From Darwin to Derrida その81

 

第8章 自身とは何か その21

 
ヘイグによるアダム・スミスの道徳感情論の読み込み.ヘイグによる本能,理性,文化という3つの道徳の要素の整理が終わった.ここからそうやってできた再帰的に絡み合った混合物としての道徳の性質についての議論になる. 
  

  • 道徳的行動の共通の特徴は,逸脱者への怒りだ.非道徳的に行動したと判断されたものは,他者との相互作用における道徳的な保護の対象外になる.彼は罰されるべきであり,痛みを覚えるべきということだ.人類が他者になしてきた最悪の行為の多くは,被害者の非道徳的な行動によりその行為が道徳的に正当化されると考えた人々によるものだ.
  • 道徳コードは強制的だ.支持者にとってその指令はユニバーサルで絶対的なものであり,すべての人がどんな選好を持っているかにかかわらず従うべきものものになる.今日のアメリカ合衆国における「文化戦争」は,異なる代替的なモラルコード間のコンフリクトがエスカレートしたものだと見ることができる.もしある政策が道徳的だとされたなら,それを押し進めるために大量のエネルギーがつぎ込まれる.もしそれが非道徳的だとされたなら,道徳的な怒りの力がそれをたたきつぶすために動員されるだろう.このような理由から政策論争はしばしば道徳的にフレームされる.そして何が正しいのか,誰が利己的な目的を追求しているのかが議論される.

 
道徳の内容はユニバーサルで絶対的に従うべきものと受け取られ,道徳の強制は怒りによって駆動される.だから異なる道徳コードを持つ集団間の争いは時に収束不可能なものになる.ヘイグは(その典型例だと思われる)宗教戦争にはふれずに,現代アメリカの政策論争の一部に道徳的な色が付いていることにコメントしている.
 

  • 道徳コードは文化進化産物であり,自己保身的な適応として進化した.ある種の「sympathy」の形は禁止される.特に道徳原則と競合するものはそうだ.多くの人々にとってそのような「sympathy」を感じること,さらに感じる可能性を考えること,道徳原則を別の視点から考えること自体が罪になる.これらの禁止事項は「政治的な正しさ」にも「文化的な保守」にもあてはまる.

 
自己保身的な適応として進化した道徳はもともと「sympathy」を用いて形成されたものだが,いったん道徳コードが定まるとそれと相いれないコンテンツへの「sympathy」が禁じられることになる.これはしばしばタブーと呼ばれる.
 

  • もし私が,この対立する道徳的絶対性の争いの休戦に向けて何かを示唆するのだとしたら,まず私たちの党派的「sympathy」禁止について理解してから取り組むということになるだろう.しかし両方共に相手への「sympathy」が利用されて搾取されてしまうことを恐れている.政治家たちは囚人ジレンマ状況に陥っており,そこでは妥協しないことがドミナントな戦略になっているのだ.

 
そしてアメリカの政治的な分極化は道徳にフレームされているために休戦困難になっていることが嘆かれている.仮に(双方が妥協する)休戦の方がより良い政策だと政治家が自覚したとしても,彼等は囚人ジレンマゲーム状況に陥っているのでそこから抜け出せないというのがヘイグの見立てになる.
ヘイグのは本章の最後で責任についても論じている.
 

責任

自分自身の行為を吟味しようとするとき,それに承認あるいは否決の判決を下そうとするとき,明らかに私は自分自身を2人に分割している.吟味者であり裁判官である私は吟味され判決を受ける私とは異なったキャラクターとなっているのだ.

アダム・スミス 「道徳感情論」

 

  • 外部から,そして内部からの多くの声が私にどうすべきを教えてくれる.私は,「これをやれ」「あれをやるな」という熱心な勧告,罰の恐怖と報酬の約束,理性的な議論と恍惚としたヴィジョンに責め立てられる.そして私は,理性,良心,義務,名誉,希望,恐れ,矛盾する感情,矛盾するルール,競合する道徳的伝統に惑わされる.そしておそらく,そこには秘密裏に暗躍する無意識の自分からの無音の声があり,無責任な衝動を生じさせる.さらに私のゲノムの中の異なる遺伝子は内部的道徳コンフリクトの異なるサイドに味方しているかもしれない.
  • しかし一旦決定がなされたなら,自身の中のステークホルダーたちの調停者としての「私」が責任を負うのだ.私の魂に神のご加護がありますように.

 
これらの内部的なコンフリクトは進化心理的にいえばモジュール間のコンフリクトということになるだろう.短期的な利益を求めるモジュール,自分がどう評価されるかを感じるモジュールが複数あって複雑に絡み合う.その結果個人の道徳的な行動が決まっていく.うまく世間を渡っていけるか(道を踏み外さずに生きていけるか)はある意味偶然や運の問題になるというわけだ.まさに「私の魂に神のご加護がありますように」ということになる.