From Darwin to Derrida その71

 
 

第8章 自身とは何か その11

ヘイグによるスミスの道徳感情論の読み込み,1人称「sympathy」の次は当然ながら2人称「sympathy」になる.
 

2人称「sympathy」

 

私たちは誰かが足や腕を殴られそうになっているのを見ると,自然に縮こまって腕や足を引っ込めようとする.・・・
綱渡りのダンサーを群集が見上げるとき,彼等はそのダンサーがまさにするように自然に身をひねって自分のバランスをとろうとする.

アダム・スミス 「道徳感情論」

The Theory of Moral Sentiment : 6th edition (English Edition)

The Theory of Moral Sentiment : 6th edition (English Edition)

  • 作者:Smith, Adam
  • 発売日: 2020/05/14
  • メディア: Kindle版
 

  • 私たちは他者のセルフについてのイメージを構築しようとするときに,自分のセルフイメージをテンプレートに使う.それによって他者の行動を予測したり,他者の経験から学んだりすることが容易になる.テレビでシェフが卵を泡立てているのを見ると,私たちは,彼女の身体の動きを直接シミュレートすることで,彼女の経験,そして彼女にそれを教えたものの経験を学び,上手にスフレを作ることができるようになる.
  • 身体的「sympathy」はこのように私たちの文化的能力の本質的な部分の1つなのだ.それは彼女の身体の動きを学ぶだけでなく,彼女の感覚を解釈し,行動を予測することができる.私たちはそれを彼女のために使うこともあり,彼女を害するために使うこともあるが,いずれにせよ自分のために使う.

 
1人称「sympathy」についてヘイグはまず身体的なセルフイメージを取り上げ,そこから生理的感情的なイメージを取り上げた.2人称イメージについてもまず身体的なシミュレーションから取り上げている.そしてそれはテレビの料理番組を見て上手くスフレを作れるようになるために重要で,文化的な能力の本質だとコメントしている.普通は模倣能力として議論されるところだが,そこに「sympathy」を入れ込む視点は面白い.そしてその身体的シミュレーションは感覚の解釈と行動予測につながる.ここでヘイグは感情についてのシミュレーションを含めていない.それは(後で議論される)もっと複雑な過程によるということになる.
 

  • 2人称「sympathy」は再帰用法的(reflexive)になりうるし,反射的熟考的(reflective)にもなりうる.ロープダンサーを見ているときには彼がしなければならないことを自分もしなければならないと感じて身体をひねってしまうが,チェスの相手の手を探るときには彼の読みに対抗して自分がどうすべきかを考える.

 
英語のreflexiveとreflectiveに引っかけた解説は楽しい.英語母語話者にはいろいろ面白いところだろう.
 

  • 私のあなたについての2人称「sympathy」には,あなたの過去の行動についての私の記憶から形作られたあなたの現状についての私の認識が含まれている.このような表現によって私は自分たちの現在の関係性の中であなたが将来どう行動するかを推測できるようになる.私はあなたが信頼できると感じているのか,あるいはあなたを信じるなんて馬鹿げたことだと感じているのか.私は,あなたを報復の恐れなしに搾取できる相手だと感じているのか,そんなことをするのは危険な相手だと感じているのか.

 
ヘイグの考察はどんどん再帰的になっていく.相手の行動を「sympathy」で予測するには,その文脈や環境情報が必要で,それは過去の自分と相手のどんどん次元が深くなりうる相互作用的な情報のやりとりに基づくことになる.