「The Greatest Show on Earth」 第7章 失われた人々?もはや失われてはいない

The Greatest Show on Earth: The Evidence for Evolution

The Greatest Show on Earth: The Evidence for Evolution


第6章で進化の証拠としての「化石」を扱ったドーキンスだが,人類化石については特に1章を立てて詳しく議論している.まずダーウィンの「人間の進化と性淘汰」に触れて,ダーウィンが人類の祖先についてアフリカ類人猿を(正しくも)指摘していること,それに従わずにアジアを探し回った人々の代表としてのデュボアとジャワ原人についてちょっと触れてから,人類の祖先化石について概略を紹介する形になっている.


ヒト進化の化石的な証拠としてはこれまで発見された化石を並べることで十分なものになっているが,特に本章でドーキンスが熱弁をふるっているのは,人類化石の分類と命名に関する古人類学者の確執がいかにしょうもないかということだ.またそのために一般に誤解が広がったり,創造論者に利用されることへのいらだちもみえる.


要するに過去から連続している化石があれば,それをあるところまではアウストラロピテクス属で,あるところからはホモ属であると明確に区切ることは最初からできるはずがないにもかかわらず,古生物学者や古人類学者は延々と議論をしていて,そして結局どちらかに分類してしまう.それを見た人はあいだの中間形は見つかっていないと誤解するということだ.ドーキンスは具体的な化石の図をいくつかあげて読者に名前の議論のもやもや感とそれが進化という事実からまさに予想されることを説いている.


ドーキンスは古生物に関する学名の命名規則については本当に忌み嫌っているようで,アウストラロピテクスという名前についても命名規則のために変な名前になってしまっていると嘆き,アフリカの博物館でもっとましな名前のついた古い模式標本がひょっこり出てこないかと夢想していると記述して,それを節題「I'm still mischievously hoping....」にしている.*1
学名の命名規則のために相応しくない名前になってしまうことの憂鬱については昔グールドもブロントサウルスという名前がなくなってしまったことを嘆いているエッセイを書いていたこと思い出す.
また,もし完全な過去の生物の化石系列が全部入手できれば,この言い争っているくだらない学者たちの面目に卵をぶつけられるのが見られて爽快だろうとも書いていてその嘆きの深さがにじみ出ている.*2


この後は筋金入りの創造論者「Concerned Women for America」のプレジデントであるウェンディ・ライトとの対談記録が紹介されている.
ライトは「何故科学は証拠もないのに他人に信念を押しつけようとするのか」を議論したいし,ドーキンスは「証拠はあって博物館に行けばいい」と言いたいだけだが,見事にえんえんとすれ違っていていてむなしさを浮かび上がらせている.
ドーキンスは,創造論者が教え込まれた呪文を唱えるだけで議論にならないことを説明しつつも,「私はいかにも博物館に行けと頑固に言い張っているように見えるが,本当に博物館に行って欲しいのだ」とコメントしている.


本章は最後にアウストラロピテクスよりさらに古い化石(残念ながらアルディピテクス・ラミダスにかかる10月になされた発表は間に合わなかったようだ),チンパンジーの子供と大人の有名な頭骨写真の真贋に触れ,ヒトの頭蓋骨の特徴はネオテニーとしても説明できるものであり,それはそれほど困難な変形ではなかっただろうと言って本章を終えている.



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古生物者たるグールドも命名規則の杓子定規振りにはうんざりしていたようだ.そして残念ながらグールドの嘆き通りにブロントサウルスという名前は最近見かけなくなってしまった.

*1:本書では愚痴っぽくなったドーキンスのつぶやきが所々にあってなかなか愉快だ.本章も冒頭の方で北京原人の英語での読み方について Peking Manで通っていたものをわざわざBeijing Manと呼び直す輩がいると愚痴っている.ドーキンスの趣旨は既に英語の呼び方として慣用的に定まっているものをわざわざ現地の政治的正しさに配慮する必要はないではないかと言うことで,(オーデコロンの)コロンとケルン,ボンベイとムンバイ,ダニューブとドナウ,ヴィエナとウィーン,ミューニックとミュンヘン,モスコーとモスクワまで持ち出して憤慨している.後半は垂水雄二訳でははしょられていてよくわからないかもしれない.2番目以降はおおむね英語での慣用表記と現地の発音が異なるという問題のようだが,最初の「北京」は発音をアルファベット表記するために考案されたピンイン表記が中国語の一般的な表記法ということになり,それをそのまま英語読みにしてしまったためにかえって現地発音から離れてしまった(ピンイン表記が一般化する前の表記法によるPekingの方が現地発音に近い)という問題でちょっと異なる問題のようにもおもわれる.母音については4声を表記し分けなければならないというのはわかるのだが,何故子音もあんな風(d, b, g, j, z を有声子音ではなく無声子音に割り当てている)に変えてしまわなければならないのかは私にはよくわからない.中国語には有声子音と無声子音の区別がなく有気音と無気音の区別があるということからきているのだろうか?日本人にとっても英語文献で中国王朝や人物が出てくるたびに調べ直す必要があってなかなかやっかいなものだ.もっともこれは今更どうすることもできないだろう.

*2:垂水雄二訳ではこの文章の二重否定(I wish it, Not Least Because I'd love to see the egg all over the faces of those zoologists and anthropologists who engage in lifelong feuds・・・)を訳し損ねていて意味が通らなくなっているが,ドーキンスはまさにこのくだらない学者たちに卵がぶつけられるのを見たいからこそ,こう望んでいるといっているのだ.