「Spent」第14章 調和性 その4

Spent: Sex, Evolution, and Consumer Behavior

Spent: Sex, Evolution, and Consumer Behavior


調和性について男女は複雑なディスプレー戦力を取る.

ミラーはここで「イデオロギーの表明」が調和性ディスプレーだと解釈できる具体例を挙げている.ミラーによると,アメリカの大学で,時に巻き起こる抗議運動は実は求愛儀式なのだという.そうでなければ,ある日突然上中流階級の若者が,海外の虐げられた貧しい人のために何らかの抗議運動を大挙して行い,そしてそれが急速に下火になる現象を説明できない.彼等は抗議運動のなかで知り合い,互いに調和的なイデオロギーを語り,抗議運動が無くなった後もデートが続くというわけだ.


ミラーは政治的な議論を矮小化させる趣旨ではないと断りながらも,イデオロギーの表明がパーソナリティのディスプレーでもあることにもっと注意すべきだと指摘している.だから経験的事実を伴わないイデオロギーには生存的な価値がないにもかかわらず,私達は事実の裏付けに注意を払わずに何らかの価値観を示すアイデアを学び創造することに強い動機を持つのだ.
そしてコストのある信号だと考えれば,馬鹿げていて,自分に不利なイデオロギーほど信号の信頼性は高いということになるのだろう.これはなかなか面白い視点だ.


ミラーは,投票行動のパラドクス(なぜ人は自分の投票が選挙結果を変える可能性が極めて低いにもかかわらず投票に行くのか)もこれが性的なディスプレーだと考えれば説明できると主張している.
もっともこれはちょっと怪しいように思う.「投票に行く自分」をディスプレーしているという状況というのは(少なくとも日本では)あまりないのではないかという気がする.それともアメリカでは,みなもっとみせびらかしながら投票所に行くのだろうか?


さらにミラーは,「何故男性はより保守的で権威的なのか」,「何故ヒトは年をとると保守的になるのか」,「何故男性がより政治家になりたがるのか」,「何故革命は若い独身の男性によって始められるか」などの問題も性的ディスプレーと考えれば説明できるという.
これらの疑問は,もしイデオロギーが合理的な政治的な自己利益の解釈だということなら,説明できない.しかし,配偶的な利益は,文脈によって,個人によって異なるので,若い男性の方がリスクを多くとることができることを無理なく説明できる.


ここからは現代アメリカにおける具体的な政治的イデオロギーにかかるミラーのディスプレーとしての解釈だが,なかなか面白い.

保守主義は野心のある利己的なパーソナリティで,配偶者を守りリソースを供給できることを示している.リベラルは共感的で,子育てを行い配偶者との関係維持に注力することを示している.
男性が若い女性を好み,女性がリソースのある男性を好むことから,男性がより保守的で女性がよりリベラルなことが説明できる.年齢につれて保守化するのは,自己利益だけでなく,示すべき社会的地位や資産が上がってくるからだ.

もっと細かく見ると,このような配偶ゲームは相対的な成功が問題なので,政治的なイデオロギー誇示のゲームダイナミクスは不安定だということになる.だから大学において急にリベラリズムの嵐が巻き起こるのだ.調和性を示す方法は,気まぐれに右から左にシフトするのだ.一旦大勢が決するともはや誰もアパルトヘイトに無関心ではいられなくなるのだ.

アメリカの民主党や英国のレイバー支持は調和性と開放性のディスプレーになる.アメリカの共和党や英国の保守党は誠実で非開放的だ.だから2008年の「Obama/Biden」ステッカーは単なる政治的な支持を示しているわけではない.それはドライバーの社会的性的文化的開放度を示しているのだ.

ミラーは,このように政治的な態度がディスプレーであると考えると,政治的な議論が時間の無駄である理由もわかると主張している.それは個人にとって自分のパーソナリティのディスプレーであるから,合理的な理由があっても変えることができない.つまりどんなに合理的な背景があっても内向的な人は麻薬の合法化には反対で,貞淑な主婦は売春の合法化に反対するしかないということだ.
ミラーは共和党がゲイの結婚に反対するのもこのディスプレー性に基づくものだろうとまでいっている.これは共和党のイメージであるファミリーバリューと保守主義に反するから取り得ないのだろうというわけだ.


日本でもこのような状況はあるだろうか.日本ではアメリカのようにイデオロギー的な二大政党になっているわけではないのでちょっと状況は異なっているだろう.それでも,昨年の政権交代前には民主党により開放的,調和的なディスプレーイメージがあったのかもしれない.現状はなかなか混沌としているようだが,政党支持率の大幅な変動もディスプレーイメージである程度説明できるのかもしれない.


現在の日本で調和性のディスプレーとしては『エコ』フレンドリーな態度が最も重要なものだろう.いまや『エコ』は日本では(あるいは外国でも)かなりイデオロギー的だ.そう考えると,自分の調和性の高さをディスプレーしたい人は,エコバッグを持ち,プリウスに乗り,地産地消と有機農業に賛成し,GM作物に反対するということになる.
GMに賛成したり,バイオ燃料に反対したりしたいのならまずマーケティングが重要になるということになるだろう.
また捕鯨を巡る世界の情勢も(特に捕鯨反対派にとっては)かなりディスプレー的な側面が強いのではないだろうか.


いずれにせよ政策論争マーケティングの観点から眺めると様々に啓発的なことがあるのだろう.


まさにいま行われている民主党の代表選挙もそういう意味で分析できるかもしれない.菅支持と小沢支持ではかなりディスプレーとしての意味が異なってくるだろう.有権者(つまり国会議員)や支持者にとって,態度表明はどこまでがディスプレーなのだろうか.