「厄介な翻訳語」

厄介な翻訳語―科学用語の迷宮をさまよう

厄介な翻訳語―科学用語の迷宮をさまよう


ドーキンスの本などの訳者として知られる垂水雄二による翻訳にかかるエッセイ.前作「悩ましい翻訳語」の続編という位置づけである.前作同様肩の凝らない作りで,様々な英語とそれの訳語に関する蘊蓄が詰まっている.私のような自然科学関係の翻訳書を多く読み,時には原書にも当たるという読者にとってはとてもうれしい続編だ.


前半は様々な生物名称についての蘊蓄が語られる.ここは民族性というか文化によって,生物の呼び分けが随分異なっていることが多くて訳しにくいところだ.ここで特に扱われているのは魚の名前が日本では非常に細かく呼び分けているのに英米ではおおざっぱだということと逆に家畜名称や狩猟対象動物については日本人がおおざっぱだということだ.
たしかにperchで表される魚がたくさんあって日本語では呼び分けられているのは,翻訳者にとっては厄介な状況だろう.辞書ではスズキが最初に来るが,何でもスズキと訳せばいいわけではない.逆に家畜名称は細かい.オスとメスと去勢オスで区別したり(ウシについていえばオスはbull, メスはcow, 去勢オスはox, 全部合わせてcattle)子どもを表す用語や群れを表す用語がたくさんある.(家畜だけでなく哺乳類は基本的にオスとメスで呼び分けるらしい.)日本語の方がおおざっぱな場合には翻訳は全部ウシでいいから楽かと思えば,やはりニュアンスは微妙に異なるし,cowが大きな哺乳類のメスを表す形容詞になったりするので油断はできないのだろう.
狩猟対象動物についても英語では種やオスメスを細かく区別する.私がバードウォッチングを始めたころ,図鑑を見ていてカモやシギについて実に多くの種類に固有の名詞があって驚かされたことを思い出す.*1 *2
牧畜や狩猟文化とは別に,動物群について単に切り分けが異なるという例も多くあげられていて楽しい.前作ではrabbitとhareが取り上げられていたが,本書ではalligatorとcrocodileなどが扱われている.このワニの呼び分けは日本人にとって難しい有名な例だが,アメリカ人が本当に区別できるかといえばかなり怪しい.beeとwaspも日本人には難しい.いずれも日本語に訳すのは厄介そうだ.

このほかにはcornがトウモロコシを指すのはアメリカ英語で,英国ではこれは穀物一般を表し,特にトウモロコシを表すときにはmaizeを使うと指摘がある.これは日本人がしばしば混乱するところだ.もっとも穀物ビジネスではアメリカでもmaizeと呼ばれているようで,おそらくそちらの方が正式な語感があるのだろう.
aadwolfとaadvarkの蘊蓄も楽しい.これは動物名をアルファベット順にすると最初に出てくるので,英語文献ではしばしば登場するが,実際に見ることはまれな動物だ.


後半は学問用語やその他のトピックを拾い集めた内容になっている.
economyを巡る蘊蓄はなかなか深い.この語はもともと「家計」「家政」を指し,そこから「無駄のない支出」や「やり繰り」などの意味が派生し,そこからeconomy of natureで「自然の摂理」という意味合いが生まれ,ecologyの語源ともなっているという.organismの解説も勉強になる.
なおここでは前作のnatural selectionを「自然淘汰」と訳すべきだという主張への「選択」派からの批判に対して反論している部分もあってなかなか面白い.私も「淘汰」派なので読んでいて痛快だ.
最後はネタも尽きてきたのか,cheesecake(女性の脚線美を表す場合がある)とかcivil war(内戦,内乱,大文字になったときは,英国の清教徒革命かアメリカの南北戦争かスペインの内戦を指す)などの用語も解説している.誤訳が多いので気になっているのだろう.detective(通常「刑事」とされるが日本とは微妙に異なっている)という言葉の蘊蓄もあって楽しい.significant(統計学において「有意な」)population(集団遺伝学において「集団」)などの特定分野において特別な意味を持つ単語も誤訳が多そうだ.
最後には科学的な本の科学的な内容の文章はある程度きちんと訳すと硬い表現になるが,その方が適切ではないかと述べて本書を終えている.訳文が硬いなどといわれて心外なのだろう.ここはなかなか含蓄がある.


前作同様楽しい話題の詰まった玉手箱のような本に仕上がっている.このような本を読むたびに翻訳者の仕事の難しさを痛感する.翻訳者の皆様にあらためて感謝申し上げたい.



関連書籍


前作 私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20100129

悩ましい翻訳語―科学用語の由来と誤訳

悩ましい翻訳語―科学用語の由来と誤訳

*1:カモ全般ではduckだが,mallard, teal, widgeon, gadwall, garganey, pochard, eider, scaup, scoter, smew, merganser, goosanderなどと種別の呼び分けがある.和名でいうと順に,マガモコガモヒドリガモオカヨシガモシマアジ,ハジロガモ類,ケワタガモ類,スズガモ,クロガモ,ミコアイサ,ウミアイサ,カワアイサとなる,この外側に形態からついた個別種名pintail, shoveller, goldeneyeがある.これは和名で,オナガガモハシビロガモホオジロガモとなる.カモを見たときに「カモかどうか」を識別するより,「それがマガモヒドリガモオカヨシガモなのか」を識別するというのは狩猟文化が深い現れなのだろう.和名では形態+カモという形が基本で,固有の名詞はほとんどなく,英語と対照的だ.なお英語でも形態+カモ的な名前(英国に分布するカモとしては)tufted duck, shelduck, long tailed duckなどがあるが(それぞれキンクロハジロ,ツクシガモ,コオリガモ)むしろ少ない.もっとも英国とは違ってアメリカのカモはいかにも開拓者が適当につけたような名前(canvasback, wood duck, redhead, ring necked duck, それぞれオオホシハジロアメリカオシ,アメリホシハジロ,クビワキンクロ)が多くてまた別の味わいになる.

*2:シギでは首の長めのシギがsandpiper, 短めのシギがsnipeというのが包括的な名称だが,これとは別に, dowitcher, godwit, curlew, whimbrel, ruff, stint, dunlin, sandering, knot, woodcockなどという固有名の呼び分けがある.きちんと種名に対応していないものもあるので対応する和名は難しいが,順にオオハシシギ類,オオソリハシシギ類,ダイシャクシギ,チュウシャクシギエリマキシギ,小型シギ類,ハマシギミユビシギコオバシギ,ヤマシギになる.形態や行動からの名称としてはredshank, greenshank, yellowlegs, turnstoneなどがある,これはアカアシシギ,アオアシシギキアシシギキョウジョシギとなる.カモと違って,形態名+sandpiper, snipeという名前も多い.