Bad Acts and Guilty Minds 第2章 犯罪行為 その3

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)

Bad Acts and Guilty Minds: Conundrums of the Criminal Law (Studies in Crime & Justice)


本章ではここまで「犯罪行為」の規定に絡めて,コモンローや法文の解釈を扱っていたが,ここから「行為性」の問題になる.例によってまずケーススタディからだ.

ファツマ・フセイン・エル・バキートはスーダンに住む25歳の女性で,村人を治す呪い師だった.彼女は精霊である「クーガ」をよびだし,それが乗り移ってファツマを支配し,病人を治癒すると村人は信じていた.そしてあるとき,ファツマは治癒行為の最中にトランス状態のまま患者の腹を切って死亡させたと謀殺で訴追された.
ファツマは「クーガ」に乗り移られているあいだは意識も記憶もないと抗弁した.


これは殺人と言えるのだろうか.カッツはいくつか論点を提示する.


<論点その1>
記憶のないときの行為は同一人物が行ったと言えるのか.


脳の移植手術が可能だとして仮想的に問題を考えてみると,私達はある人物の同一性は脳そのものにあると感じているように思われる.しかし脳梁切断事例の被検体への実験によると脳の右半球と左半球はあたかも別の人格を持つように振る舞うことが知られている.
さらに多重人格があるように思われるケースもある.このときにそれぞれの人格が別の記憶に生きているなら,別人格による記憶の連続性がないときに行為は同一人物の行為と言えるのだろうか.ファツマのように短いブラックアウトがある場合はどうなのか.

カッツはそのようなわかりやすい事例として映画「心の旅路」のプロットを紹介している.実際にナチのニュルンベルグ裁判でヘスは記憶喪失を抗弁として持ち出したそうだ.実際の裁判では,精神病者として隔離されると聞いたヘスは記憶喪失の証言を撤回し有罪とされているが,真実がどうだったのかはよくわからない.


結局何が同一人の行為と言えるのだろうか.人格の同一性にとって記憶の連続こそ問題だと考えるなら,記憶がなければ無罪にすべきなのだろうか.


カッツはなぜ単純に記憶がなければ行為の同一人格性を否定するという判断が難しいのかの理由をいくつか挙げている.

  • 記憶だけなくて性格から見て同一人格と言えるならどう考えるのか.
  • 記憶がないといってもすべてがなくなるわけではない.一部のエピソード記憶がなくなるだけだ.
  • 後で思い出したらどうなるのか.
  • 後で記憶がなくなるとわかっていてやった犯罪行為はどう考えるべきか.
  • 記憶喪失は1か0かという現象ではない.連続性がある.(脳移植と違って程度問題になる)


カッツはこの後いろいろ議論しているが,結局「答えはない」という結論のようだ.身体の連続性と記憶の連続性は通常一致しているが,時に一致しないことがある.そこからは個別判断だということだろう.少なくともファツマのような一時的なブラックアウトについては犯罪行為は否定できないだろうという.
カッツは同一人の行為かどうかを問題にしているが,記憶がないものを罰すべきかという問題もあわせてあると考えるべきだろう.
確かに長期的な記憶喪失などはなかなか面白い問題だが,実務的には「記憶がない」という抗弁を認めたら刑事制度が崩壊するということだろうか.少なくとも日本では記憶がないから無罪であるという認識は一般にはないようだ.


では多重人格はどうか.参考書によるとアメリカでは法廷で実際に多重人格という抗弁が主張され,裁判所は「精神世界の様々な居住者への刑事責任の分配に着手するつもりはない」と述べ,同じ身体であれば十分としてその抗弁を認めなかったという事例があるようだ.
日本では,そもそも多重人格(あるいは解離性人格障害)という診断が少ないこともあって,これまであまり議論されていないようだ.ただ殺人と死体損壊で起訴された案件で,「解離性同一性障害(多重人格)により,本来の人格とは別のどう猛な人格状態にあった可能性が非常に高い」ことから,殺人は心神耗弱により減刑(懲役7年),死体損壊は心神喪失で無罪となった地裁判決が,2008年に出て議論になっているようだ.(もっとも今年の4月に高裁で完全な責任能力が認められて両罪で有罪(懲役12年)になっている.)別人格だから心神喪失というのは良く理解できない理屈だ.ここでカッツが議論している論点とは少しずれているだろう.
(また数年前の殺人未遂の別の事例では解離性人格障害が認められた女性が不起訴になっている.事例をよく読むと相当に同情すべき案件であり,仮に人格障害がなくとも執行猶予は確実のように思われ.個別事例の解決としては納得感がある.)


いずれにせよ多重人格による抗弁は,認めると実務的には大変やっかいであるので,本当にそういう現象が間違いなくあり,きちんと鑑定できるということにでもならなければ,正面から認めることはできないだろう.そういう意味でアメリカの判例の考え方は実務的に納得感の高いものだろう.


しかし本当に別人格があり,ジキルとハイドのように完全に交替しているのなら,どう裁くべきかはかなり難問になるだろう.ハイドのしたことに対して,私達はジキルもろとも罰すべきなのだろうか.本当に完全に別人格であれば,無実の人格を悪い人格と同一身体にあるからという理由で処罰することは相当ためらわれるように思われる.しかしそうであれば,私達はハイドの悪行をただ眺めているしかなくなるのだ.結局これは私達が進化の結果持っている道徳心理モジュールでは解決できない倫理案件なのだろう.