「ずる」

ずる 嘘とごまかしの行動経済学

ずる 嘘とごまかしの行動経済学


本書は「予想どおりに不合理」「不合理だからすべてがうまくいく」などの著者として知られる心理学者,行動経済学者のダン・アリエリーによる第3弾となる本だ.原題は「The [Honest] Truth about Dishonesty: How We Lie to Everyone - Especially Ourselves」.前2冊はヒトの経済的意思決定全般にかかる「経済合理性」を逸脱した傾向が主題だったが,本書は不正行為にかかる意思決定の問題が主題になっている*1.そして「ヒトは不正行為の意思決定においてもやはり経済合理性からは逸脱するのだ」というのが本書の主張になる.

なお本書で取り上げる不正行為は誰しも誘惑されてしまうちょっとした「ずるい」行為が中心になる.犯罪性が高いものは倫理的に実験しにくいという問題があるし,誰しも誘惑されるわけでもないからユニバーサルというより個性の領域が多くなるという事情もあるのだろう.そして本書でなされる多くの議論は「学生にある根気のいる作業*2を依頼し,その成績に応じた報酬を(不正がばれない)自己申告のみに基づいて支払う場合に,どのぐらい成績を上方にごまかすか」という実験結果に基づいており,なかなか迫力がある.
著者がこの問題に関心を持ったのはエンロン事件がきっかけになる.それまでの通説的見解であった「単純な合理的犯罪モデル*3」はおそらく間違っており,再発防止を考えるためには不正の生じる仕組みの正しい理解が重要だと考えるに至ったというのだ.


最初のテーマは自己正当化だ.著者は,ちょっとした犯罪の実行意思決定は,単に経済的な期待利益だけでなく,それを心の中で繰り返し正当化することがどれだけ容易か(自分がそこそこ正直な人間だと自己イメージを保てるかどうか)に大きく影響されると主張する.アリエリーの自己正当化についての微妙な条件探しはなかなか微に入り細に入り興味深い.様々な実験や調査を元に以下のようなことが解説されている.

  • 学生のごまかし量は報酬の額に相関しないどころか少し逆相関を示す.(報酬が大きくなると,ごまかしをしながら自分の正直さに満足し続けることが難しいからだと解釈できる)
  • 監督者が盲目かそうでないかという形で露見確率を操作する実験では,ごまかし量は露見確率と無相関となる.また別の「盲目者をカモにするかどうか」という実験では逆相関になる.(露見確率より自分自身における正当化の困難性の方が大きな影響を与えるからだと解釈できる)
  • ごまかして得るものが,グッズではなく現金の場合にはより正当化が困難になり犯罪閾値は下がる.(これは社会がキャッシュレス化した場合に犯罪が起きやすくなることを示唆している)
  • 被害者の怒りも同じ影響を受ける.車からナビが盗まれる方が,コンサルタントや弁護士から怪しげな時間計算に基づく(遙かに高額の)請求書を受け取るよりも腹が立つ.
  • (宣誓,署名などにより)道徳規範を意思決定の直前に*4意識することは犯罪閾値を下げる.*5
  • ゴルファーのスコアごまかし量も心の中の自己正当化の困難性に影響を受ける.ルールに解釈の余地があるときや判断にグレー領域があるときにごまかしは増える.

自己正当化に関するこれらのアリエリーの指摘はなかなか興味深い.実験により定量的に示されているところも迫力十分だ.もっともこれらの効果を「自己正当化」とだけ考えるのは「自己評価」を過大視する心理学の影響を受けているようにも感じられる.アリエリーは究極因については全く触れていないが,私にはこれらはどちらかといえば「露見した場合の周りの人々に対する(自己欺瞞的な状況を含めた)言い訳の容易さ,あるいはその結果のレピュテーション下落リスク」にかかるもののように思われる.


2番目のテーマは利益相反状況だ.利益相反状況は不正の大きな要因になる.(アリエリーは明確に述べていないが,自分の利益になることについては正当化にかかる自己欺瞞が生じやすくなるということだろう)これについては以下のようなことが解説されている.

  • 恩義を受けた人には返酬したいという無意識の衝動が生じる.これを利用して利益相反状況を作ろうという賄賂的なビジネス慣行がある*6
  • リーマンショックの背後には,モーゲージ証券の価値を(顧客にとって不利になる)割り増し評価することにより自分のボーナスが増えるという利益相反状況があった.さらに実行行為はスプレッドシートの数字をちょっといじるだけという正当化しやすい行為であった.
  • 民事裁判における専門家証人も依頼者から報酬を得るという状況におかれており,裁判の公平性との間で利益相反状況に陥る.
  • 利益相反状況に関してはディスクロージャーがよく解決策として提示されるが,これも万能ではない.実験によれば,ヒトは開示された相反状況からくる偏向を過小にしか評価できない.

アリエリーは新しい知見のように書いているが,「利益相反状況が不正と重大な関係がある」というのは古くからよく知られた事実だろう.そして最初の「受けた恩義を返すことによる満足感」をきちんと効用として評価すれば,これは合理的犯罪モデルで十分説明できることのように思われる.なお最後の「人は開示された相反による偏向を正しく評価できない」という結果はなかなか興味深い.


3番目のテーマはカーネマン的な意思決定の二重過程の問題だ.アリエリーは不正の誘惑に立ち向かうのは遅い熟考的過程であるとし,認知的負荷が高い状況や(誘惑に抵抗し続けなど熟考的負荷を繰り返した結果)疲れると弱くなると指摘する.また実験において実際に認知的負荷を与えるとごまかし量は増えることを説明している

このあたりはバウマイスターたちのリサーチによる部分だ.至近メカニズム的にはなかなかおもしろいところだと思う.


4番目のテーマは自己シグナリング.次のようなことが解説されている.

  • 人々は偽物を身にまとっているとより不正をしやすくなる.
  • 連続して不正の機会を与える実験を行うと,はじめは少しづつ不正をしていたものが,あるところからあらゆる機会を捉えてごまかすようになる.アリエリーはこれを「どうにでもなれ」効果と呼んでいる.(これらの結果を,人は一旦偽物を身につけると自分に対する見方が変わり,一旦自分を「ごまかしを行う人間」と認識すると道徳的抑制心が弱くなることを示している)
  • また偽物を身につけていると他人の行動についてもより懐疑的になる.
  • これらの知見は偽造品は(ブランド企業だけでなく)社会全体に対して被害を与えていることを示している.要するにどんな小さな不正行為もとるに足らないと片づけるべきではない.

自己シグナリングが不正に大きく関わっているというのは非常に興味深い発見だ.実験ではサングラスを用いているが,かけている(同じブランドものの)サングラスが「本物か」「偽物か」の教示の違いによって驚くほど大きなごまかし量の差が示されていて,結構衝撃的だ.
進化的にはこれも,「露見した場合の言い訳の容易さ,その結果のレピュテーションの下落リスク」に絡んでいるように思われる.すでに汚れていて今後あまり回復が望めないならレピュテーションを気にする合理性が下がり,より機会主義的になるということではないだろうか.


5番目のテーマは自己欺瞞
まず実験的に人が簡単に自己欺瞞に陥ることを示している.また後知恵バイアス,自己評価バイアス,自信過剰バイアスなどについても様々な事例*7が取り上げられている.*8

もっともこれがちょっとした不正の要因とどう結びついているかについてアリエリーは特に分析を行っていない.またなぜ自己欺瞞をするかについてナイーブな「自己評価を高めるため」説明になっていて物足りない.トリヴァースやクツバンの踏み込み方に比べて余りにも浅いという感想だ.基本的には自己欺瞞状態になっている方がより「露見した場合の言い訳」に迫力が増すからだということになるだろう.


6番目のテーマは「意識における後付けの説明」について*9.アリエリーはこの後付け説明のうまさ(これ自体は知性と無相関だが)に個人差があって,それが高い人ほど道徳的正当化の能力が高く,そして不正をしやすいと議論している.

この後付け説明と自己欺瞞の関係については指摘はあるものの,その究極因的な関係*10についてあまり考察がなく,やはり浅いという印象だ.結局より言い訳が上手にできる認知能力があればより不正の選択肢が広がるのだろう.しかしこの後付け説明能力がプライミングによって操作できるというのはなかなか興味深い発見だ.


7番目のテーマは不正の「感染」.アリエリーは一連の実験で不正傾向に感染性があることを示す.人は誰かがあからさまに不正をしているのを目撃すると自分もそれに手を染めやすくなるのだ.そしてその不正者が自分と同じ集団に属しているとこの効果は大きくなる.アリエリーはこれは社会にとっては重大な問題だと指摘し,対応策として割れ窓理論に好意的だ.

「感染」は日本でいうところの「赤信号,皆でわたれば怖くない」という現象と同じだろう.これも「露見したときの言い訳容易性」に絡む問題のように思われる.


8番目のテーマは「協動」.アリエリーは不正における社会的側面をまとめて議論しようとする.そして「他人のためになる」不正には手を染めやすいこと.「監視」があると不正が抑制されること,継続的な信頼関係はごまかしの誘因にもなることを指摘する.アリエリーは利他的不正を「社会的効用」で,監視効果を「協動的環境」で説明し,信頼関係には代償もあるとコメントしている.

しかしこのまとめ方にはあまり納得感はない.利他的不正は「露見したときの言い訳の容易性」の問題だし,「監視」はまさに犯罪の合理性モデルにいう「露見確率」の問題のように思われる.そして「継続的信頼関係が露見確率を下げる方向に働く」と認知されたときにより不正の誘因となっているのではないだろうか.

最後にアリエリーは「不正を減少させるためには犯罪の合理性モデルだけではなく様々な要因を組み入れたモデルと用いるべきだ*11」と主張して本書を終えている.


本書の主題は,「ヒトはその場に見える利益と露見リスクのみに反応して不正を行っているわけではない」という主張だが,やや合理的犯罪モデルの問題点を誇張しているような印象を受ける.アリエリーの指摘の多くは「ヒトは社会性の動物であるから,その評価にかかる効用も併せて考えるべきだ」という要素も考慮すべきであるということのように思われる.そして「露見した場合の言い訳によるレピュテーション回復の容易性」という社会的な効用を考え,少しリスクと効用の定義を広げれば,拡張された合理的犯罪モデルとしてまとめられそうに思われる.そうなっているのは,アリエリーは議論の中で,発見事実から得られた様々な要因について,その究極的な説明を考慮せずに並列的に並べているためでもあるのだろう.究極因から考えると,結局それはレピュテーションの維持というところに焦点が当たり,かなりまとめられそうな印象だ.
また本書において扱われている「悪」は誰でも誘惑されそうなちょっとした不正であり,強盗など一部の人しか手に染めないような重大な犯罪については少し異なる考察が必要になるだろう.
とはいえ本書の魅力は様々な知見が様々な独創的な実験によって見事に実証されているという事実のもつ迫力だ.それそれの説明は具体的で説得力も十分だし,驚くほど効果が大きいものもあって読んでいて衝撃的だ.そして細部には簡単には説明できないような興味深い発見もある.なかなか独創的な面白い本だと思う.


関連書籍


原書

The Honest Truth About Dishonesty: How We Lie to Everyone---Especially Ourselves

The Honest Truth About Dishonesty: How We Lie to Everyone---Especially Ourselves

アリエリーの本.「予想どおりに不合理」についての私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20090201

予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」

予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」

不合理だからすべてがうまくいく―行動経済学で「人を動かす」

不合理だからすべてがうまくいく―行動経済学で「人を動かす」

バウマイスターの意思の力に関する本(私は未読)

WILLPOWER 意志力の科学

WILLPOWER 意志力の科学

同原書

Willpower: Rediscovering the Greatest Human Strength

Willpower: Rediscovering the Greatest Human Strength



 

*1:原題だと自己欺瞞の本のようだが,自己欺瞞は本書のごく一部の話題にすぎない.珍しく邦題の方が適切だろう

*2:20個の3桁(小数点以下が二桁)の数字の中から足して10になる組み合わせを見つけるということを繰り返す作業.結構疲れそうなしんどい作業だ.

*3:犯罪を実行するかどうかは確率で重みづけられたコストとベネフィットに基づいて決められるという考え方

*4:(直前というわけではない)倫理に関する集中講義や啓蒙活動などは影響を与えない

*5:これに関して,ある教授が学生の試験に際して「不正行為は絶対にやりません,もしやれば地獄に堕ちるであろう」という文章に署名を求めようとしたところ,大反発を食らって撤回させられたという逸話が紹介されている.アリエリーはそれが感情的に強く反発されるということ自体,その方略に効果があることを示しているだろうとコメントしている.また納税申告書の様式を変えた方が脱税が減るのではないかとIRSを説得しようとして失敗した傑作な話も紹介されている.

*6:例として製薬会社のMDのやり口が説明されている.医師は無意識のうちに患者の利益と恩義を受けた製薬会社の利益の相反状況に陥るのだ

*7:いかにもアメリカ的な軍歴詐称が詳しく取り上げられている.なかなか痛ましいケースも多い.

*8:なおアリエリーはここでスポーツにおけるステロイド使用も自己欺瞞の例としているが,これには違和感がある.彼らは自分の成績が薬のせいではないと自己欺瞞に陥っていたわけではないだろう.(そうかもしれないが少なくともそれは示されていない)

*9:アリエリーはこれを「創造性」と呼んでいるがあまりいい用語には思えない

*10:クツバンによると意識はまさに後付け説明のためにあるのであり,その目的は自己欺瞞にある.そして自己欺瞞自体は他者の操作の容易性のためにある

*11:誘惑の瞬間に道徳心を思い出させる仕組み,一旦汚れてしまった自分をリセットできる仕組みなどが具体的に提案されている.