」の議論で責任阻却を考えるということのようだ.



アメリカ法では,強制の法理は,そのような人には通常の行為が期待できないという「同情」「理解」が犯罪阻却の基礎であり,これは基本的には違法性阻却ではなく責任阻却だと一般には理解されている.違法性阻却か責任阻却かは,共犯の成立,これに対する行為が正当防衛になるかにかかわるので重要だ.
しかしカッツは,違法性阻却と責任阻却は実はそんなにきれいに区分できるものではないと面白い議論をしている.こんな感じだ.

緊急避難は違法性阻却だ.誤想避難(緊急の侵害があると誤想した場合)は故意が阻却されるので責任阻却だ.しかし誤想したことに正当な理由があれば,それは違法性阻却に近くなる.緊急の侵害自体もっと前もって準備しておけば防げたかもしれないと考えると責任の議論に近くなる.


カッツは,物事を突き詰めていくと「許したいから許す」という世界に入り込むということが言いたいようだ.このあたりはいかにもアメリカのプラグマティックな法律論で,ドイツ観念法的な影響を受けた日本にはあまりない議論のようだ.
しかしヒトが誰かを罰したい,許したいというのは最終的にはこのようなきちんと理由が説明できない根源的な判断なのだろう.その意味でなかなか深い議論のような印象だ.


カッツはさらに「強制の法理」は実務的には難しい問題があるのだという.
つまりこれを広く認めると,マフィアやテロ組織に脅迫されている人間はいくらでも人を殺すことができる(だからコモンローでは謀殺にこの法理を認めていないのだろう)
今脅迫されている臆病者を救うか,罪のない将来の被害者の立場に立つか,これは法の持つ究極のジレンマの1つなのだという.確かになかなか難しい問題だ.
日本ではどうなっているのだろうか.結局このような問題があるから,脅迫による犯罪阻却のような一般規定がないのだろう.恐らく,犯罪組織の下っ端については脅迫されたことを理由にする緊急避難の適用やその他の責任阻却を認めないのだろう.構成員でないものが脅迫されていた場合には期待可能性による責任阻却の有無が問題になるだろう.実務的にはケースバイケースで不起訴にしているのだろうか.