Virtue Signaling その28


 

第7エッセイ 言論の自由に関する文化的多様性の擁護 その1

 
第6エッセイでミラーは言論の自由に関してニューロダイバーシティを擁護した.引き続く本エッセイではより広く文化的多様性を擁護する.
 
冒頭の解説はこう始まっている.
 

  • 私のQuilletteのニューロダイバーシティ擁護エッセイ(本書第6エッセイ)は,結構読まれたようでいくつかの強い反応があった.その多くはポジティブなものだった.何人かのアスピーたちは私に感謝のメールをよこしてくれた.何人かのノミニー(ニューロティピカル)たちはこのエッセイはニューロダイバーシティを前提にしたときの軍拡的徳シグナリング競争の危険性を教えてくれたと書いてきた.
  • 私はQuilletteにフォローアップ記事「法的なスーパーパワーとしてのメンタル障害」という記事を載せた.そこではアスピーたちがどのように法的に自分を守れるかについての詳細を書いた(この記事は本書には含めなかった.長くて,テクニカルで連邦法と憲法解釈についての記事だったからだ)
  • ニューロダイバーシティエッセイのあと,この(アメリカのアカデミアの)徳シグナリング文化の中では,別の形態のダイバーシティも重要かもしれないのだが,それが主流から無視されているのではないかと考えるようになった.
  • 私はYoutubeに「ヘイ,ここは図書館だぜ」というビデオを2017年にアップした.当時,大学の図書館では勉強しようとやってきたアジア人学生たちが社会正義戦士たちが何かに抗議して騒いでいるのに困惑していた.そして私はこの騒がしい徳シグナリングが他文化圏の人間にとってどんなに奇妙に見えるかに思い至った.私自身90年代にドイツやオーストラリアで暮らしたときに,外国のイデオロギーや政治的規範のニュアンスを理解しようとして,それが自国文化のそれと相容れないことを経験したことを思い出したのだ.
  • 私は特にアジア文化とアジア人学生の経験に興味を持った.私はカレッジで日本語を学び,寮は「ジャパンハウス」に所属し,2年生の時に黒澤映画をたくさん見て,寿司をたくさんこしらえた.そして日本文学,日本映画,中国文化,インド文化の講義をとった.教授になってからはインドと台湾とシンガポールを訪れている.私自身がアジア文化を深く理解しているわけではないが,しかしアジアから来た学生が,アメリカの政治的正しさの恐るべき海峡うまくを航海していくのがどれほど困難かは想像できる.
  • そして文化的多様性もニューロダイバーシティの別の形態の一つであり,言論の自由と徳シグナリングについての同じ問題を引き起こすのだということに気づいた.それでこのエッセイをQuilletteに投稿した.
  • キーポイントは,徳シグナリング規範は非常に文化特異的であり,他文化圏の人に私たちが「適切」と考える徳シグナリング規範を期待すべきではないということだ.私たちは私たちの徳シグナリング規範は,数多くの文化の中のある特定文化の規範に過ぎないことを理解すべきなのだ.
  • もし「覚醒した文化(woke culture)」 が真に「多様性」「平等」「包括性」をモラルとして高く評価するのなら,自分たちの特定の徳シグナリング文化は「包括的」ではなく,多くの文化圏の人々にとって「歓迎されない」ものであることを認めなければならないのだ.

 
ミラーが日本文化に造詣が深いとは知らなかった.確かに日本を含む東アジア文化の学生の抗議スタイルとアメリカのそれはかなり異なるだろう.そしてそれを当然と押しつけることで様々な問題が生じるだろう.通常リベラルのアジェンダの中にニューロダイバーシティはあまり登場しないが,文化的ダイバーシティは性別,人種の次に来るぐらい大きいはずだ.ミラーのさばき方はどうなっているだろうか