
Did Darwin Write the Origin Backwards?: Philosophical Essays on Darwin's Theory (Prometheus Prize)
- 作者: Elliott Sober
- 出版社/メーカー: Prometheus Books
- 発売日: 2010/12/01
- メディア: ペーパーバック
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ダーウィン自身は「種の起源」の主張について「一つの長い議論」と呼んでいる.そしてソーバーによると学者たちはこの議論の主題が何かについて悩んできたそうだ.ソーバーはこれについて考えるためにはロジックとレトリックを区別しなければならないと警告している.
<因果と証拠の順序>
さて本書ではここまで,ダーウィンの議論には,「自然淘汰が進化を進めるメカニズムである」という主張と「全生物は起源を共通にする」という主張の二つ(ロジック)が含まれていると指摘されている.ではダーウィンはこの二つをどのようにプレゼン(レトリック)したのか?
これは種の起源を読んだことのある人ならすぐわかる.ダーウィンはまず自然淘汰について長々と書き,その議論の弱点を自ら指摘してさらに議論を重ね,最後になって共通起源性を(ここで少し,あちらで少しというように)分断的に扱うという構成にしている.
よく知られているように「種の起源」の最初は人為淘汰から始まる.ソーバーによれば,これは淘汰の観察例(証拠)なのだ.そこから自然淘汰の存在を推測し,それこそが進化を押し進めたと主張する.ソーバーはダーウィンはまず共通起源性の証拠から始めることもできたはずだという.確かに序言には同じ属に属する生物の共通起源について語り,第1章でハトが間違いなく単一起源であることをうれしそうに書いている.しかし全体の構成としてはまず自然淘汰なのだ.
ソーバーはここでダーウィンがエイサ・グレイ宛に出した私信を紹介している.それによるとこの本についてダーウィンは「個人的には自然淘汰についてよりケアしていたが,問題は「創造」なのか「変化」なのかということだったのであり,本の主題としては共通起源性の方が大きい」としているそうだ.
ソーバーはさらにそれにもかかわらず本「種の起源」が自然淘汰から始まっていることについて,彼のオリジナリティの主張や,サルとヒトとの共通起源性(という危険な話題)に興味を持たれたくなかったという動機があったかもしれないことを認める.
しかしソーバーとしてはこれはダーウィンの二つのロジックの関連に関する理解に由来するものだと主張する.彼の議論は以下のように進む.
ソーバーはこのダーウィンの理解の現代的意義については解説してくれていない.私の理解ではダーウィンの分岐の理論は,分岐を淘汰によるものとして同所的種分化的に説明するものだ.だからもしすべての分岐が同所的種分化によるものであれば,確かに自然淘汰は系統樹が分岐状になることの原因といえるのかもしれない.しかし多くの分岐は異所的であることが明らかになっており,(つまり分岐は自然淘汰だけで生じるのではなく(偶然を含む)様々な環境要因によって生じる)ダーウィンのこの理解はあまり意味を持たなくなっていると整理できるだろう.
ここでソーバーはさらにもう一点コメントしている.
ソーバーは「ハイパー適応主義はこのダーウィンの議論にはないのだ」とコメントしている.ドーキンスをあまりお気に召していないソーバーらしい一言だ.
これも現代的にはどうかをソーバーは語っていない.現在は系統推定は分子的証拠に基づくことが大半だろう.そして分子的進化が完全にハイパー適応的に生じるなら(そしてもちろん実際にはそうではないが)最尤推定は(適応の過程を数理的にモデル化するために)実際より遙かに難しい作業になるだろう.だからこのポイントの骨格は引き続き残っている.
ここでソーバーはダーウィンの証拠についての議論のアウトラインをこう整理する.
議論の骨格は以下の通り
- 生物は共通起源をもつ.その議論においては(痕跡器官,発生過程などの)不要形質,有害形質が重要な役目を果たす.
- 生物が共通起源を持つということは,進化は種の壁を越えられることを示している.
- 自然淘汰は適応的形質の説明の重要な部分となる.ここでは人為淘汰の観察とマルサス的な議論が重要な要素になる.
そして実際に「種の起源」ではまず3,次に1,最後に2という順序で構成されている.
これが,「ダーウィンは共通起源性を考えるときに自然淘汰をどう使ったか」ということに対するソーバーの主張だ.ソーバーは次に「ダーウィンは自然淘汰を考えるときに共通起源性をどう使ったか」という問題を扱う.