「The World Until Yesterday」

The World Until Yesterday: What Can We Learn from Traditional Societies?

The World Until Yesterday: What Can We Learn from Traditional Societies?



本書はジャレド・ダイアモンドによる一般向けの啓蒙書.ジャレド・ダイアモンドは1937年生まれで,現在75歳,もともとニューギニアの鳥類が専門の進化生態学者で,一般向けに広くヒトにかかる進化や歴史の本を書き始めたのは90年代以降になる.主な著作には「セックスはなぜ楽しいか」「人間はどこまでチンパンジーか?」「銃・病原菌・鉄」「文明崩壊」などがある.
最初の2冊はヒトを進化生態的に考えるとどう理解できるかという視点で書かれている.「セックスはなぜ楽しいか」はある意味進化心理学的な著作ともいえるだろう.「人間はどこまでチンパンジーか」は原題が「The Third Chimpanzee」で,客観的にヒトを観察するとチンパンジー属に分類してもおかしくなく,その場合は,コモンチンパンジーボノボに続く三番目の種だということになるという意味の題になっている.
「銃・病原菌・鉄」「文明崩壊」はさらに歴史や文明までスコープに取り入れた本になっている.前者はなぜアフリカやオーストラリアや南北アメリカの文明はユーラシアの文明より遅れてしまったのかを考察している.後者は,サステイナブルな文明はあり得るのかという問題意識から,より比較歴史,自然実験的手法を深く実践している本だ.
本書は,このようにヒトの進化的理解,歴史や文明についての考察を進めてきたダイアモンドによる最新作ということになる.書名「The World Until Yesterday」は「昨日までの世界」という意味だが,この「昨日」は「進化的に昨日」という意味で,農業文明出現以前(おおむね1万年より前)や国家の出現以前のヒトの社会のこと*1を扱っている.これは進化心理学的にはEEA(the "environment of evolutionary adaptedness" )と呼ばれる概念と重なっている.ダイアモンドはこのヒトの様々な本性が形作られた時期の社会や行動パターンをよく考えること*2で現代の西洋文明に生きるわれわれにとって有益なヒントが得られるのではないかという趣旨で本書を執筆しているのだ.


プロローグで自らのフィールドでもあり,西洋文明とコンタクトしてまだ100年経っていないニューギニアを紹介し*3,つい100年前のニューギニア高地社会における生活がいかに現在と異なっていたかを説明している.様々な文明の利器の他,老人の比率の多さ,肥満者の多さ,様々な部族の人が自由に移動し平和に共存していることが強調されている.私達は「昨日」までかなり異なった世界に生きていたのだ.ここからダイアモンドはトピックごとに記述している.


第1部は境界.
「昨日」の世界(以降「伝統社会」と表現する)では人々は部族ごとに分かれて排他的なテリトリーに住み,近隣部族とは境界を持ち緊張した関係の中にいた.ダイアモンドは部族間の関係,交易状況などを詳しく解説している.西洋文明とニューギニア高地族のファーストコンタクトの様子*4にも触れていて読んでいて面白い.ここは特に現代社会へのヒントはなく,いわば伝統社会の基礎編という感じだ.


第2部は戦争と平和
ダイアモンドはまず私人間紛争の解決方法を具体例を用いて解説する*5.その後様々な伝統社会の紛争解決法を説明している.現代社会との差異について特に強調されているのは,伝統社会では,紛争解決においてその後の血縁者や部族全体まで巻き込んだ復讐の連鎖を止めることが重要で,このため解決の迅速性,被害者側の感情が重視されるということだ.これは伝統社会においては国家による暴力制御(ホッブスリバイアサン)がないために一旦復讐の連鎖が始まると止めようがなく非常に暴力的になっているためだ,ここで記述されている詳細の仕組みや慣行はなかなか興味深い.
続いて伝統社会での戦争が詳しく紹介される.ここもまず具体的な例が1つ詳しく取り上げられ,その後様々な戦争の様相,現代の戦争との類似点と差異点について詳しく解説されている.なかなか迫力のある記述がつづく.
結局紛争の一部は上手く解決されずに暴力沙汰になり,それは血縁者や部落全体を巻き込みつつ互いの復讐を呼び込み長期化する.その結果近隣部族と絶え間ない戦争を行っているのが常態となり,時に部落単位の虐殺が生じる.ここでも復讐の連鎖を止めることの難しさが大きな問題であることが強調される.ダイアモンドによればファーストコンタクトの後ごく少数の警官の派遣だけで植民地政府の統治が可能なのは,彼等自身ではどうにも止められなかった復讐の連鎖を止められたことの評価の高さによるものだということになる.
ダイアモンドは全体として国家による復讐の連鎖の終結を高く評価しつつ,なお私人間の争いの解決法には伝統社会のやり方(迅速性と感情の重視)にもいいところがあるとコメントしている.このコメントは離婚や相続争いなどの引き続き関係を持たざるを得ない人々の紛争については頷けるところがある.また現代西洋の刑事司法が被害者感情を無視しがちであることも問題点としてあげており,オルタナティブ司法の取り組みを好意的に紹介している.本章を読むとリバイアサンがないところでは復讐の連鎖は大変に解決が難しい問題であることが改めてよくわかる.ダイアモンドは特に強調していないが,現代でも国際関係においては重要な問題だろう.


第3部は子供と老人の扱い.
ダイアモンドは,伝統社会を含むヒトの社会においては子供や老人をどう扱うかについては非常に多様性があるが,現代西洋社会のあり方はそのうちのごく一部に過ぎないと力説している.だから現在の西洋社会のあり方や価値観にあまりとらわれずに取り入れてもいい慣行は取り入れてはどうかと示唆しているのだ.
子供について伝統社会のあり方は幅広く,どこまで子供の自由を認めるかはリスクと逆相関であることがまず説明される.そのほかの特徴としては遊び仲間の年齢が幅広いことなどが指摘されている.ダイアモンドは現代西洋(特にアメリカ)の子供の扱いはやや偏っており,もう少し小さい頃のスキンシップを増やし,長じては子供の自立を認めるものであってもよいのではないかとコメントしている.
老人については,伝統社会の老人の扱いが非常に幅広いものであることが詳しく紹介される.ここで印象的なのは生産力の低い伝統社会の場合,グループ全体が食糧不足などの危機に陥ったときには老人を犠牲にすることが避けられないことがあり,そのための様々な慣行があることだ.ダイアモンドはそのような慣行についても詳しく取り上げ,私達は豊かな社会に生まれてそのような決断を迫られないことに感謝すべきだとコメントしている.片方で老人を大切にする伝統社会も多い.そしてそれは老人の様々な有用性と関連しているのではないかとダイアモンドは述べている.
老人についてのダイアモンドの主張は,老人にも社会に役立つ方法はあるし,「引退」という制度で様々な社会的絆から切り離されるのは不幸だということだ.具体的には老人の価値を低く見るアメリカ文化の要素に疑問を呈し,孫育ての手伝いを薦め,強制的定年制を批判している.
この子供と老人の章のダイアモンドのコメントは,幅広い伝統社会の価値観に触れたダイアモンドのアメリカ文化への素朴な疑問というところだろう.


第4部は危険への対処
ここも具体例から始める.ダイアモンドはニューギニアでフィールドリサーチをする中で,現地の人々が特定のリスクに対して一見馬鹿げたほどの慎重さ(ダイアモンドはこれを建設的パラノイアと呼んでいる)を持つことを経験する.しかしより経験を深めると,それは一回あたりの可能性は低いリスクでも生涯頻度が高いもの,結果が重大であるものに対する慎重さであり,実は合理的であることに気づくのだ.この具体例*6も詳しく述べられていてなかなか読んでいて面白い.
そして現代社会における私達のリスク対処について,頻度が高いもの,結果が重大であるもの(具体例としてはシャワーの際に滑らないように気をつける,梯子から落ちないように気をつける,車道を渡るときには十分注意するなど)についてはもっと慎重に対処した方がよいのではないかとコメントしている.
この伝統社会の危険への対処についてはあまり議論されることはないところで面白い.現代社会の問題についてダイアモンドは特にコメントしていないが,これは進化的に新しい環境においては直観的なリスク判断は非合理的になりやすいということを反映しているのだろう.


第5部は宗教,言語,健康.
ダイアモンドの宗教の進化的な説明は,最初はアトランやボイヤーのいうようにヒトの心の副産物として生じ,そこからはD. S. ウィルソン的にそれが様々な機能を持つようになり機能とともに栄枯盛衰してきたというものだ.そして各個人は自分の望む機能に合わせて宗教を選択すればいいという示唆を行っている.
この宗教の部分はかなり浅い考察で物足りない.宗教の説明にしても前半はいいのだが,後半の機能の部分はなぜ機能のみが重要でそれとともに栄枯盛衰するのかがきちんと説明されてなく,安直なグループ淘汰論者によく見られるスロッピーさのあふれた考察のように感じられる.機能的に説明するなら,信者にとっての機能,宗教組織にとっての機能,宗教組織の上位者にとっての機能(つまり操作),ミームにとっての機能をきちんと分けて考えるべきだろう.また最後の示唆にしても,ほとんどの場合宗教は親の宗教を受け継ぐだけで本人が何らかの宗教を選ぶということはまれに思われる.そしてそもそもの本書の主題との関連でいうと「宗教がほとんどすべての伝統社会にみられるユニバーサルに近いものである」以上の内容はない.私としてはこの宗教に関する部分は評価できない.


逆に伝統社会の言語環境のところはあまり見かけない考察で面白い.特に伝統社会では母語だけでなく近隣部族の様々な言語を操る人の多いマルチリンガル環境が通常だったという指摘は斬新だ.これは原始的な農業があり人口密度が高く,極めて近い範囲に多様な言語集団がひしめくニューギニアが特にそういう環境だったのだろうが,通婚や交易を考えると一般的な狩猟採集社会の進化環境でもそうだったと思われ,興味深いところだ.ダイアモンドはマルチリンガル環境は思ったほど認知負荷がかかるわけではなく,逆に利点もあることを力説し,子供をマルチリンガル環境におくことを勧め,言語の多様性の消滅の危機への憂いを述べている.


健康への指摘はよく見かけるもので,進化環境においては飢饉に備えた余剰カロリーへの好み,不足気味の塩分への好みが適応的だったが現代社会ではそれは摂り過ぎになりやすいことを説明し,肥満や高血圧にならないような食生活や適度のエクササイズを勧めている.これは現代社会のデータからだけでも十分に議論できるところだろうが,ダイアモンドの記述は進化的解説*7と至近的メカニズムの両方をバランスよく取り扱っていて理解しやすいものだ.


最後にアドバイスがまとめられている.ここでダイアモンドは本書がよくある「過去はよかった」というノスタルジー本でないことを明確にし,科学技術による快適さを除いても暴力や健康の面で伝統社会より現代の方がはるかによいものであることを強調している.その中で伝統社会のやり方のうち取り入れる価値のある部分を,選択的に現代に取り入れることを勧めているということになる.アドバイスは,従来から明らかであったもの(摂取カロリーや塩分に気をつけ,適度のエクササイズをすること),ちょっと目新しいもの(バイリンガル環境や建設的パラノイアの勧め),現代アメリカ社会のやり方の批判に近いもの(子育てや老人の扱いについて)など様々なものが混在している.


本書全体を読むと本書は「銃・病原菌・鉄」「文明崩壊」と少しテイストが異なり,進化的視点で歴史や文明を解説しようというものではなく,むしろダイアモンドが自らのフィールドであるニューギニアに深く関わることによって啓発されたことを振り返り,それを読者と分かち合いたいという思いがこもった本であることが実感される.そういう意味では本書の真の魅力はその伝統社会のやり方の詳細の記述にあるのだろう.単純にダイアモンドのアドバイスを受け入れるのではなく,詳細を読むことにより国家や科学がない狭い社会でヒトはどのように振る舞ってきたのかを読者自身がじっくり考えることができ,そしてそれぞれ様々に啓発されるのだ*8


なお本書については「銃・病原菌・鉄」「文明崩壊」の文庫版の売れ行きが好調という背景のもと,原書出版後わずか2ヶ月で邦訳「昨日までの世界(上)(下)」が出版されている.これにより多くの日本人読者に読まれることを願っている.




関連書籍


邦訳書

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来

昨日までの世界(上)―文明の源流と人類の未来

昨日までの世界(下)―文明の源流と人類の未来

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ヒトの行動を進化生物学的に考えるとどうなるかという本.最初に購入した頃のアマゾンでこれが「成人向け」扱いになっていたのも今ではなつかしい思い出だ.

セックスはなぜ楽しいか (サイエンス・マスターズ)

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原書 

Why Is Sex Fun?: The Evolution Of Human Sexuality (Science Masters Series)

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人間はどこまでチンパンジーか?―人類進化の栄光と翳り

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原書

The Third Chimpanzee: The Evolution and Future of the Human Animal

The Third Chimpanzee: The Evolution and Future of the Human Animal


これが代表作ということになるのだろう.「銃・病原菌・鉄」

原書

Guns, Germs and Steel: The Fates of Human Societies

Guns, Germs and Steel: The Fates of Human Societies

改訂版

Guns, Germs, And Steel: The Fates of Human Societies [New Edition]

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これも文庫本としてよく売れているようだ,「文明崩壊」

文明崩壊 上: 滅亡と存続の命運を分けるもの (草思社文庫)

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原書

Collapse: How Societies Choose to Fail or Succeed

Collapse: How Societies Choose to Fail or Succeed

改訂版

Collapse: How Societies Choose to Fail or Succeed: Revised Edition

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歴史の自然実験に関する本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20101228

Natural Experiments of History

Natural Experiments of History


本職の鳥類学者としての本もある.

The Birds of Northern Melanesia: Speciation, Ecology, & Biogeography

The Birds of Northern Melanesia: Speciation, Ecology, & Biogeography

  • 作者: Ernst Mayr,Jared Diamond,H. Douglas Pratt
  • 出版社/メーカー: Oxford Univ Pr on Demand
  • 発売日: 2001/12/06
  • メディア: ハードカバー
  • クリック: 3回
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*1:というわけで本書では厳密に狩猟採集社会のみを扱うわけではない.例えば頻繁に登場するニューギニア高地のエピソードは農業を行っている社会のものだ.詳しい定義は本書の中にある.

*2:ダイアモンドは進化環境であるということだけでなく,このような長い時間の中で様々なやり方が自然実験として試みられてきた結果残されたやり方であることも強調している.自然実験へのこだわりはいかにもダイアモンドらしい.ある意味文化進化の結果という趣旨でもあるのだろう

*3:冒頭でいかにも現代西洋風の空港風景を描写し,それが実はポートモレスビー空港であると打ち明ける.西洋文明の浸透の速さを強く印象づける上手い手法だ

*4:最も最近であり,かつ詳細な記録が残っている.このあたりの紹介も詳しい.

*5:具体例から始まるのが,いかにも英米法におけるケーススタディのようで面白い.

*6:指摘されれば納得するが,意外なものとしては,「アフリカの大型獣は危険,特にカバが危険」「倒木の下敷きになること,樹木から落ちることは重大なリスク」「原野の中で迷ったり,怪我をすることは死に直結する」「火は野火よりも家の中の火の方が危険」などがある.またアメリカ文化では男性はマッチョであることを強調し,慎重である印象を与えないようにするが,狩猟採集民族の文化では用心深さは全くマイナスの印象を与えない(マッチョは馬鹿のイメージということだろう)という指摘も面白い.

*7:この中では,「なぜヨーロッパ人は他民族に比べ糖尿になりにくいのか」「なぜナウル島民の極端な糖尿病頻度が最近低下しているのか」はともに自然淘汰で説明できるという記述が興味深い

*8:そしてそのような素材として考えると,伝統社会の記述としては,文化人類学の書き手によく見られる強い文化相対主義の呪縛にとらわれていない自由な書きぶりも本書の魅力の1つだろう.