「湿地帯中毒」

湿地帯中毒: 身近な魚の自然史研究 (フィールドの生物学)

湿地帯中毒: 身近な魚の自然史研究 (フィールドの生物学)


本書は東海大学出版部のシリーズ「フィールドの生物学」の一冊.著者の中島淳は「オイカワマル」のハンドルネームでネットでも著名な魚類学者だ*1.シリーズの王道に従って,ここまでの学者人生をその研究内容とともに語ってくれている.(なお書名にある湿地帯とは,河川や沼や水田のような淡水域に干潟や6メートルより浅い沿岸域を含めて指す用語らしい.)


第1章では研究生活の始まり,及びカマツカ*2に対する愛について.著者は小学生の頃から無類の淡水魚好きで(当時すでに取り返しのつかないほど淡水魚好きだったと回想している),小学4年生の時にカマツカに出会い一気に虜になる.淡水魚を研究したい一念で九州大学に潜り込んだ著者は卒業研究の際に巧みに教官を誘導してカマツカ研究をテーマにすることに成功する.指導教官も指導教官で,テーマの決まった著書に関連書籍を読むことも指示せずに投網の投げ方に習熟するように言い渡す*3.簡単な淡水魚やカマツカについての解説の後,魚取りの日々の描写が続く.楽しみすぎてデータ取りに関して指導教官に相談もしなかったため,とりまとめには苦労するが,何とか卒論をまとめ,著者は院に進む.
ここからの修士課程の迷走ぶりは本書の読みどころだ.体当たりで様々なことに手を出して片端から失敗する.(中でも大雨の日に濁流の中観察しようとして流されかける話は圧巻だ)
しかし苦労の末にカマツカの生活史の解明に十分なデータが集まり,いろいろ面白い発見もでき,著者は博士課程に進む.


第2章はその中で浮かび上がったカマツカの生活史について.
まず九州の河川系,その中の生物地理(魚類相の違い)の理由(河川系の魚類が他の河川系と交わるのは海進して下流が共通化する場合と,上流の流域が変わる場合(河川争奪)に分かれる.このためその地方の地史と深く関わる)が解説され,その中でのカマツカの位置が解説される.
ここでは執念の観察により明らかになった産卵行動(カマツカは川で沈潜粘着卵を少数放出するという非常に稀な産卵習性を持つ),上流個体群と下流個体群の生活史の違い(上流個体群は成長が遅く繁殖期が遅く最終的に大型になる)の解析の解説には熱がこもっていて,著者の思い入れが窺える.
最後にこれらをふまえて「なぜカマツカは普通種になったのか」の著者なりの説明がなされている.それは思い切り簡単に言うと,人為的な環境改変がたまたまカマツカの好適環境を阻害するようなものではなかったからだということになる.(特に回遊しないという性質が重要であるようだ.)著者はこの研究を持って博士号をとり専門研究者となる.


第3章はシマドジョウについて.
著者はカマツカのリサーチが一段落したところでシマドジョウの分類学にのめり込む.シマドジョウはそれまでの分類では収まらない新種だらけの状況であることがかなり明らかになっている上に,著者はふとした経緯で全く知られていなかったシマドジョウに出会う.そしてその中でも特に興味深いスジシマドジョウ群の分類を確立し記載するための資料集めや手順を「連立スジシマドジョウ方程式」と呼び,それを一つずつ解決していくのだ.そして最終的に「世界中が待望していた」記載論文が出版され,日本特産のスジシマドジョウたちは「正式に人類の知識体系の中に組み込まれる」ことになる.*4この部分は細かな種識別の記述も含め,いかにも魚類好きの血が騒いだ感が濃厚に出ていて読んでいて面白い.


最後に第4章として著者の幼少時からの遍歴が語られる*5
幼い頃からの魚好き.ボール紙に彩色画を描きそれを切り抜いて作った魚模型,神図鑑との出会い,そして数々の生き物の飼育経験.著者がただ者ではないことがよくわかるエピソード満載だ.なおここでは著者の中二病遍歴も赤裸々に語られていて大変楽しい.魚浸けになるべく九州大学の生物学科に潜り込むがサークルでは昆虫班に属することになってしまい,水生昆虫にも目覚めることになるのだ.
そしてその後の九州の河川生物相を調べたポスドク時代が語られ,現在は福岡県の保健環境研究所に常勤の職を得て,環境保全や衛生の仕事の傍ら研究も続けているという現状報告がある.最後に引き続き湿地帯中毒に浸り続けたいという将来への展望を語って本書は終わっている.


というわけで本書では本シリーズの王道そのままにフィールド生物学者の生き様が率直に語られている.テーマ自体は,進化生態の謎解きというより,生活史と分類の記載というやや地味な分野だが,しかし詳細はやはりどこまでも興味深い.そしていつも通りに読み出すととまらない.著者のこれからの研究者生活に幸あれと思うばかりだ.



所用あり,10日ほどブログの更新を停止する予定です.



 

*1:ブログはhttp://d.hatena.ne.jp/OIKAWAMARU/

*2:最大体長20センチメートルの淡水魚.北海道をのぞく日本に広く分布する.朝鮮半島,中国大陸にも分布域があるとされているが,著者によると別種の可能性が高いようだ.主に川底の砂の中の底性動物を掘り返して食べるそうだ.

*3:本書では投網の投げ方が図解入りで解説されている.

*4:またこの過程のなかで,クロアチアで開かれた国際シマドジョウ会議にも参加する.この思い出話は先行して第2章で語られているが,ここも著者の興奮が伝わる部分で楽しいところだ.

*5:「湿地帯に沈むまで」という章題はなかなか気が利いている