「Spent」第16章 ディスプレーする意思 その3

Spent: Sex, Evolution, and Consumer Behavior

Spent: Sex, Evolution, and Consumer Behavior


ディスプレーする意思を制度的に制御できるか.ミラーはここまでに,規制による方法や,個人個人が働きかけて市民社会の規範を利用する方法を検討した.ミラーは後者に少し本気のようだが,あまりうまくいくとも思えない.


さて,ここでミラーは最近の技術進展や社会の情報化によってヒトのディスプレー環境に変化が生じていないかということを議論する.具体的には3つ挙げている.それは,1.携帯電話 2.ソーシャルネットワークサイト(SNS) 3.オンラインゲーム だ.
これら単に新しいだけでなく,Web2.0により広く多くの人に見られ,国境や法律の壁を軽々と越えていく.これらは自分で選んだグループに属し,独自の社会規範を持つコミュニティをつくることが可能な世界だ.


両親は子供がこれにうつつを抜かすのを嫌がる.ミラーによると,これは古い世代は自分たちの慣れ親しんだディスプレー方式にこだわってしまうためだという.古い世代の伝統的な消費者主義のディスプレー戦略(反直感的な学問を学び知性と誠実性を示し,時にアルバイトをしてより誠実性を示し,カレッジ進学や就職に有利な課外活動をこなし,誇示的商品を買う)から見れば時間の無駄に見えるからだ.


しかしミラーはこのような新しいディスプレー方式に共感的だ.

若者は,自分にもっともいい社会的性的な結果をもたらす方法を直感的に理解するものだ.歴史の上で,新しいディスプレー戦略が発見されても古い世代はいつもそれに乗り遅れてきたのだ.古代ギリシアの若者はプラトンのアカデミアで議論にふけって知性をディスプレーした.数百年の間,高等教育は自己耽溺的な誇示的知性ディスプレーレジャーだったが,ブルジョワは配偶マーケットでのディスプレーという戦略を編み出した.実存主義哲学も,ニューウェーブ映画も,ヒッピーも,それまでのマッチョ路線とは異なる若者による新しいディスプレー戦略だった.

実存主義哲学が,当時の「オタクの逆襲」だったという指摘はなかなか面白い.


ではこれらの新しいディスプレー方式にはどんな特徴があるだろうか.ミラーはこれらは伝統的な方法に対するショートカットなのだという.

簡単にブログを書けるときに,何故エール大学でポストモダン文学を学んで知性ディスプレーする必要があるのだ? 自分のマイスペースで美的感覚を示せるというのに,二流の印象派の絵を高額で買う必要がどこにあるのか? 携帯のGPSをオンにすることで自分の居場所を相手に伝えることができるのにコストのかかる宗教的な慣習に従って貞節をディスプレーする必要があるのだろうか?

確かに知性や美的感覚のディスプレーとしてはこれらで十分正確に行えるだろう.ただし「だまし」の問題は残るだろう.誰かにゴーストライターになってもらえば(あるいはうまくコピーペーストを行えば)だましは可能だ.GPSも本人の位置と機器の位置を替える,あるいは信号に細工するなどで原理的にはごまかしは可能だろう.

もちろん,だましの対抗戦略も可能だから,それなりにコストがかかって正直な信号になり得るのかもしれない.ミラーはこのことについて議論はしていないが,わりと楽観的であるようだ.親が混乱するのは,このような方法がうまくいくのをみたことがないためであり,20世紀初頭の親たちは電話による求愛が理解できなかったことを考えればわかるだろうと指摘している.

進化的に考えると,ヒトの本性にとって何がコンスタントで,何が可変かが理解できる.ヒトは自分の特性値を相手にディスプレーしたいのだ.その特性値をどう呼ぶか,どうやってアセスするか,そのディスプレー方式は可変だ.

そしていずれ消費者中心資本主義(そしてその本質:証明書主義,ワーカホリック,誇示的消費,単一世代住宅,血縁と社会の断片化,弱い社会規範,社会進歩と国家の地位についての狭い経済的解釈,企業利益とメディアコングロマリットに操作された民主主義)に代わるディスプレー方式も見つかるだろうとコメントしている.


また本章の最後では,ミラーは様々なコミュニティの形成を許して,それがどうなっていくかみるという「社会実験」を提案している.形成された集団間におけるセントラル6の交絡要因に注意を払えば様々な有益な知見が得られるのではないかという主張だ.確かに様々な集団で様々なディスプレー方式が栄枯盛衰を繰り返すのを観察するのは楽しいかもしれない.