進化論の射程―生物学の哲学入門 (現代哲学への招待Great Works)
- 作者: エリオットソーバー,Elliott Sober,松本俊吉,網谷祐一,森元良太
- 出版社/メーカー: 春秋社
- 発売日: 2009/04/01
- メディア: 単行本
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本書は哲学者エリオット・ソーバーによる進化生物学周りの興味深い論点を取り上げている哲学書である.原題は「Philosophy of Biology」.いわゆる「生物学哲学」の著作であり,シリーズ「現代哲学への招待」の中の一冊ということになる.エリオット・ソーバーはマルチレベル淘汰論を主張するD. S. ウィルソンと「Unto Others」を共著していることで知られているし,体系学論争にも著作がある.
翻訳は松本俊吉,網谷祐一,森元良太という進化生物学に造詣の深い哲学者が行っていて,正確でわかりやすく安心感がある.*1 *2
最初のトピックは「進化」そのものについて.
通常の集団遺伝学的な「進化」の定義は「集団内の遺伝子頻度の変化」ということだが,ソーバーはこれを否定している.
- 対立遺伝子頻度は不変だが,同類交配によりハーディワインベルグ比からずれたときに進化が起きていないことになってしまう.
- ミトコンドリアDNAの変化も進化の定義から外れてしまう
- 染色体システムの確立前の進化過程もこの定義では捉えにくい.
さすがに哲学者らしく指摘が厳密だ.最初のような場合は極めてまれだし,二番目は定義を少し広げれば救えそうだし,3番目は確立後の生物進化の研究についてはさしつかえない定義ということになるだろうという気もする.いずれにしても唯一正しい定義はないというのは指摘のとおりだろう.ソーバーはこれは「種」と同じで厳密に定義できない概念だと結論している.
進化生物学の法則についても面白いコメントがある.科学の法則には物理法則のような「いつでもどこでも何にでも適用される」普遍的な法則と,天文学や通常の生物学でよくみられる「ある個別のものの特徴を示す」個別の法則の二種類があるが,進化生物学の法則には普遍的なものが含まれるという指摘だ.
次のトピックは「創造論」
まず創造論の歴史的なとらえ方を解説している.ベイリーの議論は「神が生物を作った」という仮説と「生物が偶然できた」という仮説の尤度を比較して神仮説を選んでいる.ダーウィンはここに尤度の高い第3の仮説を加えたのだという解釈だ.これはドーキンスも盲目の時計師で同じようにベイリーを評価していたように思う.
次にソーバーは,議論している人たちと議論自体を分けなければ駄目だと注意してから(つまりいかに創造論者が過去お馬鹿な間違いをしているかと,議論の組み立ての是非は別だということ),創造論がポパー流の仮説検定できるものではないから科学ではないという主張は間違っていると指摘している.ここはなかなか面白い.
まずポパーの考え方にはいくつか問題があると指摘している.
- ある主張は別の主張と組み合わせて連言命題にすればどんなものでも反証可能にできる.
- あるものが存在するという命題は反証不可能で,存在しないという命題は反証可能になる.
- 確率言明は厳密には反証不可能だ.
- 補助仮説次第でどうにでもなる.
この補助仮説次第ではどうにでもなるというのは面白いとらえ方だ.要するに「神は合理的な生物を作った」という仮説は反証できるが,「神は人が進化があったと誤解するように生物を作った」とすれば反証できないことになるということだ.ソーバーは後者のような仮説を考える場合,補助仮説は独立に検証できなければならないと指摘し,そして創造論を科学として認めるかどうかについては,そのような補助仮説をきちんと定式化できていないところが問題になるのだと結論している.もっともそれぞれ別の仮説と考えて個別に判断すればいいのではないかとも思えるところで,なぜ本仮説「神が生物を作った」と補助仮説「神が生物を作るとするなら人が進化があったと誤解するような仕方で作るだろう」を分けて考察した方がよいのかはよくわからなかった.
「適応度」について
確率についての哲学者らしい議論の後で,適応度の測定には,頻度を計測するという方法と,その仕組み・過程を考察するという方法の2通りがあること,全体としてのダーウィンの主張は経験法則であってトートロジーではないことを解説している.ここで面白いのは,物理学の法則は,ある観察事実から導き出される経験法則であり,生物学でもそういう法則が主流だが,中には数学の定理のように前提から結論が演繹的に導き出されるようなものがあるという指摘だ.確かに数理生物学にはそのようなモデルからの演繹的な定理のようなものがある.ソーバーはそれは美しい数学と同じように価値があるものだといっている.
最後にソーバーは適応度は「相関」であり,有利さは「因果」であるという議論を行っている.
お待ちかねの「選択の単位」の問題.
ソーバーは,明確にドーキンス,ウィリアムズの遺伝子選択単位説を批判している.いろいろ議論されているが,私の理解では要するに,「遺伝子にとって有利であればその遺伝子頻度が増えるというのは自明でつまらない言明であり,直接の因果関係を捉えているかどうかが重要であるべきであるから,その因果関係が直接的にあるレベルで選択を論じるべきだ」ということらしい.だから遺伝子を選択単位として議論するのがふさわしい現象はマイオティック・ドライブのような現象だけであり,通常の形質の進化は個体レベルで,利他性の議論は集団レベルで(ただし個体間に遺伝子の相関性がなければならないという条件がある)選択が働くのだということになる.さらにハミルトンの包括適応度については集団レベルで淘汰を考えてこそ,その意味(集団内の遺伝子の相関)が理解できるのだと主張しているようだ.
私にとってこの議論にはいくつもの違和感がある.まずドーキンス,ウィリアムズの議論とハミルトンの議論を異なるもののように扱っているが,私にはそうは思われない.ドーキンスの議論はハミルトンの議論をよりわかりやすく示しているだけではないのだろうか.またソーバーの議論のポイントである「直接の因果関係でなければならない」ということの理由がわからない.より抽象的でエレガントでリサーチプログラムに有用である理論があるとして,なぜそれが否定されなければならないのだろう.またソーバー,D. S. ウィルソンのマルチレベル淘汰論とハミルトンの包括適応度理論は理論的に等価であることにもきちんとした言及がない.まさにソーバーが創造論を議論しているときに示したように,包括適応度理論で遺伝子選択の立場で物事を見るのと,マルチレベル淘汰で物事を考えるのではどちらがリサーチプログラムとして生産性が高いのかの議論を行うべきではないのだろうか.本章はやや意固地になっている老学者の主張のようになってしまっているように感じられる.
スパンドレル問題「適応主義」について
基本は「適応主義」は1つのリサーチプログラムと解釈すべきで,それに何ら悪いところはないし,定量的な最適性のテストができるようなものがあれば,最適性の仮説自体も生産的なリサーチプログラムとして十分肯定できるというという主張だ.この中ではまたもドーキンスの主張にかみついていて,「脊椎動物の眼のような複雑で機能的な形質については適応は唯一の説明だ」という言明は言い過ぎだと批判している.様々な浮動や副産物のような形質も含まれている可能性があるということが議論のポイントだ.このあたりもドーキンスが「眼のあらゆる形質は『すべて』適応の産物だ」といっているのかどうかにかかるもののように思われ,言葉尻を捉えた言いがかりのようで違和感がある.
【種】問題と体系学論争
この問題も大論争があった分野であり,ソーバーの議論は込み入っている.大きく言うと「ダーウィン以降【種】を自然種(natural kind)と見る本質主義はその基礎を失った.【種】は歴史的な存在であり,個物と考えなければならない.また【種】の境界は不明確.結局限界事例がどれだけあるかという実務の問題になる」というという議論がなされている.
体系学論争については,分岐学,表型学,進化分類学の3つの立場が論評されている.表型学については,分類が真に階層的になる理由がないこと,どの形質にどのように類似度の重みを与えるかの基準がないことが問題だと指摘し,進化分類学についてはどのような場合に側系統を認めるかの基準があいまいだと批判している.本章の記述は過去の激しい論争がしのばれるものだ.
「社会生物学論争」
論争自体にコミットすることはなく,いくつかの哲学的なトピックを解説するという記述だ.
遺伝決定主義については,遺伝子型,環境,表現型の関係が整理されている.ただ最後に多くの社会生物学者,進化心理学者は性差を遺伝的なものだいう前提でリサーチしているが,アレクサンダーのように父方委任を行うかどうかは環境によるのだという「環境主義的な」プログラムもあるのだと説明している.しかしこれはそのような条件依存的な戦略がヒューマンユニバーサルとしてあるという研究プログラムなのではないだろうか.
このほか「社会生物学はイデオロギー的か」という設問には様々の異なったレベルの命題が含まれていること(第3者にそう利用されやすいか,そのように利用される機能を持つか,その機能があるためにより主張が流布されるのか),「マガモのレイプ」というような擬人的言い回しの問題点は何か(結局その機能的な類似がホモプラシーかどうかがポイント)なども取り上げられている.
倫理についても主観主義(倫理はすべて主観),実在主義(事実の問題と別に真理としての倫理がある)などを解説し,またそれが個人個人に獲得される過程(進化適応としての心理と社会的過程)があるということと倫理的な真理があるかどうかという問題は別だと指摘している.ソーバーは結論を出すわけではなく,証明できない真理があってもいいこと,この問題を考える上で難しいのは自己欺瞞の問題だと指摘するにとどめている.
最後に「文化進化」について,これが明らかに間違いだとは言えないこと,「科学理論の盛衰についても当てはまるのか」(ある科学理論が支持される原因は何か)という面白い問題があることを指摘している.
全体として哲学書としては非常に簡明で読みやすい本になっていると思う.進化生物学に地理感のある人には楽しく読めるだろう.私は読んでいて,哲学者特有の視点の新鮮さが非常に興味深かった.論争トピックについては同意できるところ,同意できないところそれぞれあるが,同意できない部分も何故そうなのかということを深く考えるきっかけになる.中身の水準の高さからいうと3800円という値段はお買得だと言えるだろう.
関連書籍
原書
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*1:本書の訳出の水準は非常に高い.しかし縦書きにこだわったのは(シリーズの制約もあるのだろうが)失敗ではないだろうか.数式や英文が横向きになり読みにくいし,数字も漢数字で書こうとするので2619となるべきところが二六一九などと誤植になってしまっている.なお訳者の一人はhatenaでブログを主催しており,本書の担当訳文の訂正エントリーなどもある.http://d.hatena.ne.jp/yuiami/
*2:また最初の「凡例」でLewontinの表記を「ルウィントン」にしたことについて,本人に親しい人に本人の発音を聞いて[lúwentən],最も近い表記にするとルウェンテンになるが,さらに新しい表記を作るのもどうかということで,既にある表記で一番近いものにしたと説明がある.しかしルウィントンというのはこの発音に近い表記だとは思えないし,Lewingtonという名前に使うのが普通だろう.またこの発音であれば,普通に表記されているルウォンティンの方が近いような気がして,読んでいるあいだ中違和感があった.