From Darwin to Derrida その142

 

第12章 意味をなすこと(Making Sense) その7

 
だんだん難解になる「Making Sense」.送信者(最初の解釈者,情報の創造者)の意図と受信者(2番目の解釈者,情報の消費者)の意図は異なるという話の解説になる.
 

解釈の解釈 その2

 
前回ヘイグはチータ相手にジグザグ走りを行い,リカオン相手にストッティングを行うガゼルを持ち出した.
ジグザグ走りはチータの走行予測を困難にする意図を持ち,チータはジグザグを見ながら予測しようとするので両者の意図は合致していない.しかしストッティングではガゼルは「ストッティングを行うガゼルは健康で追うに値しない」ことを示し,リカオンはその通りに解釈しているので,一見意図は合致している様にも思われる.しかしヘイグは違うと言う.

  • しかしこれは行動生態学者の解釈であって,(私たちが知る限り)ガゼルやリカオンの解釈ではない.彼等の解釈は「ストッティングする」「追いかけない」というだけのものだ.(ガゼルはチータに対してはストッティングしない.なぜならチータには耐久力はないが,ものすごいスピードがあるからだ.ガゼルはチータがいるという状況を「できるだけすばやく遠くに,そして予想できない動きで逃げる」と解釈する)

 
というわけで私の最初の感想は行動生態学に慣れすぎていることからきているということになる.(ここのヘイグの「解釈」という用語の用法が通常と少し異なっているということもあるだろう)
 

  • 解釈は目的を達成するために選ばれた行動だ.一部の解釈は,引き続く解釈者の解釈や当初の解釈者ののちの解釈のための情報として使われる.私はここで「テキスト」を引き続く選択の情報として意図された情報という意味で用いる.テキストは著者(創造者)による読者(消費者)への入力として意図された出力だ.しかしテキストをどう解釈するかを選ぶのは読者だ.テキストは意図された読者の解釈能力を予測する.それは静的なオブジェクトでもありうるし,動的なパフォーマンスでもありうる.

 
ここで「テキスト」の本章における定義が現れる.それは情報の消費者(受信者)が何らかの解釈を行うことを意図して発信される情報ということになる.
 

  • この拡張された定義においては,書かれた書類,美術品,DNAやmRNA,神経活性,チューリングマシンのテープは全てテキストということになる.私の話し言葉は,音により「書かれ」聴取者に解釈されることを意図された,その場限りのテキストになる.絵画は,絵の具で「書かれ」鑑賞者に解釈されることを意図された,永続的テキストになる.道路に描かれた平行な白線は,歩行者には横断場所を示すと解釈されることを意図された,ドライバーには歩行者がいれば一時停止する場所を示すと解釈されることを意図されたテキストになる.クジャクの尾は,メスの賛美を誘発するように意図されたテキストだ.ストッティングはリカオンを思いとどめさせるように意図されたテキストだ.

 

  • テキストの著者が(読者がそう解釈するように)意図する解釈と実際の読者の解釈とは区別されるべきだ.ガゼルのストッティングパフォーマンスに(ガゼルが)意図しなかった弱さを見つけたリカオンはそのガゼルを追うだろう.

 
ここはちょっとよくわからない.前段の議論から考えると,ガゼルの解釈は単にストッティングすることだが,行動生態学者が見るとそれはリカオンが追ってこないように意図されたものになる.そしてそれは常に成功するわけではないということだろうと思う.すると「リカオンが追ってこない」というのは著者(ガゼルをさすことになるだろう)が意図する解釈といえるのだろうか.ここではストッティングを持ち出さずに,普通の本の著者と読者などの別の例の方がわかりやすかったのではないだろうか.