「Caught in the Pulpit」

Caught in the Pulpit: Leaving Belief Behind

Caught in the Pulpit: Leaving Belief Behind


本書はダニエル・デネットとリンダ・ラスコーラによる「神を信じることができなくなった聖職者」についてのリサーチをまとめた本だ.ダニエル・デネットは著名な科学哲学者で「Breaking the Spell(邦題「解明される宗教」)」という宗教にかかる本を著し,新無神論者の一人とされている.そしてそれに触発されたラスコーラと協同してこの「神を信じることができなくなった聖職者」についてのリサーチを始めることになる*1.二人はまず2010年にそのような聖職者5人のインタビューの分析を中心とする「Preachers Who Are Not Believers」*2という論文をパイロットスタディとしてEPJournal誌に投稿し,受理される.そしてこれは大きな話題になり,さらに協力者が現れ,一方でそのような悩みを持つ聖職者たちのための互助組織「The Clergy Project 」*3も立ち上がる.本書は女性を含む30人の様々な宗派の追加協力者とのインタビューを分析して書かれたものになる.

最初にこのテーマを聞くとなんだかコミカルな話題にも思えるだろう.しかしこれは一神教が優越する社会ではかなりシリアスな話になる.彼等は信心深いキリスト教の世界に囲まれて育ち,若くして人の役に立ちたいと純粋に志し,ごく自然に聖職者への道を歩み始める.そして神学校に進み,それまで日曜学校で聞いていたのとはまるで異なる教義解釈や聖書の歴史を教わり,大きく信仰心が揺らぐ,そして悩みを持ちつつもキャリアは進み,どこかで決定的に信仰を失うのだ.しかしそのときにはすでに彼/彼女は人生を聖職者のキャリアに大きく賭け過ぎていて,経済的にも,家族や友人との絆という意味でももはや引き返せないところに追い込まれている.デネットはこれらの現象について,基本的に「組織宗教は人の心に寄生するミーム複合体である」という立場から考察していくのだ.

序言はドーキンスが寄せている.その冒頭はこう始まっている.これは宗教が引き起こす人生の悲惨さの一つなのだ.

普通の人はある物事について意見を求められれば,自由に情報を求め,自由に考察できる.しかしある主題についてそれを禁じられている職業に就いているのならどうだろうか.そしてその主題が世界の真実や倫理についてだったら,そしてそのように考えろとされるのと異なる意見をもってしまったら.仕事や人間関係を失わないためにはあなたはそれを秘密にするしかない.片方でその仕事の要求職業倫理水準が非常に高いとするなら,あなたはそれとその秘密との矛盾に,恥ずべき偽善に苛まれることになるだろう.これこそが本書のテーマである聖職者たちの置かれた状況だ.
職業上のスキルは学習や訓練によって得ることができる.しかし「あることを信じること」は努力すればできるわけではない.これは「パスカルの賭」に対する反論の一つでもあるのだ.

最初にこのリサーチの背景や手法を説明するイントロダクションがおかれている.
その中では最初のパイロットスタディに対する宗教界の反応が書かれている.彼等はタネをばらされた手品師たちのようだったとデネットは皮肉っている.片方でデネットはそれがある種の脅威であるのは事実であり,これは(数十年前の状況として)「全身麻酔は,痛みを止めるほど深くかけるより,痛みの記憶をなくす程度にした方が安全であり,実務的にもそう運用されている」という事実を公表するかどうか(公表すると患者が不安に感じより麻酔がかかりにくくなる)という問題に似ているともコメントしている.しかし最終的には聖職者たちの悲惨を考えるとこれは進めるべきリサーチだと決断したとしている.
またこのリサーチは「信者であるとはどういうものか」「無神論者であるとはどういうものか」という問題を含み,意識の問題に似ていると指摘し,ここでもヘテロ現象学の手法を用いると言明している.また問題の性格上ナイーブな被験者なるものは存在しないし,信仰自体とらえ所がない部分があるということにも触れている.要するに,できるだけバイアス排除につとめたが,コントロールされたダブルブラインド法が使えないための限界はあるということだ.(これらの手法に関しては巻末付録に詳細が説明されている)そして最後にこのような現象がどれだけの広がりがあるかという問題は非常に興味深いが,全くわからないと認めている.統計的な証拠ではないところにも注意が必要だということだ.

第2章には今回のスタディの代表として典型的な5人のインタビューの概要が収録されている.
前回のパイロットスタディとは異なる人々で,宗派はプロテスタントの長老派,ルター派のほか,カトリック,モルモンとなっている.彼等の人生模様は様々だが,共通点もある.幼い頃からこれこそ進むべき道と考えて聖職者になったこと,神学校で聖書の真実を教えられ,様々な経緯で教義に対して懐疑的になり,自分の偽善,家族やコミュニティーを失うことを苦悩していることなどが語られている.懐疑的になるきっかけは「悪の存在」「他宗派と比べて自分の宗派が何か特別ではないこと」「聖書の成り立ちを知ったこと」などが多いようだ.「信じたかったがそうすることは不可能だった」という述懐も目につく.自分がレズやゲイである場合にはまた別の苦悩がある.モルモン教は少し変わっていて聖職者はキャリアではなく回り持ちでつとめるのだそうだ.彼は「輪番制で本当によかった,他の宗派の場合は人生をそれに賭けてしまっているのだから」とコメントしている.


第3章はデネットによる自発的に組織化された宗教の仕組みの解説だ.
宗教組織も継続しようとするならいくつかのデザインフィーチャーがなければならない.そのような特徴を持ったものだけが残ることができる.デネットはそれは,細胞の必要条件と同じだとして3つにまとめている.

  • 代謝:エネルギーの取り込み
  • 繁殖:生存戦略の次世代への受け渡し
  • 保護膜:取り入れが望ましいものを取り入れ,毒を取り入れない.

そして特に保護膜を議論している.宗教においては外部の毒(望ましくない情報)をいかに遮断するかが問題になる.それは宗教組織が自然を真似たというより収斂であり,そして意図的なデザイナーがいないところも似ているのだ.
典型的な毒は「教義と矛盾する真実」だ.また道徳規準が変化した後の聖典の解釈も問題になる*4.宗教によって保護膜の詳細は異なる.秘密主義派閥やカルトは外へのアクセスを禁じる.オープンドアポリシーを標榜する教会もある.しかし誰かがモニターしなければならないという問題は共通だ.そしてそこにはこのモニター役をどうやって毒から守るかという問題がある.この意味においては世界はどんどん情報化が進み問題は難しくなっている*5
毒はシリアスな議論だけではない.(宗教家の偽善や強欲を茶化す)サウスパークのようなコメディは,ギャグに「共通知識」性を用いることにより*6何が真実かについて視聴者に強い影響を与える.
デネットはこれらの問題は宗教だけでなく「信頼」に依存しているほかの組織(新聞,銀行,病院,大学,政府など)にも共通の問題だと指摘している.それらの業界では「何が真実か」についての評判操作を巡るアームレースが生じている.これはカンブリア紀に突然海が透明になり,視覚が有利になり眼が進化ために,捕食を巡るアームレースが勃発したのと似ている.宗教はこの100年で,それまでの1千年以上に大きく変化した.そしておそらく後20年でより大きく変化せざるを得ないだろう.
真実,道徳のどちらの視点からも,聖典は再解釈していかなければならない.このような状況は神学校の教授の仕事を難しくしている.それは論理的にも微妙で,かつ生徒の信仰心を失わせるリスクをはらむものになる.また宗教を擁護しようとしているリベラルな議論(ロバート・ライトやニコラス・ウェイドなど)であっても,ごく普通の人の信仰心を破壊しかねない中身になっている.デネットは最後に,それでもそれらを扱っていかなければ宗教は絶滅するしかないのだと結んでいる.
このデネットの議論はなかなか新鮮だ.冷戦終結以降世界はより宗教に振り回されているような印象を持つ人も多いだろうが,実際に信仰を保てなくなった聖職者を見ていくと,宗教側は現代情報社会に対応するために絶望的な戦いを遂行中であるという事情がわかる.進化や共通知識性を用いたデネットの議論はなかなか流麗で読み応えがある.


第4章はケーススタディから見た懐疑の成長の過程を叙述する.
神学校では聖書の成り立ちについて,かなり事実ベースから見た歴史を教える.要するにこれは神から直接与えられたものではなく,いろいろな時代のいろいろな人が書いたものの寄せ集めだということだ.これに直面した生徒は,通常激しく動揺する*7.いずれにせよまずこれを秘密にしなければならないと思いこむ.それはイニシエーションの儀式なのだ.そしてそれが自分たちの信仰心にとってどういう意味を持つかに目をそらす.それに気づくのは通常人生を大きく聖職者のキャリアに賭けてしまった後になる.彼等は自分の懐疑と職務上の要求をうまく扱おうとするがそれは難しい.
リベラル派(聖書はメタファーであると認める教派)なら,聖書が字義通り真実でないと認めやすいが,リテラル派(聖書の語句はすべて真実だという立場をとる教派)からのクレームには対応できない.リベラル派の持つ別の問題は聖書の文言について自分の考えていることを表現する言葉を持たないというところにもある.これは聖職者として説教することを難しくする.自分が得た知識をどう信者に伝えればいいかがよくわからないし,そもそも信者はそんな最新の聖書解釈など聞きたくないという現実に直面する.信者は自分が信じていることだけを聞きたいのだ.彼等はそれでも何とかうまくやろうとする.しかし三位一体などの論理的に矛盾した教義に悩み,教会のスキャンダルを知り,ドーキンスなどの議論に触れることなどを通じ,最終的に懐疑は揺るぎなきものになる.あるものは燃え尽き,あるいは深く絶望し鬱状態になる,彼等は聖職を去る場合もあるし,それでも残らざるを得ないものもいる.


第5章はケーススタディから得られたいくつかの知見を取り上げる.
最初は聖職者はどのような苦境に立たされるのかという問題.リベラル派とリテラル派の聖職者の置かれる状況はかなり異なる.リベラル派の聖職者は自分たちの信仰はリテラル派と異なり洗練されていると主張する.彼等は聖書は字義通り真実ではないが意味あるものだという立場をとり,進化を事実として認め,同性愛を倫理として認める.そして原理主義者たちの態度は無神論者と同じぐらい酷いという.しかし彼等が何を信じているのかははっきりしない.彼等は様々な考えの信者たちに対して,微妙な意味を単語に込め*8,曖昧なメタファーにあふれた言い方でしか説教できない.そして時にその信仰の内容は無神論とほとんど何も変わらないことになる.
リテラル派の聖職者はどうか.彼等は「真実」について曖昧な態度をとれない.リベラル派は不誠実で,ごまかしているだけだと考える.そして自分たちの信条を,とても理解できない驚嘆すべき論理で武装する.それはまさに「自分の信仰心の強さ」を示すための「私は自分の知性を疑われかねないこんな馬鹿げたことを真面目に公的に表明できる」というコストのかかるシグナルとして機能する.しかし誠実に真実について考察を続ければ,どこかで破綻し,その結果信仰がすべて失われる.

次は信仰を保てなくなった聖職者は何を得て,何を失うのかについてだ.彼等は極めて明瞭に答えてくれる.得られる最大のものは知的な誠実性だ.全く新しい知識の地平に出会い*9,何でも自由に考え,議論できる.自然淘汰の議論に興奮し,悪の存在に悩むことはなくなる.心の平安を得たというものも多い*10.失うものは多くの同僚や家族や友人との絆,それから得られる安らぎ,そして永遠にケアされるという感覚の喪失だ.


第6章ではパイロットスタディの協力者の現状をレポートする.
5人は当時聖職にまだ就いていた.そしてそれは3年後の今も変わっていない.カミングアウトして周りに受け入れられている人もいる.同じく奇跡を信じられない周囲の人の助けになっているケースもある.引き続き妥協に満ちた聖職生活に閉じ込められた人もいる.状況はさまさまだ.


第7章は第3章で解説された宗教組織の仕組みについてのデネットのさらなる考察.
デネットは「保護膜は情報フィルターだけではない.ポリシーとプラクティスの中にも保護膜として機能しているものがある」としてやはり宗教にみられるデザイナーなしのデザインフィーチャーをいくつか取り上げている.

  • 「尋ねるな,しゃべるな」

これは「Don’t Ask, Don’t Tell」として軍におけるゲイについてのポリシーとして有名になったものだ.要するに,「聖職者や信者に対して彼等の信仰の中身を具体的に尋ねるのは大変失礼であり,そうしてはならない」「相手の信仰心を揺るがせるようなことは言ってはならない」というポリシーだ.これは信仰を失った聖職者にとってはまさに天からの贈り物だ.しかしこれは偽善への道でもある.彼等はアクロバティックな話法を強いられ,罪のない嘘と罪深い嘘の間をさまようことになる.

  • 「認識論的謙虚さ」

「上位者や年長者に対しては自らの主張に対して謙虚であれ」これにより聖職者は面と向かってチャレンジされるリスクが減る.しかし宗教の擁護者は自分の論拠をきちんと考察しないという副作用を受ける.そして擁護者にとってデネットドーキンスなどの新無神論者が厄介なところは,彼等がこの手の抑制を受けないことだ.デネットは擁護者に対していつも「読むべき文献リスト」を教えて欲しいとお願いするが,それが示されることはない.スタディの対象者は,多くの宗教の真実性についての論点について,それを全く考えたことがなかったと述懐している.そして一旦それを考え始めると,それは彼等自身の解放へとつながる.

最後に関連する論点としてフィリップ・キッチャーの宗教擁護論に対する反論コメントが収められている.
キッチャーは,情報化時代を宗教が生き残るにはビリーフモデルを棄て,オリエンテーションモデルに転向すべきだと議論する.コミュニティと伝統に対するコミットメントを行い,信者の人生行路に道を示し,その根拠については「神秘的な自覚的メタファー」と「ビリーフシステムをもてあそぶ教義もつれ(doctrinal entanglement)」の間にある「便利な曖昧さ,教義不定(doctrinal indifiniteness)」に立てばいいとする.デネットはそれは偽善への道だし,倫理問題の根拠にはできないだろうとコメントしている*11


というわけで,本書は聖書の記述や神を信じられなくなってしまった聖職者の苦境をドキュメントし,さらになぜそのようなトラップがあるのかについていかにもデネット風の解説が収められているというちょっと変わった本になっている.日本では,このような強い信念システムを持つ宗教が多数派ではないのでちょっと実感がないが,「根拠なしに何かを信じる」ことが構成要素になっている組織には常につきまというる問題として考えれば,いろいろと興味深いところも感じられる.
私は進化生物学への興味からこのようなID批判や新無神論の本も読むようになったわけだが,この手の本を読むたびに,日本の仏教の多くが葬式儀式の執行者だけの役割になっていることに本当にほっとする.一向一揆の頃はそうではなかったのだから.これは感謝すべき歴史の僥倖*12ということなのだろう.


関連書籍

無神論に関するデネットの本.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20070218,読書ノートはhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20061023以降にある.

Breaking the Spell: Religion as a Natural Phenomenon

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解明される宗教 進化論的アプローチ

解明される宗教 進化論的アプローチ


おなじくドーキンス本.アメリカではこちらの方がよく売れているようだ.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20070221,読書ノートはhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20061201以降にある.

The God Delusion

The God Delusion

神は妄想である―宗教との決別

神は妄想である―宗教との決別



なお本書のパイロットスタディ中にこの問題を題材にしたデネットの講演がある.
それを扱った私のブログ記事はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20091108

*1:巻末付録にラスコーラとデネットのこれまでの宗教との関わりの歴史を説明した小文がつけられている.ラスコーラは教会の雰囲気が好きだったが,歴史を学んで懐疑に転じた.そして同じように歴史を学ぶ神学校の生徒がどう感じているかに興味を持ち,デネット接触してこの「認知的不協和」のリサーチを始めたそうだ.デネットは最初から奇跡などには興味が無く,宗教は社会的なものだった.14歳の頃には自分が無神論者であることに自覚したが,教会音楽は好きだったし,その後も,教会の中絶反対やテレバンジェリストの不誠実性には驚きかつあきれていたが,特に波風立てることもなかった.しかし21世紀になってドーキンスから「ブライト」呼称運動(同性愛者が自分たちのことをホモと呼ばずに「ゲイ(喜び)」と呼ぶようにしたのと同じように,無神論者は自分たちを「ブライト(明るい,聡明)」と呼ぼうという運動)を聞かされてから,自分は「ブライト」だと学生の前で話すようにしてみた.学生はそれまで聞いたことがない話だとして熱狂した.そしてニューヨークタイムズに「ブライト」について寄稿し,「解明される宗教」を書くようになったそうだ.リベラルでインテリなアメリカの人々の宗教との距離感がわかって面白い.

*2:http://www.epjournal.net/wp-content/uploads/EP08122150.pdf

*3:http://www.clergyproject.org

*4:ノアの箱船」は,昔は無邪気なお話しとして日曜学校で子供に教えられるようなものと考えられていたが,いまや神の行為をヒトラーがやった以上のジェノサイドに感じさせるという例があげられている.

*5:信者がインターネットに接続できる世界でどうやったら禁書ができるというのだろうかというわけだ.

*6:たとえば,コメディ番組がカトリックを茶化しているとする.カトリックにとってはそれ自体でも十分に悪いニュースだが.それが民放で流されるということは,通常の人にとって「笑えるネタだ」ということを意味することに気づく.それはさらに悪い影響をもたらす.あるいは著名人がテレビ番組で「僕のある友人は正統派ユダヤ教徒でありかつ無神論者だ.」と発言し,それが放映されることは,それ世間一般に受け入れられる状況であることを意味してしまう.

*7:教会の日曜学校などでは聖書は神から直接与えられたものだとしか教えないらしい.デネットは,魔法使いになろうとしてホグワーツに入った生徒が,いきなりトランプの手品の授業を受けることにたとえている

*8:例えばTruthとFactを全く異なる意味に使う.

*9:ある聖職者はドーキンスを引用して「Magic of Realityは信仰を失った結果明らかに大きくなった」と答えている

*10:ある聖職者は信仰を失ったことがばれることにおびえなくてもよくなったとも答えている

*11:具体的には「人生の安らぎにボートが必要だというならそれが揺れていてもしがみつくことに意味はあるかもしれない,しかしそれがキッチャーのいうどの根拠によっているかについてよくわからないという問題は立ちはだかるだろう.『それは教義もつれ?,それとも教義不定?』『尋ねるな』」「少なくともキッチャーが倫理問題についてはこれを根拠に使わないと言っているのにはほっとさせられる」などという言い方になっている

*12:家康自身が一向一揆に散々苦しめられた経緯を持つ徳川幕府による檀家制度は,それぞれの宗派に既得権を与えることにより魂の救済などを内容とする真の布教を禁じることに成功したもので,宗教骨抜き政策としてまことに見事であったというべきだろう.