書評 「社会科学の哲学入門」

 
本書は科学哲学の中で特に社会科学の哲学についての入門書だ.私は社会科学についても哲学についてもあまり詳しくはない.そして最近読んだ進化政治学の本においては著者が実在論にずいぶんコミットしているものの私が理解している科学哲学の実在論とはややニュアンスが異なるような印象もあってややもやもやしていたので,この際勉強しておこうと手に取った一冊になる.著者は科学哲学者で社会科学の哲学を専門とする吉田敬になる.
 

序章 社会科学の哲学を学ぶとはどういうことか

 
まず本書の目的について,社会科学の哲学という分野がどのようなものであり,どのような議論が行われているかを紹介するものだとしている.
そこから序章における概念整理がある.

  • 科学哲学の問題領域には論理学(推論の方法は正しいかなど),認識論(知識とは何かなど),形而上学(扱う対象は実在するのかなど),倫理学(科学にはどのような価値があるのかなど)があり,社会科学の哲学の固有の問題としては社会現象とは何か,個人と社会のどちらに注目すべきか,自然科学の目的や方法と違いがあるか,社会科学者の価値観と研究はどのように関係しているかなどがある.

このあと社会科学の哲学をあえて論じるのはなぜか(社会科学が自然科学に比べて劣っているのかが問題となる),社会科学と社会科学の哲学はどのような関係にあるか,本書の意義は何かなどが簡単に解説されている.そして次章以降は社会科学の哲学で議論になっているいくつかのトピックが取り上げられていくことになる.
ここから各章の議論を紹介し,章ごとに(あくまで社会科学にも社会科学の哲学にも詳しくない初学者の感想として)私の感想も記していくことにする
 

第1章 社会科学は社会現象をどのように捉えようとするのか

 
最初のテーマは社会現象を個人から捉えるか,社会全体から捉えるかというものになる.ここでもまず概念の整理がある.

  • ここでは存在論と方法論の区別が必要だ.個人の存在のみ認める立場を存在論的個人主義,集合体の存在も認める立場を存在論的集団主義と呼ぶことができる.また社会現象は個人の観点から説明できるという立場を方法論的個人主義,集合体についての考慮に入れる必要があるという立場を方法論的集団主義と呼ぶことができる.社会制度の存在は認めるが,それは個人の観点から説明できるという立場(制度論的個人主義)をとることは可能だ.

 
ここからそれぞれの主義に立つ論客がどのような議論を行ってきたかが学説史的に解説される.
 

方法論的個人主義
  • 方法論的個人主義についてはホッブス,アダム・スミス,ミルの見解の検討から始められることが多い.
  • ホッブスは万人の万人による不断の戦争状態,それを避けるためのリヴァイアサンとしての社会契約説を唱えた.これは存在論的にも方法論的にも個人主義の色が濃い.
  • アダム・スミスは「見えざる手」の議論により個々の行為者の意図せざる結果としての社会現象を捉えた.このようなスタンスはハイエクやポパーに受け継がれて現在に至っている.
  • ミルはあらゆる社会現象の法則は人間本性に関する心理学的法則から導き出すことができると主張した.
  • マックス・ウェーバー*1は行為者の付与する主観的意味に注目する理解社会学を用いた.これは方法論的個人主義的だ.
  • ハイエクはスミスにならって行為の意図せざる結果を説明することが社会科学の目的だとし,そのために個人の意図・目的・信念といった主観的な事柄を取り扱わなければならず,社会,経済システム,資本主義などの集合体は通俗的一般化(モデル)であり事実とみなしてはならないとした.
  • ポパーは社会科学の対象は理論的モデルの構成物で,具体的事物とみなしてはならないとする一方,自然科学と社会科学の単一性を擁護した.そしてミルの立場を社会科学と心理学に還元しようとする心理主義だとして批判し,意図せざる結果としての社会制度を説明に取り入れる立場をとった.
  • ハイエクやポパーは現代において有力な方法論的個人主義者だと考えられている.その背景には方法論的個人主義はナチズムや全体主義に対する自由主義的抵抗として位置づけられていた(彼等の議論に政治的側面があったことは否定しがたい)ということがある.
  • 方法論的個人主義が目覚ましい発展を遂げるようになったのは,社会的取り決めや現象の成立を合理的選択を行う個々の行為者の観点から分析可能にしたゲーム理論の貢献によるところが大きい.

 

方法論的集団主義

方法的集団主義にはドイツとフランスの2つの流れがあるそうだ.ここではドイツから解説される.

  • ヘーゲルは個人に対して有機体としての全体である国家の役割を強調した.
  • マルクスが方法論的集団主義をとっているかどうかは難しい問題であり,ここでは論じない.
  • フランスの方法論的集団主義の代表はコントになる.コントは社会を有機的な存在とみなし,社会現象を説明するにはその全体と捉える必要があると説いた.
  • デュルケームは社会的事実を個人的事実と区別し,それは集団の信念・傾向・慣行によって構成され,個人に対して外部から拘束力を発揮できる行為様式であり,出生率や婚姻率のような統計的数字で表現されると主張した.また社会は個人の総和ではなく,それ自体独自の実在として現れるとし,社会学は心理学に還元できないとした.
  • これら方法論的集団主義と方法論的個人主義の対立の上で重要なポイントは,全体としての社会に独自の意識・表象,目的があるのを認めるかどうかというところにある.

 

方法論的個人主義の制度論的展開
  • 現代の社会学の一般的な傾向は,上記のどちらかを徹底しようとするのではなく,それぞれの主張を踏まえつつ第3の立場を提示するものになる.
  • その1つの方向性がアガシによる制度論的個人主義になる.アガシは社会制度としての「全体」の存在は認めつつもそれ自体の目的や関心があることは否定し,方法論的個人主義的に制度を説明しようとした.
  • グァラは制度論のアプローチを規則とみなすものと均衡から説明するものに大別した.サールは制度を規則から説明しようとして,統制的規則(Xせよ)と構成的規則(Xは文脈CにおいてYとみなされる)を対比させ,構成的規則から制度的事実が作り出されるとした.均衡に基づくアプローチは制度を戦略ゲームの均衡として説明することになる.そしてグァラは両者を統合的に捉える立場を示す.
  • アガシの制度論的個人主義はゲーム理論的均衡アプローチとしてみることもグァラ的統合の立場とみることもできる.いずれにせよ制度論的個人主義は制度を個人の外側に存在する制限として捉えており,ホッブスやミルのような人間本性から社会の成立を説明する立場と相性は良くないと考えられる.

 

<感想>
  • 第1章の個人主義と集団主義の部分はいかにも哲学的な議論が並べられていて楽しい.しかしそれぞれの主張が並べられているだけで,それぞれの主義がどのような現象についてのどのような説明に適していたり適していなかったりするのかが説明されておらず,背景がわからない.これだと単に(ウェーバーは例外かもしれないが)英米の学者は個人主義的,大陸の学者は集合主義的で,師弟を通した伝統に沿っているに過ぎないのではないか(ほとんど神学論争あるいはイデオロギーの争いではないか)という疑問が解消されない.
  • また最後に制度論的個人主義のゲーム理論的アプローチは人間本性から社会の成立を考える立場と相性が良くないと主張しているが,なぜだろうか.人間本性はゲームのペイオフの評価に現れるのであり,そのような本性を持つプレーヤーによるゲームとして制度を分析することは後者の立場からもなんら問題ないのではないか.

 
 

第2章 社会科学の目的はどのようなものか

 
第2章のテーマは社会科学と自然科学の関係になる.これに関しては自然主義と解釈主義という2つの立場があるそうだ.

  • 自然主義とは社会現象は自然現象と同じように研究できるとする立場,解釈主義とは社会現象は自然現象と異なるので,研究のためには独自の方法が必要になるという立場になる.現代の社会科学においては自然主義が有力になっている.
  • 自然主義の前身は実証主義(科学の対象は観察可能な現象間の関係であり,それを記述したものが法則であるという立場)である.コントは実証哲学を提唱し,思索を神学的段階→形而上学的段階→実証的段階に発展するものと考え,科学を数学>天文学>物理学>化学>生物学>社会学として序列化した(ただしコントは社会学が生物学に還元できると考えていたわけではない).
  • 1920年代にウィーンの哲学者グループが論理実証主義を提唱した.彼等は神学や形而上学に批判的で検証可能性の基準を示し,統一科学運動を推進した.彼等は物理主義(社会現象も物理的運動や出来事に関する言明に翻訳されうるという立場)を採ったが,必ずしも還元主義を採っていたわけではない.しかししばしば還元主義を採っていたと受け止められている.

 
ここからなぜ現代の社会科学において自然主義が優勢なのかが解説される.

  • 理由は主に3つある.(1)社会科学を物理学のような一人前の科学にしたいという願望(2)クーンのパラダイム論の影響(3)社会生物学や進化心理学の影響である.
  • 物理学的なものこそ科学であるという考え方は哲学者や社会科学者にある程度共有されていた.ミルやデュルケームもそういう意味で自然主義者だといえる.またワトソンやスキナーの行動主義心理学もそのような考え方から生まれたものだ.
  • クーンは社会科学者たちが(物理学の議論と異なり)基本的前提をまるで共有することなく議論しているのを見てパラダイム論を着想した.それを見た社会科学者は自分たちも物理学者たちのようなパラダイムを持たなければならないと考えた.リッツァは社会学にもパラダイムがあると主張した(デュルケームの社会的事実パラダイム,ウェーバーの社会的定義パラダイム,スキナーの社会的行動パラダイムがあると主張した).一部の社会学者はパラダイム論の受容に批判的だった.
  • 進化心理学者は社会科学はSSSM(標準社会科学モデル)にしたがっているが,これは進化生物学や遺伝学の知見を無視していると批判した.(この問題については第6章で詳しく扱われる)

 

  • 支持者は多くないが解釈主義を採る社会学者も存在する.
  • 社会科学の哲学における解釈主義の源流はドイツのシュライアマハーやディルタイの解釈学にある.
  • 英国の哲学者ピーター・ウィンチは異文化には自分たちと異なる合理性基準があるので異文化を研究するためにはそれを内的に理解しなければならない(因果説明だけでなく内的理解が必要な点において社会科学は自然科学と異なる)と主張した.
  • テイラーは行為する人間には意図や目的があり,それを無視することはできない(行為の内的な意味を捉えるためには解釈主義を採る必要がある)と行動主義を批判した.
  • ギアツは社会現象の研究は法則から説明することではなく,シンボルによる文化的な意味を解釈することだと主張した.

 

  • このような対立は古代ギリシアの(普遍的に正しい)自然と(人工的でローカルにのみ正しい)規約の二分法にまでさかのぼることができる.自然主義と解釈主義の対立における重要な論点の1つは自然と規約に存在論的な違いを認めるかどうかというところにあるからだ.
  • しかしこれらの対立は「意図せざる結果」という第3のカテゴリーを見逃している.ハイエクは意図せざる結果を説明することが社会科学の主要な目的であると主張した.

 

  • 「意図せざる結果」のわかりやすい例には自己成就的予言や自己破壊的予言がある.これらはしばしば社会科学と自然科学の違いを強調するために引き合いに出されるが無理がある*2
  • しかし社会科学の予測が将来に影響するということは実際にありうることであり,実践面,客観性に関して問題が生じる.
  • 実践面としては社会科学の予測や政策立案が意図せざる結果として将来に影響を与えるとしたら,社会科学者は口をつぐむべきなのかが問題になる.このような考えは極端だが,急激な社会変革の試みは予期せざる結果を生む可能性があることには留意が必要で,社会政策は漸進的に行うべきというポパーの考えが妥当だ.
  • 客観性の問題は社会科学者は自らが望ましいと思う方向に影響を与えようとするのではないか,であれば社会科学の客観性は損なわれるのではないかというものだ.(この問題については第5章で扱われる)

 

  • 「意図せざる結果」の分析については自然主義でも解釈主義でもうまくいかないところがある.この場合ポパーが「状況分析」(個人が合理的基準で行動するというモデルを立て,モデルと現実の違いを分析する)と呼ぶ考え方が参考になる.

 

<感想>
  • 第2章の自然主義を採りたい社会科学者の動機の解説はいかにもという感じで面白い.また解釈主義がかなり無理筋っぽいのが何となく感じられる.
  • しかし意図せざる結果の分析が自然主義でもうまくいかないところがあるというのは理解できない.ポパーの状況分析は仮説をモデルとして構築し.得られたデータにあわせて仮説を改善していく試みだから,まさに自然主義的なのではないか.

 

第3章 社会科学の理論は何のためにあるのか

 
第3章のテーマは実在論と道具主義になる.
この実在論と道具主義の対立は経済学をめぐって激しい論争になっているが,ここではまず一般的科学哲学における実在論と反実在論の論争から解説がある.(実在論と対立する立場は全て反実在論になり,道具主義も反実在論の1つだと解説されている)

  • 一般科学哲学においては観察不可能な対象をめぐって実在論と反実在論の論争が生じた.実在論は科学理論は客観的真理を目指すものであり,観察可能な対象と観察不可能な対象の区別は不要だと主張し,反実在論は科学理論は観察可能な対象の予測を行うためにあり,観察不可能な対象についての真偽は問題にならないと主張した.(論争の中で観察不可能な対象とされた例として気体分子が挙げられている)
  • 実在論者は(観察不可能な対象を取り込んだ)科学理論の目覚ましい成果を提示したが,反実在論者は経験的な成功は理論の正しさを保証しないと応じた.
  • 論点の1つは観察可能な対象と不可能な対象の区別が可能かということで,実在論者は区別が明確には成り立たないことを指摘した.(分子や電子も装置を使えば観測可能)
  • 別の論点は決定不全性で,反実在論者は科学理論の予測が実験によって支持されたとしても,それはその科学理論の正しさを保証しない(同じ予測をできる別の理論が存在し,どちらが正しいか決定できない)と主張し,実在論者はそのような複数の理論のどれが優れているかを決める方法がないわけではないと応じた.
  • これらの哲学者の論争は最終的な結論には達していない.

 
ここから経済学に関する論争が紹介される.

  • 経済学は合理的経済人を仮定して発展してきた.(行動経済学の先駆者とも言える)ハーバート・サイモンは合理性概念を批判し,限定合理性という概念を提示した.
  • これに対してミルトン・フリードマンは実証的経済学においては,重要な仮定ほど複雑な状況を捨象した非現実的なものにならざるを得ないことを踏まえ,仮説の妥当性は予測が経験と一致するかによってのみ確かめられると主張し,非現実的な仮定の使用を擁護した.
  • これは単純化した合理的経済人仮定の使用を擁護したポパーの立場に似ているが,ポパーは競合するモデルや仮定のどれが真実に近いかを批判的に議論できることは可能であるとして実在論を堅持した.

 

  • 近年行動経済学の進展により合理的経済人が正しい予測を導くことに対する疑問が高まってきている.(最後通牒ゲーム,独裁者ゲームなどの解説がある)
  • フリードマンはこのような批判を予期したかのような議論を提示している.彼は批判者はいずれ心理学の発展を踏まえて経済学の仮定を再構成する必要があると主張してくるだろうと予測し,しかしより現実をうまく説明する仮定を提出できなければ批判には説得力はないと論じた
  • 行動経済学や神経経済学という新しい分野は心理学や脳神経科学の知見を踏まえて経済学のあり方を考え直そうとしている.そういう意味では彼等の立場は(彼等自身は自分たちの立場を実在論とは呼称していないが)実在論的である.(いくつかのヒューリスティックスとバイアスの知見が紹介されている)
  • 合理的経済人の仮定に批判的な行動経済学者も標準経済学を全面的に否定するわけではない.カーネマンやセイラー*3は行動経済学は標準経済学に修正を迫るものではあるが全面的に取って替わるものではないと認識している.片方でギンタスを中心とする研究者は強い互恵性の人間観に沿って神経経済学を擁護している(ギンタスや神経経済学の強い互恵性の議論が紹介されている).

 

<感想>
  • 第3章の実在論と道具主義の解説は大変勉強になった.一般科学哲学の反実在論については「自分の目で見えるものだけ実在すると考え,目に見えないものについて実在を信じない,あるいはコミットしない」というものと理解していたため,なぜそれにフリードマンの道具主義が含まれるのかよくわからなかったが「役に立てば仮定の厳密な真偽を問わない」というのは「目に見えないものの実在についてコミットしない」という立場の一種という捉え方になるというわけだ.
  • そして本章を読んだ私の感想は以下の通りだ.一般科学哲学の反実在論にはやはり乗れない.目で見えるか見えないかで区切るというセンスの悪さはやはり区別の不明確さや測定機器の問題として議論されていて安心した.合理的経済人仮定に関してはなおフリードマンの道具主義の議論が有効だろう.経済学は政策判断にも使う実学であり,役に立っているものを否定するのは合理的ではなく,合理的経済人仮定を批判するなら代替案が必要だ.そして行動経済学の知見を経済モデル(特にマクロ経済モデル)に組み込むには,極めて流動的でかつ大きな文脈依存性(フレーミングやアンカリングやプロスペクト理論の損益ゼロの基準点など)をモデルに入れ込む必要があり(少なくとも現時点では)非常に困難だろう.

 

第4章 社会科学はものの見方の一つに過ぎないのか

 
第4章では普遍主義と文化相対主義の対立がテーマになる.

  • 社会科学を含めた科学一般の起源はヨーロッパにある.社会科学はヨーロッパやそのあり方を受け入れた地域でしか通用しない「ものの見方」の1つなのかが問題にされた.
  • ギアツはこの意味から社会科学としての人類学を断念し,それぞれの文化現象を詳細に記述することに道を見いだした.
  • しかし片方で女性性器切除のように受け入れがたいと感じる文化慣習がある.これは自文化のあり方を異なる社会に押し付ける自文化中心主義なのか.文化相対主義を採ると外部からこのような慣習を批判することは困難になる.

次にこれに関する3つの論争が紹介される.

  • これについての代表的な論争の1つが1960〜80年代の合理性論争だ.ウィンチは妖術を信じる部族を非合理的と断じることを批判し,それぞれの社会や文化には科学的合理性だけではなく宗教的合理性や美的合理性などの異なる合理性があると主張した.これは文化相対主義だと批判され,様々な議論が生じた.
  • 2つ目は道徳的規則と慣習的規則の区別に関する1980年代のテュリエル/シュウィーダー論争だ.テュリエルは道徳的規則と慣習的規則の区別は文化的差異を越えて普遍的だと主張し,シュウィーダーはそれは西洋特有の考え方だと主張した.
  • 3つ目は1990年代のサーリンズ/オベーセーカラ論争だ.サーリンズはハワイ島民がクック船長を殺害したことを,彼等がクック船長をロノ神とみなし,クック船長が神話体系を脅かす行動を取ったので殺害したと説明した.これに対しオベーセーカラは,サーリンズの見方はヨーロッパ人の想像に過ぎず,ハワイ島民も人類に共通する実践的合理性を備えておりクック船長を神と見間違ったはずがないと批判した.サーリンズはオベーセーカラの実践的合理性は西洋のブルジョワ合理性だと反論した.
  • これらの論争の背景にはクーンのパラダイム論がある.パラダイム転換は文化相対主義を補強するものとして作用したのだ.

 
ここから文化相対主義の議論と問題点が整理される.

  • 文化相対主義の是非は人類学においてしばしば問題となる.代表的文化相対主義者のハーコヴィッツは世界人権宣言にかかわり,文化が個々人の発展に大きくかかわり,個人の人格は自社会の文化によってのみ高められると主張した.
  • レイチェルズ父子は文化相対主義の議論を整理し,それが「社会科学を含めた科学一般は文化相対的であり,ものの見方に1つに過ぎない」という主張を含むとし,以下の3つの問題点を指摘した.
  • (1)異文化の慣習に問題があると指摘できなくなる(2)自文化の慣習も批判できなくなる(ある社会で受け入れられている慣習についてその社会の成員は従うことが求められる)(3)道徳的進歩の考え方が怪しくなる.

 
最後にこの問題についての著者の立場が解説されている.

  • 上記問題点から文化相対主義には問題があることがわかる.では自文化中心主義にも文化相対主義にも陥らないためにはどうしたらよいのか.その1つの鍵は「自分が間違っているかもしれない」という可謬性の認識だろう.その上に立つことによって文化の多様性を擁護し,相互批判を可能にすることができる.

より具体的方法論として合理性のレベル分け(明示的な規則に従っているか,自己批判の契機をもつかなどによってレベルを分ける),ポパーのフレームワークの神話などを紹介しつつ最後に女性性器切除の問題を考察する.そしていくつかの主張(当初国連やNGOはこの慣習の廃絶に向けたキャンペーンを実施していたが,そこに米国で育ち22歳でシエラレオネで切除を受けたのちに人類学博士となったアーマドゥが切除擁護論を展開したことでシュウィーダーたち文化相対主義者が勢いづき議論が沸騰したという経緯があるそうだ)や議論を眺め,「切除を受けたい女性の権利を認めるなら切除を受けたくない女性の権利も認めるべきだ」というのがより高い合理性レベルから導かれる結論だと主張している.
 

<感想>
  • 私が文化相対主義に関して読むものは進化生物学や進化心理学に親和的な書き手が文化相対主義やポストモダニズムを厳しく批判するものに偏っているので.自分のバイアスを知るという意味で第4章の文化相対主義の解説は参考になった.そして社会科学の哲学者にとっても文化相対主義は問題含みだと認識されていると知り,ややほっとした.
  • 具体的事例として女性性器切除を持ち出しているのはよい試みだと思う.特にアメリカで教育を受けた女性が自分も切除を受けた上でその慣習を擁護している例は,これに文化相対主義者が大喜びで飛びついている様子が想像できて問題の根深さを知ることができる.とはいえ最後のまとめ「切除を受けたくない女性の権利を認めるべき」というのは要するに女性性器切除慣習(そもそも望んでいない女性への切除が問題になっている)の全面的否定とほぼ同義で,文化相対主義の完全な否定ということになりそうだが,記述ぶりはやや曖昧で不満が残る.ここは宗教や文化慣習が(普遍的とされている)人権を侵害する場合にどう考えるべきか(人権を認めるのは自文化中心主義なのか,そうでないとすればそれはなぜか)にまではっきり踏み込んでほしかったと感じる(あるいは社会科学の哲学者たちはそこには踏み込んでいないのだろうか?).

 

第5章 社会科学において認識と価値はどのような関係にあるか

 
第5章では社会科学における価値の問題が扱われる.具体的には事実と価値は分けられるか(自然主義的誤謬の問題),社会科学上の認識は社会科学者の価値と分けられるか(研究内容が自身の価値観の影響を受けないか)あたりが取り扱われる.

  • 社会科学上の認識と価値の関係はそれほど単純ではない.レヴィットが主張するように中絶の合法化がアメリカの犯罪発生率を減少させたのであれば,政府は犯罪抑制のために貧しい女性に中絶を促す方がよいだろうか(おそらくそうではないだろう).路上喫煙が社会問題を生じさせることがわかれば社会科学者はその解決策を考えなければならないのだろうか.これは社会学の認識と社会科学者の価値観を分けることは可能かという問題になる.
  • この問題は事実と価値の二分法の問題と関連する.ヒュームとムーアの議論は事実と価値の二分法を支持するものと解釈されている.(ヒュームの事実から価値は導けないという議論,ムーアの自然主義的誤謬の議論が紹介される)
  • マックス・ウェーバーは客観性のための社会科学者の義務を提示した.それは日本で倫利中立性,没価値性として翻訳紹介されてきたが,実際には「社会科学者が価値観を持つべきではない」ということではなく,「自らの価値観を明示的に示せ」という趣旨だと思われる(解釈をめぐっては議論がある).
  • シュモーラーは,それでは「社会学者はある場面では科学者として,ある場面では政治家として語れ」ということになるとウェーバーを批判し,ウェーバーは反論した.

 

  • 20世紀半ばの英語圏の社会科学の哲学の中で価値自由の擁護論としてはネーゲルのものが,批判としてはテイラーのものが代表的だ.
  • ネーゲルは問題を4つに区切った.「何を研究対象として選ぶのかに価値判断が影響を与えるか」ことについては,与えるだろうがそれは自然科学でも同じであり問題ないとした.「社会現象の分析に望ましいと思う社会秩序が影響を与えるか」については,影響の可能性はあるが事実と価値を分けて問題を克服することは可能だと論じた.「事実と価値を分けることは可能か」については,特徴づける価値判断と評価を行う価値判断の区別(前者は価値中立で問題ないとする)は可能であると論じた.「証拠の評価に価値判断が影響するか」については,バイアスの除去は可能,文化相対主義を採るべきではない,統計的検定においても問題ないと論じた.
  • テイラーは政治学における説明の枠組みは人間の欲求・ニーズ・目的と結びついており,政治学について何らかの立場をとること自体が価値を反映している主張した.また事実と価値の二分法についても,それを突き詰めると善悪の判断と好き嫌いの表明の区別がなくなってしまうとして否定した.そして社会科学は価値やイデオロギーから自由ではありえないと説いた.

 
ここから現代における議論の状況が解説される

  • スティーヴ・フラーは社会科学は人文主義,生物学的立場からの挑戦を退けるために社会主義的プロジェクトとして捉え直す必要があると論じた.そこには価値自由論が広く受け入れられたことから政策担当者は社会科学に介入せず,社会科学者は政策決定に口出ししないという棲み分けが生じていることについての問題意識がある.(価値自由はウェーバーの説いた趣旨ではなく,没価値性として理解されていたということになる)
  • フラーに影響を与えたのは科学史家のプロクターだ.プロクターはそもそも社会科学の価値自由は,かつてドイツの大学教授が皇帝を頂点とする国家に仕えることになっていたという文脈で,社会科学者は自らが社会主義者でないことを示す必要があり,学問の自由を守るために提唱されたものだと指摘したのだ.であれば現代において社会科学者が金科玉条のように価値自由を守る必要はないことになる.
  • しかしフラーの主張は「社会科学の教育において教師は学生に自らの価値観・政治的立場を押し付けてよいのか」という問題を生じさせる.

 

  • 関連する議論にスタンドポイント理論がある.ハーディングはこれまで客観的であると考えられてきた科学的知識も社会的に条件付けられており,必ずしも客観的ではないと主張した.彼女は相対論に陥るのではなく,現代の科学観が前提とする客観性概念が性差別や男性中心主義を排除するには弱すぎると論じ,主流派だけでなく周辺化された人々の経験を取り入れて新たな批判的問いを立てるべきだと主張した.(同じくスタンドポイント理論にたちながら異なる立場をとるワイリー,クラスノウの議論も紹介されている)

 

<感想>
  • 第5章の事実と価値の解説もいろいろ勉強になった.しかし本章の後半の記述には不満が残る.そもそも主流の社会科学者は(没価値的中立かウェーバー的態度を明示的に示すのかの違いはあっても)事実と価値の区別はでき,バイアスは自省や相互批判などにより克服可能だと考えているのだろう.であればそこはネーゲルとテイラーの議論で一応整理できているのではないか.
  • そこから現代の論争としてフラーの社会主義的プログラム(これはかなり奇矯な主張に聞こえる)や,(いかにもフェミニズム的な)スタンドポイント理論を解説するのなら,彼等の議論がどのような受け止め方をされているのかについての解説がほしかったところだ.
  • そしてフェミニズムを取り上げるのであれば,政治運動としてのフェミニズムと社会科学としてのフェミニズムの関係,フェミニズムにおいて事実と価値がどう扱われているのかをきちんと扱うべきではなかったか.
  • さらにそもそも現在の社会科学における事実と価値の問題を扱うのであれば,ポリコレとキャンセルカルチャーの問題をスルーせずに真正面から扱うべきであっただろう.(あるいは社会科学の哲学者たちはそこには踏み込んでいないのだろうか?)

 

第6章 社会科学と自然科学の関係はどのようなものか

 
最終第6章では社会科学が自然科学への還元可能性が扱われる.また個別テーマとしてはEOウィルソンのコンシリエンスの主張,進化心理学者によるSSSM批判も取り上げられている.
 
まず最初に科学哲学における還元の議論が解説される.

  • ネーゲルはある科学理論から別の科学理論への理論間の還元を問題にした.ネーゲルは一次的科学に含まれていない用語が(一次的科学に還元される)二次的科学に含まれる場合には架橋法則が必要だと論じた.
  • 還元の問題を議論する際には多重実現可能性テーゼを理解しておく必要がある.パトナムは「心理学が物理学に還元できるか」という問題において,ある一つの心的状態を実現することができる物理的状態が複数存在する(ヒトの痛みと頭足類の痛みを示す脳の状態は同じではない)ならば,それを1つに確定できないことは前者を後者に還元できないことを意味すると論じた.
  • フォーダーは架橋法則と多重実現可能性テーゼを利用し,個別科学の法則を物理科学の法則に置き換えると多重実現が生じると主張することによって個別科学擁護論を展開した.キムはそれに反論し,局所的還元を認めた*4.両者の論争は再反論の繰り返しとなり近年まで続いた.

 
ここから社会科学の自然科学への還元可能性が取り扱われる.

  • EOウィルソンは1975年に「社会生物学」を出版し,人間を含む生物の社会的行動に関する生物学的基盤を体系的に研究することを提唱した.これに対してはグールドやレウォンティンから厳しい批判が出され.社会生物学論争となった.グールドたちの批判は科学的というより政治的なものであり,問題がなかったわけではない.
  • ウィルソンは3年後「人間の本性について」を出版し,科学的方法の核心には還元があるとし,自然科学,社会科学,人文学の統合を提唱した.さらに23年後ウィルソンは「知の統合」を出版し,改めて統合を提唱した.ウィルソンは自然科学と社会科学の違いは原理にではなく問題の規模にあるのであって還元による統合が不可能ではないと主張した.

 

  • 進化心理学者のトゥービーとコスミデスは「文化の心理学的基盤」という論文で既存の社会科学が基づくSSSM(標準社会科学モデル)には心理学的に重大な欠陥(特にヒトの心に進化により獲得された生得性があることを無視していること)があると主張した.
  • 彼等のいうSSSMの中身は全体論(文化現象は個人の外部にあって個人を制約する),文化創造主義(社会文化現象はヒトの行動を規制しコントロールする),生物学恐怖症(生物学はヒトの行動の説明にかかわりを持たない),心の白紙説の4つであり,方法論的集団主義の一部の側面からしか捉えられていない.彼等が念頭に置く社会学者はデュルケーム,(主流派の社会科学を批判して人文学との統合を主張していた)ギアツ,行動主義のワトソンであり,彼等だけに現代の社会科学を代表させるのは無理がある.特に方法論的個人主義を採るウェーバーやハイエクの立場はSSSMとはいえない.SSSMが社会科学の標準とは言い難い.
  • トゥービーとコスミデスが社会科学をSSSMとまとめて批判したのはSSSMから文化相対主義が導き出されると考えたからだろう.文化相対主義を退ける必要性は理解できるが,進化心理学の立場には問題がある.
  • 進化心理学者は「あらゆる社会法則は人間本性に還元できなければならない」という心理学主義の現代版に陥っている.心理学主義の問題点は社会成立以前に人間が存在したという社会契約の神話に陥っているところだ.それでは人間本性や心理が社会成立以前に存在していたと考えることになってしまう.そして心理学主義では人間の行動の意図せざる結果を説明することもできない.進化心理学者は社会制度の重要性や社会科学の研究を無視している.これらを改善できなければ進化心理学が社会科学に対して新たな基盤を提示する可能性はない.

 

  • これらの生物学者や進化心理学者たちからの議論について科学哲学者たちはどう考えたのか.
  • ローゼンバーグは社会科学は自然科学に包摂されるという立場に立ち,「社会科学の無効化」を目指した.彼は既存の社会科学は素朴心理学に基づいており,素朴心理学は反証可能ではなく多重実現可能で,そこで用いられている概念は自然種ではないと論じた.そして彼は生物学的な機能主義(制度や慣習について機能から説明する)に依拠し,自然淘汰と適応概念を用いて制度や慣習の存続や消滅を説明できると主張した.しかし彼は(進化心理学者たちのような方法的個人主義は採らず)方法的集団主義に近い立場をとっている.彼は社会科学を物理学に還元可能とするような還元主義者ではないが,自然淘汰や適応概念を還元主義的に社会科学に取り入れようとしていると評価できる.
  • 哲学者の中には多重実現可能性テーゼを元にした非還元的アプローチを採るものも存在する.ソーヤーは存在論的個人主義を採りつつ方法論的集団主義を採り,非還元的個人主義という立場を提唱している.ソーヤーはフォーダーの多重実現可能性テーゼに関する選言の議論を受け入れて個人に還元できない社会法則を認めざるを得ないとしている.またキンケイドは社会科学用語の多重実現可能性の存在,個人の行動の記述に関しての社会制度や社会的文脈の必要性から還元主義が成立しないと論じている.

 
著者は最後に還元の問題についての自身の見解を語っている.

  • 人間も生物である以上進化生物学の知見を無視するのは適切ではない.しかし社会現象を説明するのに社会科学なしで済ませることは難しい.
  • 社会科学の目的の1つが意図せざる結果を説明することだとすると,心理学主義に陥っている進化心理学の立場にも問題がある.ローゼンバーグのような社会科学を軽視する立場は受け入れがたく,ウィルソンのコンシリエンスには同意できない.
  • その意味ではソーヤーの主張には見るべきものがあるが,存在論的個人主義は強すぎると思われる.
  • すると還元主義や心理学主義に陥ることなく制度や慣習の役割に注目し意図せざる結果を説明しようとする制度論的個人主義には可能性が残されている.合理性を社会的に捉えようとするキンケイドの立場はこれに親和的だろう.ただキンケイドの議論は集団主義の側面が強いようにも思われ,これらの議論を踏まえて非還元主義的な社会科学のあり方を追求していくことが今後の課題だろう.

 

<感想>
  • 第6章の哲学的な科学間の還元の議論の整理は大変勉強になった.しかし個人的にはやはりこの還元の議論は理解できない.そもそも社会科学が生物学に,生物学が化学に,化学が物理学に原理的に還元できるのは自明で,しかし還元してしまうと(つまりたとえば全ての現象を素粒子と物理法則で説明しようとすると)ヒトの認知能力を超えてしまうために現象を理解しようとする試みとして不毛になるというだけではないのか.そして多重実現可能性テーゼも何度聞いても理解できない.なぜある二次的科学のある概念を表す一次的科学の状態が複数あれば還元できないということになるのか.単に複数あるというだけではないだろうか.
  • 還元可能かどうかが個別科学の擁護と結びついて議論されているのも不思議だ.(この点について著者は少しコメントしているが)還元可能でも,ヒトの認知能力の範囲内でより容易に様々な現象を説明理解できるとして個別科学を擁護することは容易だろう.
  • そして本書においてもっとも納得感のないのが第6章の進化心理学の扱いだ.
  • トゥービーとコスミデスのいうSSSMがすべての社会科学者に当てはまらず,「標準」ではないというのはその通りかもしれない.(また主張の一部には社会科学の研究についてリスペクトを欠くものがあるのかもしれない)
  • しかし彼等の批判の中心ポイントは「社会科学者は自らのリサーチにおいて自然科学(特に進化生物学,認知科学,心理学,遺伝学)で得られたヒトについての知見を無視すべきではない」ということであり,それは著者も認める論点になっている.
  • そして進化心理学者が心理主義に陥って「あらゆる社会法則は人間本性に還元できなければならない」とか「人間本性は社会成立以前に成立していた」とか考えているというのは全くの誤解だ.彼等が考えているのは「あらゆる社会法則の説明は,『人間本性がある』を初めとした進化生物学,認知科学,心理学,遺伝学などの知見と矛盾するものであってはならない」「ヒトは社会性の霊長類から進化したものであり,社会は適応環境の大きな要素であるはずだ」ということだ.
  • そして進化心理学の立場からは「意図せざる結果」を説明できないというのも全くの誤解だ.進化心理学の立場(ヒトには進化した人間本性がある)から(人間本性を持つ)プレーヤーが行う進化ゲームや文化との共進化を分析し,制度を説明することにどこにも矛盾はない.著者の進化心理学の理解には問題があるというほかない.

 
いろいろ批判的な感想を連ねたが,全体として見ると本書は非常に価値ある一冊だ.私は社会科学にも社会科学の哲学にもあまり詳しくないので,この分野でどのような議論がなされてきたのか,それが科学哲学一般とどのような関係にあるのかについて大変勉強になった.(進化心理学の扱いなど)納得いかない部分もあるが,入門書としてはとても便利な一冊だと思う.


関連書籍
 

門外漢,特に自然科学を実践している理系研究者が「科学哲学とはいったいどういうものか」を理解するには(いろいろいい入門書もあると思うが)これがいちばん楽しくてわかりやすいと思う.私の(増補版になる前の版の)書評は
https://shorebird.hatenablog.com/entry/20130623/1371943925
 
関連するEOウィルソンの書籍

 
SSSM批判論文は進化心理学旗揚げの書とされるこの論文集に収められている

*1:Max Weber:本書ではヴェーバーと表記されている.ドイツ人なのでヴェーバーとする方がよいということだが,ここでは私のこれまでの慣れと好みに従って英語読みにしておく

*2:ここでなぜそうなのかについてハイゼンベルグの不確定原理を持ち出して説明しようとしているが,何を言っているかわからず,それこそ「知の欺瞞」的なやや無理筋な説明ではないかという感想を持たざるを得ない

*3:ここではセイラーによる記述的理論と規範的理論の区別に基づく行動経済学と標準経済学の分業的な議論も解説されている

*4:この部分は,多重実現した法則を選言の形にすること,選言の形になったものは法則と呼べるか,などがからむ難解なものになっている.