Enlightenment Now その21

第9章 不平等 その3


ここまでピンカーは全世界ベースで見ると格差は縮小していることを示してきた.では何故先進国ではこれほど格差増大不安症候群に満ちているのか.ピンカーはこう解説する.

  • 最近の格差についてのアラームは米国や英国などの先進国の国内での不平等についてのものだ.(ここで両国のジニ係数の推移グラフが示されている.両国とも19世紀後半まで緩やかに上昇したあと下がり始め20世紀に入ってから大きく縮小し,それが1975年ぐらいまでつづく.その後上昇傾向に転じている:データはミラノヴィッチ2016)
  • 最近まで両国ともクズネッツカーブの上に乗っていた.不平等は産業革命とともに上昇し,その後緩やかに低下し始め,20世紀に大きく下がった.しかし1980年から上昇に転じている.
  • 19世紀まではクズネッツの説明の通りだ.20世紀の急低下には二つの世界大戦が関係している.戦争とインフレによりそれまでに蓄積された資本は一旦リセットされ,政府は大規模な再配分政策を推し進めたのだ.
  • 戦争による平等化は貧しい方への平等化だ.このほか大変革を伴う革命,国の崩壊,破局パンデミックが似たような効果を持つ.これらは既にある富を破壊するだけでなく,大勢を殺し,生き残ったものの賃金を上昇させる.
  • しかし現代はもっと良い方法を持っている.市場経済は最高の貧困脱出プログラムだ.ただしそれは持たないものにとってはうまく働かない.しかし同情の輪が社会で拡大すると,貧しいものへ富を移転させる再配分政策が支持されるようになる.
  • 資本主義社会を非難するものは,資本主義以前の社会で貧者がどれだけわずかしか援助を受けていなかったかについてわかっていないのだ.それは絶対的水準で低かっただけではない,一国の富との比率でもごくわずかしか貧者に与えられていなかったのだ.
  • 直接的再配分以外にも現代社会は公衆衛生,教育,年金などに多くを支出している.(ここでこれらの社会的支出の先進国の国別推移グラフが示されている.1930年までは5%以下だったものが右肩上がりに上昇し,15%から30%程度になっている:データはOur World in Data 2016)
  • このような社会的支出の爆発は「政府のミッション」の再定義につながった.戦争と警察から養育に変わったのだ.政府がこれを推し進めたのにはいくつか理由がある.まず共産主義に対してのアピールがあった.教育や公衆衛生,そしてセイフティネットは皆に役立つ公共財だという認識もあった.さらに(マッチ売りの少女に同情するような)現代的な良心もあった.社会的支出が格差の縮小に向けてデザインされていたかどうかはともかく,この支出の増大は1980年までのジニ係数の低下を説明している.


ここでピンカーはいろいろ調べてきたことについてのコメントを置いていて,面白い.これは前著「暴力の人類史」を書き始めて以降の率直な感想ということだろう.

  • 社会的支出はこの先の章でも見ることになる進歩の持つ不思議な様相の1つをよく示している.私は歴史的必然とか正義の超自然アーチとかコズミックフォースなどは信じていないが,ある種の社会の変化はまるでプレートテクトニクスのような圧倒的な力に導かれているように感じることがある.このような進歩が進むときには反対派が騒ぎ立ててもどうすることもできないように見えるのだ.社会的支出はその良い例だ.米国は再配分に抵抗する考え方が強いことで知られる.しかし米国は既にGDPの19%を社会的支出に当てているし,保守やリバタリアンの必死の抵抗にもかかわらずそれは伸び続けている.
  • 大きな政府や高税率への反感にもかかわらず,米国の人々は社会的支出が好きなのだ.政治家がそれをつぶそうとすると政治家自身がつぶされる.(伝説によると保守派のタウンミーティングでは「俺のメディケア(高齢者向け公的医療保険制度)に政府の手を出させるな」という声が飛ぶそうだ)オバマケアは成立と同時に共和党により聖なる廃止目標とされている.しかし2016年の大統領選挙においてはそれを廃止しようとする共和党候補者は皆タウンミーティングで痛い目に遭っている.
  • 途上国においては社会的支出割合は低い.インドネシアは2%,インドは2.5%,中国で7%だ.しかし途上国もリッチになるにつれて気前が良くなる.これはワグナーの法則と呼ばれている.
  • エコノミストのデ・ラ・エスコスラは1800年から2000年までの現OECD諸国のデータを分析し,社会的支出割合は,経済成長と健康と教育水準に相関していることを見いだしている.しかしこの相関は支出が25%までという制限のもとにあるようだ.保険システムはある水準以上ではモラルハザードを創り出し,最終的にシステムが崩壊するのだ.だから社会的支出システムの成功はその国の市民がコミュニティの一部だと感じる程度に依存している.例えば受益者が移民や民族的マイノリティに偏っていると感じられるとそれは崩れやすくなるのだ.


ここまでが先進国における1980年までの格差縮小の物語になる.確かに1970年代までと1980年代以降は社会福祉,そして「大きな政府」に関する大きな風潮が変わっているようだ.そして1970年代まではインフレ気味の経済の中で先進国は皆社会福祉を増大させてきた.それは片方で共産主義に対するプロバガンダ的な動機もあったが,片方で公共財への投資として意味があると考えられ,そして市民はそれを支持したのだ.


先進国では1970年代までは経済成長と再配分政策により格差は縮小してきた.しかしこのトレンドは1980年代に逆転する.何があったのだろうか.

  • 1980年頃から富裕な諸国で不平等が拡大し始めた.これは「世界は富裕層にとってのみ良くなっていて,それ以外にとっては悪くなっている」という主張を産みだした.それはクズネッツ理論の破綻でもある.
  • 多くの説明がなされた.戦争下で制限されていた富裕層の振る舞いがついに解放されて富を自由に追求するようになったとか,レーガンサッチャーイデオロギーが再配分を削減したとか,所得の高い層が子供を作らずため込んだとか,第二次産業革命が専門職の賃金のみ上げたとか,グローバル化が単純雇用の賃金を引き下げたとかの説明だ.
  • ミラノヴィッチは2008年に過去30年の二つのトレンド「全世界での格差縮小」と「先進国内での格差拡大」を1つのグラフに組み合わせた.(そのグラフが示されている.横軸にグローバル所得のパーセンタイル(5%ごと),縦軸に30年間での所得増大をとっている.最貧層の増大は20%だが,10〜70%タイルまでは40〜60%増加,80〜95%タイルまでが10〜20%に落ち込み,100%タイルで50%に上昇している.右向きのゾウが鼻先を上げたようなカーブになっている)
  • グローバル化についての陳腐な物語は「それは勝者と敗者を作った」というものだが,実際にはほとんどが勝者だったことがわかる.ゾウのからだの大半は世界のミドルクラスだ.そして先進国の金持ちが鼻の先になる.80〜90%タイルでゲインが10%でしかなかった層(つまり先進国の中流下層)が『敗者』であり,グローバル化に取り残されたトランプ支持者ということになる.
  • そしてこのカーブ自体不平等を真の姿より強調している.まずこのグラフにはその作成後に起こったリーマンショックによるリセットが示されていない.もう1つの問題は,概念的なものだ.そもそも最下層1/5とかトップ1%とかいうのは30年間で入れ替わっているのだが.このグラフはそれが同じ人達であるような錯覚を抱かせる.同じ%タイルを追いかけたグラフを書くとそのカーブはもっと平均化されるだろう.


1980年以降先進国では中流下層以下と上流層で所得の伸びについて差が拡大した.それにはグローバル化を始めいくつもの説明がある.ピンカーは明確に解説していないが,いろいろな要因が重なっているという認識なのだろう.しかしいずれにしてもこの中流下層も絶対的な所得増加においてはゲインを得ているというのがここでの指摘ということになる.