Enlightenment Now その5

第2章 エントロピー,進化,情報 その1

ピンカーによる21世紀版啓蒙運動の解説はエントロピー概念から始まる.ちょっと意表を突いている感じで面白い.

  • ヒトの諸条件を理解するための第1のキーストーンはエントロピー概念だ.それは19世紀の物理学から生まれ,ボルツマンによって定式化された.熱力学の第二法則によると閉鎖系においてはエントロピーは増大し続けることになる.
  • 熱が分子の振動であることが理解されるとより一般的統計学的なエントロピーの概念と第二法則が形作られた.確率法則はシステムを非秩序に向かって押すのだ.
  • これがヒトと何の関係があるのか? ヒトの幸福は実はほとんど無限の可能性の中の多くの事柄の連鎖の秩序に大きくかかっている.そしてそのような秩序はただ放っておくと失われるのだ.
  • 科学者たちはエントロピーについて,単に毎日の生活がかかわるだけでなく,それは宇宙の理解のための基礎のひとつだと評価している.C. P. スノーは「2つの科学と科学革命」の中で,科学者の人文科学の無知を嘆く英国の伝統的な教養人たちからなる聴衆に熱力学の第二法則を説明できるか聞いても誰1人手を上げないことを嘆いている.またトゥービイ,コスミデス,バレットの最近の論文のタイトルは「熱力学の第二法則は心理学の第一法則だ」というものだ.

トゥービイ,コスミデスたちの論文にそういう題のものがあるとは知らなかった.調べてみるとこれは2003年の“The Second Law of Thermodynamics Is the First Law of Psychology.”という論文で,発生における遺伝子と環境の相互作用の予測不可能性がもたらすエントロピーの増大と自然淘汰の反エントロピー性について論じたもののようだ.ともあれ,これはピンカーによるちょっとした脱線に過ぎない.議論はこう続いている.

  • ちょっと考えると,エントロピーは暗い未来を暗示しているように思える.それはビッグバン以降宇宙全体がただ平均的に乱雑になることを予測するだけのように思える.しかし実際には宇宙は銀河,恒星,惑星などの興味深い構造を生みだした.1つの理由は開放系のシステムではエネルギーが注ぎ込まれるとその一部をエントロピー減少に用いることができ自己組織化原理が働きうるからだ.

ここから2番目のアイデア「進化」が登場する.

  • しかしもう1つの秩序発生の仕組みがある.それは機能的デザインだ.生物は機能デザインに満ちあふれている.(ピンカーはここで耳の構造の機能デザインを詳しく解説している)ダーウィン以前にはそれは神によるデザインと考えることはやむを得なかった.多くの啓蒙運動思想家が理神論者であるのはそういう理由だろう.そしてダーウィンとウォレスはそれを自然淘汰で説明した.(創造論者はしばしば進化論が熱力学の第二法則に反していると主張する.これは第二法則がわかっていないことによる.地球の生命圏は閉鎖系ではなく開放系であり,太陽からエネルギーを注ぎ込まれているのだ)
  • 生物個体は環境からエネルギーを得てそれを自己の組織性の維持に用いる.環境からエネルギーを得なければエントロピーを維持できないという制限は,動物を生まれながらの収奪者とする.自然は戦争であり,軍拡競争の世界なのだ.

次が「情報」だ.

  • 情報の存在はエントロピーの減少とも捉えることができる.(なぜなのかについてかなり詳しい説明がある)あるシグナルパターンにどれだけ情報があるかは我々がどのような粒度を持ってそれを受け取るかに依存する.
  • 情報は進化の過程を経てゲノムの中に蓄積されている.また動物の神経系にも情報は流れ込む.
  • 20世紀の理論神経科学の大発見の1つは,単にニューロンのネットワークが情報を保存できるというだけでなく,脳はなぜ知性を持つのかを説明できる形でネットワークをトランスフォームすることができるということだ.(ニューロンの連結が論理回路を形成しうることの詳しい説明がある)それは推論し,予測し.知識を得ることができる.
  • 進化に戻って考えると,脳はゲノムにある情報に基づいて回路が組まれており,感覚器から得られる情報を計算し,エネルギーを得てエントロピーを保とうとする.餌を探し,天敵から逃げるのだ.それは目的を持つ.そしてそれはまた別の偉大な20世紀のアイデアサイバネティックス,フィードバック,コントロール」につながる.それはなぜ物理的システムが目的を持つように行動するかを教えてくれる.
  • この情報,計算,コントロールの原則は,「原因と結果の物理システム」と「知識.知性.目的からなるメンタルな世界」との架け橋になる.そしてこれを理解してはじめて身体と魂の二元論を捨てることができるのだ.この架け橋を知らなかったことが「啓蒙運動」の思想家たちが理神論者に止まったもう1つの理由だろう.
  • ヒトは進化の過程で大きな脳を手に入れ,認知的ニッチ,あるいは文化的ニッチ,あるいは狩猟採取生活ニッチに適応した.そこでは世界のメンタルモデルを操作し,何が生じるかを予測し,他者と協力を可能にし,言語と文化を獲得した.
  • 知識によりエネルギー獲得効率は上がり,1万年前頃に農業が発明され,紀元前500年頃に東西に大思想家が現れるいわゆる「枢軸時代」を迎えた.不運について儀式と犠牲で対応するだけだった人々は組織的な哲学と宗教的な信念を持つようになり,公共心を讃え,あるいは精神的な超越を推進した.それは単に精神性を強調するのではなく,もっと醒めたものだった.それは労働者一人あたりの獲得カロリーが2万キロカロリーを超え,大都市と思想家階層の維持が可能になったことで生まれた.衣食足りて倫理を考えるようになったのだ.
  • そして産業革命がさらに大きなエネルギーの獲得を可能にし.人類は貧困,疾病,飢餓,非識字からの脱出を進められるようになった.次の段階への跳躍は,おそらく受け入れ可能な経済的環境的コストでより大きなエネルギーを獲得できるようになる技術的な革新にかかっているだろう.


これがエントロピー,進化,情報に基づくピンカーによる世界の理解と人類史の記述ということになる.斬新な視点からの記述で読んでいて楽しいところだ.