「Only a Theory 」

Only a Theory: Evolution and the Battle for America's Soul

Only a Theory: Evolution and the Battle for America's Soul


これはケネス・ミラーによるIDを巡る本である.ミラーは,アメリカでのIDを巡る裁判(いわゆるドーヴァー裁判)で証人に立ったことで有名な分子生物学者.題名の「Only a Theory」はID側の進化への主張に由来する.*1


ミラーは,何故ID裁判のようなことがアメリカで生じるのかを,こう説明している.「アメリカ人は権威に盲従しないのだ,自分で考え,自分で決めるのだ」と.その権威に盲従しない姿勢というのは実は科学の基本姿勢でもある.そしてIDは実に巧妙に仕組まれた政治運動で,単にダーウィン理論を攻撃しているのではなく,アメリカの科学精神をも破壊しようとしているのだというのが本書の主題になる.


ミラーは,アメリカの科学精神のコアにあるのものは,通説の誤りを見つけて新しい世界を打ち立てようとする姿勢であり,もしIDが何らかの意味を持ち,生物について革命的な理解を得る望みがあるようなものなら,通説に反対する姿勢はリスペクトできるとまず述べる.しかしもちろんそうではない.ではIDとはどのような試みなのか.


ミラーは最初にIDの構造を説明する.IDは創造論者による政治的な運動であり,過去の失敗から教訓を得て,柔軟な戦術に転換したものだ.過去彼等は「地球の年代が1万年未満だ」とか,「ノアの洪水はあった」などと主張し,科学の各分野から一斉攻撃を受けた.また学校の理科の時間に創造論を教えようとして訴えられ,憲法違反だという連邦最高裁判例が確立した.
そこで彼等は負けにくい戦術を編み出したのだ.
まず科学として,地球の年代や洪水などの反証されやすい主張は引っ込める.そして進化についての議論のみを行い,デザイナーの存在だけを主張する.そしてデザイナーは完璧でなくともよいとする.*2これにより攻撃されにくいポジションを保ち,現在の進化生物学がまだ解明していないなぞを見つけてそれを攻撃する.この巧妙な戦術により.進化生物学側は防戦一方の戦いを強いられることになる.
また判例を受け,教育委員会の多数を押さえた後の教育プログラムとして,「創造論をそのまま教える」ことから「進化と並んで代替説を教える」ように転換した.


本書の次の議論は,IDの「科学的」と称する主張の是非についてだ.
このIDの戦術のなかで科学的な攻撃はビーヒー*3のような一部の学者が受け持っている.ミラーはここで裁判で問題になったビーヒーによる一見科学的な主張を取り上げる.最も詳しく論じられるのは「鞭毛モーターは『これ以上還元できない複雑さ』を持っており,これは進化の反証だ」という主張だ.ミラーはねずみ取りの部品の一部でパチンコが作れることをアナロジーとして用いて,「還元できない」という主張が成り立たないことを丁寧に説明している.(このほかのビーヒーの議論;マラリアの薬剤耐性の複雑さ,免疫機構の複雑さ,さらに同じくID擁護派の法律家デンスキの複雑な分子の情報量の議論なども同じく説明されている.これらは単に累積的な進化という議論がわかっていないだけで「鞭毛モーター」に比較してかなり程度の低い議論という印象だ)

ミラーは,防戦だけでなく,ゲノムから得られた証拠に基づいてIDを攻撃してみせている.
デザインが完璧でないというIDの言い逃れは認めるとして,ではなぜデザイナーはゲノムに遺伝子の死体(不要になって変異で壊れた遺伝子など)を仕込んでいるのか.例えばビタミンC合成にかかる遺伝子だ.ID論者はそれはヒトの歴史のなかで不要なので壊れていったのだという.しかしこの遺伝子は大型霊長類共通で,しかも同じところが壊れている.さらにヒトとチンパンジーにかかるゲノムの全般的な相同性,染色体の(第二染色体の融合も含めた)相同性はどう説明するのだろうか.
これは人類が類人猿との共通祖先から進化したということを認めるのをもっとも嫌がる創造論者に対する指摘としてなかなか鋭いところをついたものだ.(もちろん彼等がこれで降伏するわけではないだろうが,嫌な指摘であるには違いない.)



3番目にミラーは,改良されたとしてもこれほどお粗末な主張がなぜ広範囲な政治的な動きになり得るのかという話題に移っている.
それは(多くの人が指摘するように)進化は人生の意味を否定すると感じる人が多いからだということになる.ここからミラーは,自然科学により「自然にデザインはあり,それは宇宙の仕組みから生まれる」と主張できるのだ.そう説得できれば創造論者の攻撃はすべて無効にできると主張している.そして進化生物学がどのようにデザインを理解しているのかを大まかに説明する.説明は簡潔でわかりやすいものだ.

そしてこの理解で「人生の意味は?」という質問に答えることができるのか.ミラーは,すべてが偶然ではなく進化には収斂をみればわかるように必然的な面があることを指摘して,人生に意味を見つけることができるという議論を行っている.*4 しかしここは残念ながらあまり説得力はない.私の考えでは,人生の意味は,物事や世界が偶然か必然かで決まる話ではないと思う.すべて偶然であったとしても,人生に意味を見つけることに何ら問題はないだろう.


本書の最後のトピックは,IDがアメリカの科学に与える悪影響について.
ミラーによると,IDは(政治的にはウルトラ右翼でありながら)アカデミックレフトの極端な文化相対主義のロジックを用いて科学を攻撃し,それを骨抜きにしようとしている.つまりある主張が事実として正しいかどうかは問題ではなく,多様な意見を受け入れるオープンネスこそ「政治的に正しい」という価値観を自然科学にまで持ち込もうとしているということだ.IDは科学の決着をパブリックリレーションの問題にしようとしているのだ.それはそのような手法を使って自然科学に超自然を持ち込むことを狙い,自然科学を殺そうとしているのだ.
しかし科学が有効であるためには,科学の決着は政治ではなく,事実に基づかなくてはならない.ミラーは最後に自分が証人に立ったドーヴァー裁判が,IDとの戦争におけるゲチスバーグ*5であったのではないかと希望を述べて本書を結んでいる.


進化が事実であることを書こうとして同時期に出版されたドーキンスやコインの本と若干趣向が異なっていて,本書ではIDがどういう構造で,どのような影響を持つのかが中心になっている.IDは,単に学校でダーウィンをどう扱うかだけの話ではなく,科学に価値観と政治を持ち込み科学を殺す結果をもたらしかねないことを,是非多くのアメリカ人に知って欲しいという願いが本書に迫力を与えている.IDの闘争戦術や背後の政治的グループについても書かれていて興味深いし,実際に証人としてビーヒーの主張と対峙したことが本書に臨場感を与えていて読んでいて面白い.日本では直接このような問題に対峙することは(少なくとも現在のところ)あまりないが,アメリカの現状を知り,ドーキンスやコインの本の背景を知るにはよい本だと思う.




関連書籍


ケネス・ミラーのもう一冊 未読だが,基本的には進化と信仰が矛盾しないことを説いている本のようだ.

Finding Darwin's God: A Scientist's Search for Common Ground Between God and Evolution

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ビーヒーの進化生物学攻撃の本.さすがに読む気はしない.

ダーウィンのブラックボックス―生命像への新しい挑戦

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The Edge of Evolution: The Search for the Limits of Darwinism

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ドーキンスによる進化の証拠についての本.なお同書によるとドーキンスの出版代理人による最初の題名候補は 「Only a Theory」だったそうだ.今回ケネス・ミラーのこの本を手に取った(正確にはiBookstoreでクリックした)のはここでの紹介がきっかけになっている. 私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20100218

The Greatest Show on Earth: The Evidence for Evolution

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進化の存在証明

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コインによる同じ趣旨の本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20100302

Why Evolution Is True

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進化のなぜを解明する

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なお最近コインによるブログを発見した.http://whyevolutionistrue.wordpress.com/ 取り上げる話題*6も広く非常に面白い.最近のお気に入りだ.




 

*1:ミラーは2005年から2007年まで争われたKitzmiller v. Dover Area School Districtとして知られるペンシルヴァニア州でのIDを巡るドーヴァー裁判にエキスパート証人(専門的事実に関する証人,日本で鑑定証人とよばれる制度に近い)として登場したことで有名.キリスト教原理主義がこの地区の教育委員会で多数を握り,高校において「ダーウィン理論はまだ単なる理論で事実ではなく,IDなどの代替説にも注意するように」と教えることを強制したことに対し,父兄が「IDは科学だと主張しているが宗教であり憲法違反だ」と主張して訴えたもの.ミラーは教科書の著者の1人でもあり,原告側証人として法廷に立ち,「還元できない複雑性は進化の反証だ」と主張するID側御用学者マイケル・ビーヒーと対決した.結果は「IDは宗教であり,科学とは認められない」という判決で原告側の完勝.法的には教育委員会が押しつけようとしていたことが宗教かどうかが連邦憲法に違反するかどうか(そして裁判管轄が連邦裁判所にあるかどうか)にとって問題になる.だから「IDが宗教かどうか」が重要な裁判上の問題になり,ID側は「科学」だと言い張ることになる.なおミラーはその前にもオハイオにおけるID裁判でも証人に立っている.

*2:通常最も厳しい生物学者からの指摘「完璧でないデザイン」の主張はこれで無効にできる.デザインに誤りがあるからといってデザイナーがいないことにはならないからだ

*3:Michael Behe. 「Behe」をどう発音するかよくわからない.訳書においては「ベーエ」としているが,アメリカのいくつかのサイトでは「Bee-hee:ビーヒー」だとされている.

*4:この部分はコンウェイ=モリスの「Life's Solution」における主張とやや似ている

*5:アメリカのCivil War(南北戦争)の転換点になった激戦.

*6:進化生物学の話が中心だが,もちろん創造論者の話題,ハヤブサの観察や芸能スポーツの話題,果ては流行のケーキ(いまアメリカではパイを中に入れて焼き上げたpakeなるお菓子が流行っているのだそうだ,カロリーもすごそうだ)の話題まで取り上げられている