「The World Until Yesterday」 第6章 老人の扱い.敬う,棄てる,それとも殺す? その1 

The World Until Yesterday: What Can We Learn from Traditional Societies?

The World Until Yesterday: What Can We Learn from Traditional Societies?


第6章は老人の扱いだ.これは先日の来日講演で取り上げられたトピックで,ダイアモンドとしても本書の中で思い入れのある章なのかもしれない.


第6章 老人の扱い.敬う,棄てる,それとも殺す? 


<年長者>


ダイアモンドは本章をあるフィジー人のアメリカの印象記から始めている.彼はアメリカの生活のすばらしさも評価していたが,嫌悪感を持つものもあると評していた.その中でもいやなのは老人の扱いだとというのだ.

  • アメリカ人は老いた両親を老人ホームに入れてほとんど訪問しない.フィジーでは老人は友人や親戚と一緒に生まれ育った村で暮らし,多くは子供と同居し面倒を見てもらう.「あなたたちは親を棄てているのだ」


ダイアモンドによると伝統社会の老人の処遇のやり方は老人の面倒をよく見るところから,棄てるところまで幅広い.歯の抜けた親に替わって食べ物を噛んで吐き出したやるところもあるそうだ.


ダイアモンドはここでいったん,老人の定義が年齢で一義的には決まらないという問題と,伝統社会は平均寿命が短いが,それでも長生きする人はいるという点を押さえたのちに,この取り扱いの多様性をどう考えるべきかの議論に進む.


<老人介護の期待>


ダイアモンドはまず「子は親を愛しているから面倒を見る」とか「自然淘汰は子供をたくさん残す性質を有利にするので,自分を助けてくれる親を子は大事にする」というナイーブな議論を切って捨てる.
進化的に考えると親と子にはコンフリクトがあるし,自然淘汰は必ずしも親の面倒を見るようには働かない.さらにそもそもヒトの行動は複雑で単純にダーウィニアン的な行動するわけではない.あまりに当然の議論だが,このあたりに内部に突っ込んでくる論客も多いので予防線を張っているということだろう.


<なぜ棄てたり殺したりするのか>


伝統社会は親の面倒を見ずに棄てたり殺したりする場合がある.ダイアモンドはどのような条件の社会がそうなりやすいかという視点でこれを考察している.そしてこれまでの報告を整理すると,親の面倒を見るコストが大きく,それがグループ全体にとっての大きなリスクになるときにそうなりやすいとまとめている.具体例としては以下のようになる.

  • 移動する狩猟採集民における自力で歩けなくなった老人,病人
  • 極地や砂漠などで,時に食料が非常に乏しくなり,全体が餓死するリスクが生じるとき


ダイアモンドは方法の類型化も行っている.

  1. 無視する:飢えさせ,自発的に出て行くか,ゴミにまみれて死んでいくのを放っておく:イヌイット,ホピ,ウィトト
  2. キャンプの移動の際に置き去りにする:シリオノ,ラップ,サン,オマハ,クテナイ,アチェ
  3. 自殺を示唆する,勧める:その結果本人が進んで崖から飛び降りる,海に漕ぎ出す,戦争に出陣する:チュッチ,ヤクー,クロー,イヌイット,ノース
  4. 自殺幇助から同意殺人:首を絞める,突き刺す,焼く,埋める:チュッチ,カウリング(未亡人を殺すのが周りのものの義務であり,義務を果たせばよい息子として賞賛される,未亡人も進んで殺されようとする)
  5. 殺人:首を絞める,生き埋めなど


ダイアモンドは現代の西洋人がこれを聞けば空恐ろしく感じられるのは当然だが,でもよく考えてみてほしいと書いている.ここには彼等の苦渋の決断に対するダイアモンドの理解が感じられる.

しかし考えてみてほしい,移動する狩猟採集民や,全滅の危機にある人々にいったいどんな選択肢があるだろうか.そして彼等は幼い頃からその解決策を身近に見てきたのだ.また自分もいつかそのようにして死んでいくことを理解している.実際に多くの場合死ぬことへの同意がある.
私たちは豊かな社会に生まれ,そのような決断を迫られないことを幸運に思うべきなのだ.そして現代社会でも,両親が不治の病に倒れ,延命治療をして苦しみを長引かせるかどうかを決めなくてはならないことがある.これは少し似た状況だといえるだろう.