From Darwin to Derrida その72

 

第8章 自身とは何か その12

 
ヘイグによるスミスの道徳感情論の読み込み,2人称「sympathy」の議論が続く.
 

2人称「sympathy」 その2

 

  • 2人称「sympathy」はシミュレートされた経験であり,実際の経験ではない.そして「sympathy」から作られたイメージは歪曲していたり,的外れだったりするかもしれない.それは実際の眼で見て得たイメージの不完全さといいアナロジーになっている.

 
当然ながら2人称「sympathy」は相手の行動や感覚をシミュレートするものだから真実である保証はないし,歪曲しているかもしれない.しかしそれは自分自身の感覚でも同じことだというのはなかなかシニカルなコメントだ.
 

  • 自然淘汰は我々の視覚を(それが内的なものであっても外的なものであっても)より完全にするように働くが,それは時に「sympathy」の近視や「compassion」の白内障になることを排除できない.私の1人称「sympathy」イメージの鋳型はあなたについての2人称「sympathy」イメージを作るには向いていないかもしれない.私とあなたではキャラクターが異なるし,私の想像力は不完全かもしれないし,そもそも1人称セルフイメージ自体が歪曲しているかもしれないからだ.

 
ヘイグは自分自身の眼で見たイメージが(それを正確にするように働く自然淘汰にもかかわらず)不完全であるかもしれない例として近視や白内障を挙げているようにみえる.それはより正確になることで得られるメリットと,より完全な眼を作るコストのトレードオフを示唆しているのだろうか.どちらかといえば現実が複雑で正確なイメージを作ることが極めて困難であるということをいいたいようでもある.
 

  • 1人称「sympathy」イメージが2人称「sympathy」イメージの鋳型になるとしても,それが全く同じような性質を持つとしなければならないわけではない.私たちは対象の特異性や自分との違いを学習できる.経験を積んだボクサーは右利きの相手にも左利きの相手にも対応できる.経験を積んだ遊び人は女性一般の特質,特定の女性の性格を知り,うまく立ち回ることができる.

 
とはいえ自分の鋳型から相手のイメージを作るために,自分と相手が完全に同じでなければならないわけではない.ヒトはそこを学習し,キャリブレートできるのだ.(なおここでボクサーの例はあまりいいとは思えない.ボクサーは相手のシミュレーションに自分の鋳型を使っているとは限らないと思う)
 

  • 2人称「sympathy」イメージを構築するときに,対象の能力が劣っている場合は,この手の調整はある程度容易だが,対象が自分にない能力を持っている場合には,この調整は不可能ではないにせよ難しい.チェスの名人はアベレージプレイヤーの手を読んでトラップに誘導できるが,アベレージプレイヤーが名人相手にそれをやるのは難しい.
  • だから自然淘汰は能力の増強に淘汰圧をかける.その能力には「sympathetic」能力が含まれ,その能力があれば相手に操作されることなく,相手を操作できる.しかし私たちは「sympathy」を感じずに将来の行動が予測できない相手をあまり信頼できない.だから自然淘汰は同時に(社会に受け入れられ,その中で生きていくという必要性を満たすため)異常な能力を抑制するように働くだろう.

 
ここもなかなか面白い議論だ.相手を正確にシミュレートするためには自分は有能である方がいい.それは有能さへの淘汰圧の1つにになり得る.
そして社会生活を行うためには正確にシミュレートできない相手は受け入れないようになるから,受け入れられるためには異常さに対して負の淘汰圧が働くということだ.
これはあまりに頭がいい人間は排除されるという意味も含むのだろうか.人々はあまりに頭がいい人に対して何を考えているかわからないから忌避するのだろうか.そうだとすると淘汰圧は頭の良さに対して(少し頭がいいのは有利だが図抜けて頭がいいのは不利になり)非線形にかかることになる.