ドーキンスによるE. O. Wisonの「The Social Conquest of Earth」への書評に始まったグループ淘汰をめぐるやりとりはPinkerにも波及し,やや異なった角度からのコメントが出されている.これは6月18日にEdgeに投稿された「The False Allure of Group Selection」というエッセイだ.http://edge.org/conversation/the-false-allure-of-group-selection
この投稿にはその後ジョン・トゥービィ,ヘレナ・クローニン,リチャード・ドーキンス,ランドルフ・ネッシー,D. S. ウィルソン,ジョナサン・ハイト,ジェリー・コイン,ピーター・リチャーソン,ハーバート・ギンタス,ダニエル・デネット,デイヴィッド・ケラーなどのそうそうたる学者たちからのコメントが相次ぎ,さらにピンカー自身がリプライするという状況になっている.
一旦「Nowak et al.のNature論文の余波」についてはその2で<完>としたが,続編として取り上げておこう.(もはやNowak論文関連というより,「包括適応度がだめだ」という馬鹿な議論はおいといて,延々と続いている「グループ淘汰論争」をもう一度ここでもという状況になりつつあるようだが)
まずは最初のピンカーの投稿を紹介しよう.
スティーヴン・ピンカー「グループ淘汰の偽の魅惑」
ピンカーは最初に「よく『新しいグループ淘汰』について賛成かと聞かれ,否と答えると驚かれる.」と始めている.そしてこの質問者たちの期待は「自然淘汰は遺伝子の単位でのみ働く」という「狭量な還元主義的なドグマ」を破棄したいという期待があるからだろうと皮肉っている.ハーヴァードにはその手のリベラルが多いということなのだろう.
ピンカーの「新しいグループ淘汰理論」への批判は数理的なものではなく,主唱者がその理論によって説明しようとしている内容に向けられている.数理的には包括適応度理論と等価になるとしても,一体その(等価な)グループ淘汰を使って何を説明しようとしているのかが問題だというわけだろう.
そしてピンカーは,新しいグループ淘汰理論支持者たちはそれを「ヒトの心理や歴史」の説明に使おうとするが,それはうまくいっていないと主張する.ピンカーは問題をいくつかに区切って批判を展開する.
1. ヒトのグループの特質を説明するための「グループ淘汰」
まずピンカーは自然淘汰理論のポイントを概説し,その真に偉大なところは,『デザインのように見えるもの』をメカニスティックに説明できることだとまとめている.そしてそれは遺伝子視点に立つことによってよりうまく理解できることを解説している.
そしてピンカーの最初の批判は,ヒトの歴史を説明するためにあまりにスロッピーに「グループ淘汰」が持ち出されることだ.
まずスロッピーな自然淘汰の拡張の例として都市や自動車や電話機の「進化」が取り上げられている.確かにこれらは何らかの「競争」の結果変化してきているが,それはランダムな変異の上に淘汰が働いているわけではないというわけだ.
そして宗教をグループ淘汰で説明しようという議論はこれと同じだと切って捨てる.
a) 成功の基準は限定されたプールの中の頻度ではない.
一神教がより繁殖すると主張されることはない.サイズ,影響力,富,権力,寿命,領土,秀逸性などの成功基準が使われる.これらは確かに印象的だが,自然淘汰の問題とは異なる.b) 変異はランダムではない.
征服者やリーダーがノンランダムに考えて変異が生じている.c) 成功はエンティティそれ自体に適用され,その子孫に適用されていない.
ローマ帝国が成功したのであって,その子孫が成功しているわけではない.自然淘汰ならそれぞれの子ローマ帝国が成功の資質を受け継ぎ,変異し,より成功した変異を蓄積していかなければならない.
ピンカーは,要するに「グループ淘汰」として主張されている多くの説明は,自然淘汰理論の適用ではないということだとまとめている.単なる緩いメタファーに過ぎず,これらの主張はいわゆる「歴史」記述とほとんど変わらないというわけだ.
これらは内容的には「新しいグループ淘汰理論」の外側の話ということになるだろう.しかし支持者たちは数理的にがんばるとき以外にはかなりスロッピーにこの手の言説を行っているという状況があるのだろう.
2. 個人の特質を説明するグループ淘汰
進化心理学的にはこちらが主戦場ということになる.はたして「新しいグループ淘汰」は,例えば「部族主義」「勇気」「自己犠牲」「よそ者嫌い」「宗教」「共感」「道徳感情」などを説明するのに必要だろうか.
ピンカーはいくつか問題を区切っている.
a) グループに属することによって個体も利益を受ける場合.
ピンカーは以下のように主張している.
これらは単純な個体淘汰で説明できる.しかしこれらを「グループ淘汰」モデルだと言い張るケースがある.
このようなモデルではモデラーはグループの成功の果実としての個人の利益の一部を(恣意的に)個体適応度から外しているだけだ.彼等の考察する「グループを利して個体も利益を得る」ことと「グループを害して個体が利益を得ること」のトレードオフはごく普通の個体淘汰のトレードオフの1つに過ぎない.マルチレベル淘汰を持ち出す必要はどこにもない.
このあたりは用語をめぐる混乱ということだろう.
b) 個体が自分にとって不利だがグループにとって有利なことを行う性質を考察する場合
これこそが1960年代から問題にされた状況だ.ピンカーは以下のような議論を行っている.
戦争における勇敢な行動を例に取ろう.勇敢な行動は個体にとって時に有利で時に不利だろう.しかし淘汰は平均して働くので,死亡確率が0.1で,妻を得て繁殖を増やす確率が0.5ならそれは(個体淘汰として)進化できるだろう.
個体淘汰で進化できないと考えられるのは,そのような確率的なメリットがないものだ.たとえばガレー船の奴隷の漕ぎ手に進んでなるような性質,あるいは(とりあえず近親者のメリットは考えないとして)自殺攻撃する性質だ.
個体淘汰で進化しそうなのは,そのような志願者,自殺的攻撃者になるように他人を操作しようとする性質,もっと一般的にはそのような道徳的規範を他人に押しつけようとする性質だ.
そして一部の人々がそのような操作の犠牲になっているとしても,それを説明するのにグループ淘汰は不要だ.それは捕食者の犠牲になる草食動物に犠牲になる利他的性質の進化を考える必要がないのと同じだ.要するに戦争における自己犠牲的行動については強力な代替仮説があるのだ.
もし自己犠牲的性質が自然淘汰による適応であるなら,それは甘いもの好みのように,ごく自然で自発的で何ら代償を求めないものであるだろう.しかしヒトが個人や近親者の利益になるように淘汰を受けているなら,自己犠牲的な行動は,奴隷,徴兵,外部的動機,心理的操作などの操作的な色があるだろう.
このピンカーの議論は,もしグループ淘汰的(この場合はかなりナイーブ淘汰的な議論が対象のようだが)に進化した「勇敢な性質」があるならそれはどのようなものだと考えられるのか,そして実際に説明しようとしている「勇敢な性質」はそのようなものではない.つまり「適応」ではなく「操作の結果」ではないかというものだ.
ここでは実際に見られる「勇敢な行為」は「自発的で何ら代償を求めようとしない行動」ではないということはかなり強力な議論だろう.
なおピンカーはここで,この「操作」仮説はそのような操作をうまく行うグループが繁栄することを説明できるだろうが,それは個人の勇敢さを自然淘汰で説明することとは別の問題だとコメントしている.
3. ヒトには自己犠牲的でグループに資することを行う適応が実際にあるのだろうか
ピンカーの議論は実証に進む.
ピンカーによると最近の「新しいグループ淘汰理論」の盛り上がりは「昆虫の真社会性」と「ヒトの性質」を説明しようというところに源がある.そして昆虫の真社会性についてはE. O. Wilsonはがんばっているが,多くの生物学者は包括適応度的に説明できると考えていると軽く流している.
ではヒトについてはどうか.具体的に問題にされているのは戦争における自己犠牲,フリーライダーへのコストをかけた罰,見知らぬ人への親切などだ.
ピンカーはここで「新しいグループ淘汰」主唱者たちが「善」・「徳」を「グループのための自己犠牲」と定義する傾向にあることを思いっきり皮肉っている.もしそうなら「ファシズム」こそ至高の善であり,「人権」は最低の利己主義になるではないかということだ.ピンカーは彼等は簡単な可能性を見逃しているのではないかと主張する.「善」は「属するグループのための自己犠牲」ではなく.「他人に優しくすること」と考えればいいだけではないかというのだ.
これは価値観の議論なので正誤はないだろうが,私にはピンカーの言っている方が受け入れやすいように思われる.
つぎにE. O. Wilsonのスロッピーな議論をちょっと揶揄している.
E. O. Wilsonは,ヒトと昆虫は生殖システムが違うので,ヒトの社会性を血縁淘汰では説明できないとし,そしてハチもできないだろうという.だからグループ淘汰が最節約的な説明だというのだ.
しかしヒトの心理がハチの心理と本当に似ているだろうか?ハチが敵に自殺攻撃をするときは極めて自然に自発的に行う.しかしこれまでの膨大な知見によるとヒトはそうではない.
ピンカーはここでヒトの利他的傾向についてのこれまでの血縁淘汰,互恵による説明をまとめている.
そして血縁者に対する包括適応度的な利他行為,互恵的な利他行為,さらにそれぞれにおける認知的なひねり(血縁者を環境のキーにより認識する,互恵の可能性を言語を通じた名声なども合わせて判断する)によりヒトのいわゆる「利他的行動」のほとんどがうまく説明できること(戦争における小隊の仲間への献身はフィクショナルな血縁者への利他行為,見知らぬ人への親切は自己の名声の確立と解釈可能)を解説する.
そしてグループ淘汰による説明では人々の利他的行為が道徳的な感情と名声マネジメントに左右されることをうまく予測できないし,アリやハチに道徳感情や名声マネジメントがあるとは期待できないのだとしている.
ここも先ほどと同じで,「新しいグループ淘汰理論」批判というより「ナイーブグループ淘汰理論批判」の内容になっているだろう.
ピンカーによると「実証問題」として唯一問題になるのは「公共財ゲームを実験室で行った場合に,特定のセッティングでコストをかけた罰行動が見られること」だという.これをグループ淘汰でなければ説明できないと主張している学者がいるのだろう.
そしてピンカーは「実際にその後の実験結果も踏まえると,それは名声を通じた互恵的な期待によると解釈できると思われる.そしてこの最初の実験の結果はヒトの自然な環境では完全な匿名性が保たれることはまず無いという事情が大きく効いているのだろう.」とあっさり片付けている.
4. 戦争における勇敢さの問題
2.では理論的に考察したが,そもそもそのような現象はあるのか?ここでは「Better Angels of Our Nature」の著者としてコメントがある.
部族的戦争では男たちはいつも死のリスクを取っていたわけではない.表面的な争いは騒がしいだけで被害は少なく,実際の襲撃は夜間にリスクを避けひっそりと行われる.そしてそんなときでも何とかリスクを減らそうと後ろに回り,臆病者と厳しく責められるときにのみリスクを取るのだ.
初期国家ではどうか.確かに厳しい戦争があったが,当初は自発的協力というより,むごい強制という色彩のものだった.
現代国家においても自発的協力という色彩は薄い.16世紀の軍事革命まではヨーロッパの軍隊はならず者の集まりだったし,イスラムの軍隊は奴隷により構成されていた.
近代的な軍隊は中央集権と徴兵制,そして洗脳,厳しい軍事訓練により始めて可能になったのだ.第一次大戦の志願ブームも戦争は勝利とともにすぐ終わるという幻想の結果だ.突撃はそれに背くと後から撃たれるという状況で命令されたのだ.決して兵隊アリのようにグループのために自ら死んでいったのではない.もちろん中には英雄譚もある.しかしその多くはフィクティブな血縁者のための犠牲と解釈できるものだ.
では自殺攻撃は?
自殺テロの研究によると特別な環境が作られたことがわかっている.彼等は繁殖に見込みのない若者からリクルートされ,仲間からのプレッシャー,血縁幻想,血縁者への物質的名声的動機,あの世での報酬という洗脳があたえられている.これらは自殺を避ける本性に逆らうために必要なのだ.
ピンカーはそもそもグループ間の闘争が利他的性質を産むというアイデアはもっとよく精査されるべきだと主張している.あるグループが戦争に勝つには,構成員が勇敢であるよりも,うまく組織化されているか(つまりリーダーに操作されているか)どうかの方が重要ではないかとコメントしている.
そして成功した国家の規範や組織についてグループ淘汰の産物だと主張するのは「課税ベースが大きく,強い政府や魅惑的なイデオロギーや効率的な軍隊を持つ国家がテリトリーを広げる」という伝統的な歴史記述と何ら変わらないとも指摘している.
5. サマリー
ピンカーは最後にサマリーをおいている.そこでは要するに「グループ淘汰」が持ち出されるときに,ほとんどの場合緩いほのめかしに過ぎず,より正確に概念化されると理論的にも実証的にも怪しくなると指摘し,ヒトの社会の問題を解決するために進化的に考察する際の邪魔になっているだけだと主張している.
私の感想は以下の通り
- ピンカーは「新しいグループ淘汰理論」支持者たちが実際にどういう主張を行っているかに絞って批判している.そして特にヒトの社会や心理についてグループ淘汰的に説明されるときには(新しいグループ淘汰論者が数理的に包括適応度理論と等価だとがんばるときと異なって)極めてスロッピーになっていることを批判している.
- 要するに「理論が包括適応度理論と等価で正しいとしても,一体それを使って何を言っているの?」というわけだ.
- そしてピンカーの批判の具体的な中身は「新しいグループ淘汰」的なものよりも「ナイーブグループ淘汰」的な主張に対するものだ.それは,実際にはヒトの心理や社会に関する彼等の主張は「新しいグループ淘汰理論」的にきちんとマルチレベルでグループの方が優先する理由を詰めた主張はほとんどなく,このようなナイーブな主張が多いということだろう.
- 考えてみると「新しいグループ淘汰」を用いてわざわざ「血縁者を優遇したり互恵的取引相手に親切にすること」を(等価な理論であれば可能だろうが)苦労して説明することに有用性があるようには思えないだろう.
- そもそも等価なのに何故グループ淘汰理論で説明しようとするのか.D. S. Wilsonは因果の実在性という観点からその方がより良い説明だと主張しているようだが,少なくともヒトの心理の説明については実際にはよい説明にはなっていないということなのだろう.(具体的にいえば,新しいグループ淘汰理論によって道徳的感情の詳細や名声マネジメントをうまく説明できないということだ) ピンカーの本稿はそこを鋭く突いているとみることもできるだろう.