「チャールズ・ダーウィンの生涯」

チャールズ・ダーウィンの生涯 進化論を生んだジェントルマンの社会 (朝日選書)

チャールズ・ダーウィンの生涯 進化論を生んだジェントルマンの社会 (朝日選書)



ダーウィン前夜の進化論争」などの著書もある科学史家の松永俊男によるダーウィンの伝記である.ダーウィンの残した大量のノートや書簡,メモなどから,30年前に比べて,ダーウィンについてははるかに多くのことがわかってきている.英米ではジャネット・ブラウンと,デズモンドとムーアによって大部の伝記も公刊され,デズモンドとムーアについては訳されてもいるが,なお日本ではあまり知られるにいたっていない.*1
本書は手頃な値段で,このギャップを埋めて新たにわかってきているダーウィンの生涯を日本の読者に紹介したいという趣旨で書かれたものだ.特に日本独特の誤解については正していきたいとの意気込みが示されている.*2


本書はビーグル号乗船のくだりにちょっとさわって読者を引き込んでから,おもむろにエラズマス・ダーウィンとジョサイア・ウェッジウッドというダーウィンの祖父達の時代の話から始まる.そしてそこから父ロバート,シュルーズベリ―,エジンバラケンブリッジ,ビーグル号へとおなじみの話が続き,地質学,結婚,進化についての考察,ダウンハウス,ウォレスの論文と「種の起源」,「家畜の変異」と「人間の由来」,植物の研究,晩年と取り扱っている.
本書の姿勢としては,何か大きな流れをつかんでストーリーを紡いでみせるというものではなく,一つ一つの事実を大切にし,さらにちょっとづつ面白そうなエピソードやその背景を探っていくというスタンスで貫かれている.ダーウィンの生涯が大体頭に入っている私のような読者にはその小粒でぴりりと聞いた様々なエピソードが楽しい.


面白かったところをいくつか抜き出していくと以下のような感じだ.

  • ビーグル号が後に売却されて日本海軍の軍艦になったという話があるが,これは3代目のビーグル号と4代目のビーグル号を取り違えている.ダーウィンの乗ったビーグル号(3代目)が日本に来た事実はない.
  • ダーウィンケンブリッジの神学部に入ったという記述が見られることがあるが,これはクライスト・カレッジのことを誤訳したものと思われる.またダーウィンケンブリッジでBAを取っているがこれを文学士と訳すのも誤りである.
  • ウォレスのテルテナ論文についてダーウィンは自分の説とまったく同じだと考えて慌てているが,良く読んでみると,ウォレスの主張は変種間の競争を扱っていて,ダーウィンが構想していたこととは微妙に異なっていたのではないか.そう考えるとウォレスの態度(自然淘汰についてはダーウィンの業績だという姿勢を終生貫いた)も良く理解できるのではないか.*3
  • 種の起源」は当時の感覚でいうと自然神学書の体裁を取っている.そしてそれをそのように読んだグレイとの手紙によるやりとりの中で,ダーウィンは,自らの学説が自然神学とは両立しない(変異が偶然であること,自然選択はそれぞれの主体がその利益を増進するように働く,そうであれば神が偶然や利己主義に与することになる)ことに気づいたのではないか.
  • 日本における一般の「進化」の理解はチェインバース,スペンサー的だ.(これは残念ながらあたっているだろう.しかしグールドのしつこいほどの議論から見てアメリカにおいても一般的にはそうなのだろう.さらにアメリカでは人口の40%が進化を信じていないのだから,状況は日本の方がはるかにましなのかもしれない)
  • メーンの「法の進化」1861,タイラーの「宗教の進化」1871,ゴルトンの「優生学」1865はいずれもダーウィンの影響を受けて生まれたといわれるが,そうではない.メーンもタイラーも「種の起源」出版前にその思想を大枠は固まっていたし,ゴルトンの主張していることは育種家によるコモンセンスを人間に応用しようとしているだけだ.
  • ランドル・ケインズは「Annie's Box」で,アニーの死がダーウィンの信仰を決定的に失わせたと議論しているが,むしろそれより前からゆっくりと失っていったと見るのが正しいのではないか.
  • ダーウィンは植物の学名が不統一である不便を解消するために学名目録(インデックス・キューエンシス)の製作費用を拠出した.これは今も引き継がれている重要な業績である.


ダーウィンの生涯の様々な出来事がコンパクトにまとめられ,時に楽しい蘊蓄が詰まっている.大部の伝記を読む根気はないが,最近のダーウィン学の知見を踏まえて改めてダーウィンを知りたいと思う読者にとっては大変手軽で上質の案内書となるだろう.



関連書籍


松永は進化論に関して多くの本を書いている.いくつかあげると以下のような感じだ.

ダーウィン前夜の進化論争

ダーウィン前夜の進化論争

ダーウィンの時代―科学と宗教

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ダーウィンの子孫であるランドル・ケインズダーウィン本,愛娘アニーの死を取り上げている.

ダーウィンと家族の絆―長女アニーとその早すぎる死が進化論を生んだ

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現代思想2009年4月臨時増刊号 総特集=ダーウィン 『種の起源』の系統樹

現代思想2009年4月臨時増刊号 総特集=ダーウィン 『種の起源』の系統樹

*1:これは一つにはデズモンドとムーア本がセットで18,000円という値付けになっていることもあるのだろう.先日の訳者の渡辺先生の講演では,10年かかってようやく初刷りの1,000部がはけて,なんとか2刷りが実現しそうだということだった

*2:このあたりは先日の現代思想ダーウィン特集号でもあったところだ

*3:これはなかなか面白い指摘だ,ウォレスのテルテナ論文ももう一度読んでみなければ