Language, Cognition, and Human Nature 第7論文 「ヒトの概念の性質」 その3

Language, Cognition, and Human Nature: Selected Articles

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ピンカーは導入において「古典的カテゴリー」と「ファミリー類似カテゴリ」の違いを明確化したあと本論に入る.

ファミリー類似カテゴリーの証拠

  • ヒトの概念は「object:対象」のカテゴリーを選び出す.ではどのようなカテゴリーを選び出すのだろうか.それが「ファミリー類似カテゴリー」だという数多くの証拠がある.
  • まず,哲学者は言葉によって定められるカテゴリーについて,その必要条件や十分条件を見つけることに失敗してきた.
  • 第2に,心理学者は.人々があるカテゴリーについて,(必要条件や十分条件を考えるのではなく)その良い例になるかどうかで判断すること,それが多くの人で一致していることを見つけてきた.
  • 第3に,これらの判断は,ガットフィーリングでしか説明できないわけではなく,特徴の共有の分析によってシステマチックに予測できる.
  • 第4に,良いメンバーシップの判断は,様々な心理学的タスクの成績に大きな影響を与える.あるカテゴリーに属するかどうかの判断のスピードや正確性はそれがプロトタイプに近いかどうかに大きく影響される.またメンバーの例を想起させるとプロトタイプをより想起する.
  • 第5に,発達心理学者は,子供はプロトタイプメンバーの名前を先に覚えることを見つけている.そして子供は上位カテゴリーの名前でそのプロトタイプを呼ぶ.
  • 第6に,言語学者は,ヘッジと呼ばれる特定の副詞がプロトタイプ性に敏感であることを見つけている.スズメは「per excellence: (一段と優れた)」鳥であり,ペンギンは「strictly speaking: (厳密に言えば)」鳥であるのだ.

ファミリー類似カテゴリーに反する証拠

  • 片方でヒトの概念のある面はファミリー類似カテゴリーに一致しないという証拠もある.
  • ファミリー類似カテゴリーの実証的な証拠とされてきたいくつかの効果は,古典的カテゴリーでも生じる.「女性」「奇数」というカテゴリーでもそのメンバー性には段階性があると人々が感じていることが明らかになっている.人々は,「母」は「comedienne: 女芸人」より良い「女性」メンバーだと,そして「13」は「23」より良い「奇数」メンバーだと感じるのだ.そして13を提示されたときの方が,より素速くより正確に「奇数」かどうかを判断できる.
  • さらに,人々による複数の特徴に基づく多くのファミリー類似カテゴリーの判断は,理由を注意深く説明することを求められると容易に修正が生じる.人々は目的によっては「ペンギンは完全に鳥だ」とか「エリザベス・テイラーは完全なおばあちゃんだ」と進んで認める.実際に独自の非限定的な特徴は,子供によってさえ簡単に捨て去られる.子供は,3本足のイヌも「イヌだ」と言うし,スカンク模様にペイントされたアライグマも「アライグマだ」と答えるのだ.
  • 似たような大人へのデモでも,カテゴリー判断はファミリー類似カテゴリーの定義である類似性基準にはよらないことが示されている.例えば,髪の毛について,白,灰色,黒のグループ分けさせると「老化により灰色や白になるから」と黒をアウトグループにする.しかし雲について同じように分けてもらうと「雨をもたらす雲は灰色か黒だから」と白をアウトグループにするのだ.別の実験では「3インチのディスクは,ピザと25セント硬貨のどちらに似ているか(be similar to)」「3インチのディスクは,ピザと25セント硬貨のどちらでありそうか(be likely to be)」と聞かれた場合,前者では硬貨,後者にはピザと答える傾向がある(おそらく硬貨は標準のサイズが決まっているが,ピザの大きさは可変だからだろう).そしてムカデと蝶の幼虫(イモムシ)と成虫について,イモムシはムカデにより似ているが,チョウと同じ動物だと答えるのだ,


なかなか面白い.カテゴリーには古典的カテゴリーとファミリー類似カテゴリーがあり,ヒトの概念の場合多くは1か0かでは決まらず古典的カテゴリーを用いていないということだ.しかし最初の例は,むしろ通常のヒトの認知は,哲学者が古典的カテゴリーと扱うようなものであっても,ファミリー類似カテゴリーとして扱っているということを示しているのではないだろうかという気もするところだ.あるいはそもそも古典的カテゴリーとファミリー類似カテゴリーの区別自体が,古典的カテゴリーのように明確に分かれていないということかもしれない.
なお男性と女性を古典的カテゴリーとして取り扱っているところには時代を感じさせる.生物学的には境界線上に連続性があるし,現在ではこのような場で引き合いに出すには,ポリティカルコレクトネス的にも(LGBTなどの問題への配慮がより求められ)取り扱いには微妙なところがあるだろう.