「モラルの起源」

モラルの起源―道徳、良心、利他行動はどのように進化したのか

モラルの起源―道徳、良心、利他行動はどのように進化したのか


本書は文化人類学者であるクリストファー・ボームによるヒトの道徳の進化についての自身の長年の考察をまとめたものだ.基本的にチンパンジーの観察データ及び狩猟採集民の観察データから出発して,利他的な行動特性,特に(その至近的な心理メカニズムとして)キーになっていると考える道徳的な良心の進化を,その進化理論と進化経路を合わせて考察して仮説にまとめ上げることを主眼としている.一般向けではあるがなかなか重厚な書物になっている.原題は「Moral Origins」


本書はまずダーウィンのヒトのモラルの進化についての取り組みを紹介し,そこから血縁者以外への利他性の謎を提示し,血縁淘汰や直接互恵性では説明しきれないと断ずる.そして間接互恵性やグループ淘汰が効いている可能性を指摘しつつ,どの理論にとっても最大の問題はフリーライダーの排除をどう行うかだと整理する.さらに私たちの内省的な分析によれば,私たちは道徳のルールを内面化しており,それはルールを破ってしまったときに赤面し,恥の感情を抱くことでもわかるとする.このフリーライダーの排除と(至近メカニズムとしての)ルールの内面化(つまり良心)が説明されるべき事柄になる.


ここからのボームの議論は以下の通りだ.

  • ヒトが進化してきた小グループでの狩猟採集という環境下においては最大のフリーライダーは力の強いオス(アルファオス)による他人の捕った狩りの獲物の収奪だったと考えられる.
  • これに対して他個体との同盟を行う能力という前適応を持っていたヒトは,下位者が協力して収奪する乱暴者を排除するという対抗策を実施するようになり,この種のフリーライダーが抑制されるようになった.その結果が今日狩猟採集民に見られる平等主義(特に威張り散らす男を嫌い,仲間外れという罰を与えると脅す.さらに凶暴な暴れ者には共謀して殺害することもある)だ.ここではアルファオスは自制の能力を持つ方が有利になった.
  • また集団メンバーは平等主義について互いの利益になると洞察し,利他主義的に振る舞うように周りのもの,特に子供に対して強く教示するようになった.
  • また言語と認知能力が進化した結果,うわさ話によりだれがフリーライダーなのかについて集団内で正確な情報が共有されることになった.これにより乱暴者だけでなくこずるいフリーライダーも排除の脅威にさらされるようになった.(評判による間接互恵性
  • このような周りから収奪すると排除される可能性があり,利他的に振る舞うことについて強い教示があるという文化環境において,利他的に振る舞うことを内面化した個体はより自制しやすくなってより有利になり,恥の感情とルールの内面化(良心)が進化した.
  • ただし更新世の環境は不安定で,常に利他的に振る舞うよりも周囲の状況(特に飢餓の程度)に応じた柔軟な利他性を持つ方が有利であったため,この内面化した利他性は文脈依存であり,時に利己性に屈服する.
  • 進化経路としては,現在手に入るデータに沿って考察するなら,ヒト・チンパンジー・ゴリラの共通祖先は,自意識,視点取得,支配と服従という能力を,さらにヒトとチンパンジーの共通祖先は同盟による連合形成能力を前適応として持っていた.そして25万年前頃,大型哺乳類を狩猟するようになって,狩猟時の協力と乱暴者フリーライダーの排除の重要性が増して上記シナリオに沿った道徳性が進化したと考えられる.

ボームは,このシナリオを描くに至った実証データを,特に狩猟採集民について大量に紹介している.その中にはかなり具体的な記述も多く含まれていて,迫力があって大変面白い.また最終章では現在の国際政治をこのような考察からみたときのエッセイも収録されている.この手の書物によくある温暖化ではなく戦争の拡散をテーマにしていて,冷戦後の今日ある意味ちょっと新鮮だ.アメリカがイラク侵攻により「寛大であるという名声」を決定的に失ったことが繰り返し嘆かれていたりして著者のスタンスも少しわかるようになっている.


本書の価値は,道徳の進化を考えるときに,重厚な狩猟採集民のデータ,そしてそれが示す平等主義についてもっと真剣に考察すべきであることを私たちに示していることだろう.本書巻末の解説で長谷川眞理子もコメントしているようにこれまで利他性の進化,間接互恵性の説明において念頭にあるのは「こずるいタイプのフリーライダー」ばかりだった.しかし進化環境においては乱暴者の収奪者がより強い淘汰圧だった可能性についてもっと検討されるべきなのかもしれない.本書の仮説シナリオは可能性としてはありうるものだろうと感じさせる.


しかし本書には多くの不満もある.まずフィールドデータの紹介以外の部分はとにかく冗長で,同じことを何度も何度も何度もわかりにくい文章を並べて繰り返しており,その結果大変読みにくい本になっている.そして何よりも理論的にぐずぐずなところが随所に目に付く.あまりにもナイーブなのだ.具体的には以下のようなところだ.

  • 本書の理論的なポイントはフリーライダー抑制のところでグループ間淘汰の部分ではない.それにも関わらずとにかくグループ淘汰について好意的だ.そしてグループ淘汰についてはナイーブ的な説明しかない.それについて触れている箇所においてグループ間淘汰がグループ内淘汰より強くなる条件を考えようという姿勢は全くない.ボームのグループ淘汰理解がナイーブなものにとまっていることを強く推測させる書きぶりだ.
  • 性淘汰についても間接互恵性の説明の関連で引き合いに出しているが,ランナウェイ過程とハンディキャップシグナルの考え方の違いが全くわかってなく混乱した説明に終始している.その他,血縁淘汰や行動と遺伝子の関係の理解についてもナイーブな記述が目に付く.
  • ナイーブグループ淘汰に流される論者にありがちだが,だれのためにどう利益があるのかについて詰めて考えられてなく曖昧だ.特に本書全体の肝である「アルファオスの暴虐に対してその他全員が協力して反抗するという戦略」はESSにはなっていないのではないかという問題については気づいてもいない様子だ.アルファオスは多数派を形成して少数派のメンバーから狩猟コストをわずかに上回る利益のみ与えて収奪することができる.その収奪分を多数派のオスに平等より少し多く分配すれば,少数派による平等主義よりもアルファオスと多数派オスにとって有利になりここから平等主義に移行できないはずだ.そのほか様々な同盟があり得るので動態はこれほど単純ではないだろうが,単純に平等主義に向かうとして終わらせるのは理論的に稚拙だ.
  • 内面のルール化が自制にとって有効だったとするが,片方で更新世の気候の不安定からの柔軟性を強調している.それならマキアベリ的,サイコパス的な計算高い自制心で十分だったのではないかという疑問が浮かぶ.内面化がなぜ有利だったのかについての説明が不足している.
  • 意識が進化に与える影響について不必要に強調している.結局行動特性は意識的に誘導しようとしまいと適応度上の利益があれば進化する.また意識的な誘導は時に相手を操作しようとすること,それに対する自己欺瞞によってゆがめられることに無関心だ.グループ他メンバーへの利他性の強調はその相手に対する操作として有利になるので特に慎重な検討が必要なはずだ.
  • また同じく環境としての文化を強調しすぎだ.結局ボームの言う「社会選択」による特性の進化形質はユニバーサルだったのだからそこまで強調する意味がないように思われる.単に狩猟採集社会ではこれがこのような環境につながったとするのではいけないのだろうか.自分がリベラルであることを示したいという無意識の動機が(グループ淘汰への好意的な扱いとともに)文化の強調につながっているのではないかというきな臭さが感じられるところだ.


以上の不満はあるが,しかし本書は決して軽く扱うべき本ではない.実際に狩猟採集民にはユニバーサルとしての平等主義が広く観察され,威張り散らすことを極度に忌み嫌うし,私たちは確かに内面化されたルールをもっているように感じられる.特に平等主義については理論的な説明が不十分だとしても考慮されるべき仮説といえるだろう.そして興味深いフィールドデータが大量に掲載されている.そういう意味で本書は興味深い仮説を膨大なデータとともに提示しており,じっくり読むに足る労作だと評価できるだろう.


関連書籍


原書

Moral Origins: The Evolution of Virtue, Altruism, and Shame

Moral Origins: The Evolution of Virtue, Altruism, and Shame


同じくボームの本

Hierarchy in the Forest: The Evolution of Egalitarian Behavior

Hierarchy in the Forest: The Evolution of Egalitarian Behavior