From Darwin to Derrida その197

 
最終章「ダーウィニアン解釈学」.大学の文理に関する蘊蓄を披露したヘイグは,ドイツの哲学者ディルタイの「自然科学は部分から全体を理解するもの(これを「説明」と呼ぶ)で,人文科学はまず全体を経験し,部分を区別するのだ(これを「理解」と呼ぶ)」という議論を紹介する.そして進化史を持つ生物を理解する問題には,全体から部分へという手法が含まれるという指摘を行う.そしてもう1つの人文科学の手法の特徴はその「主観的な経験」の重視になる.ここでヘイグは「意識」の問題に入り込む.

   

第15章 ダーウィニアン解釈学 その5

 

ナメクジであるとはどういうことか その2

 

  • ほとんどの問題は意識なしに解決できる.私たちの身体的行動には複雑で入り組んだ空間と時間に関する決定が含まれる.それらの身体的動きの選択について私たちはほとんど意識しない.その結果については意識することになるかもしれないが.
  • ここでは私は自発的な行動(autonomic action)と自動的な行動(automatic action)を区別する.もちろんこの両者にクリアカットな境界はないことは承知している.
  • 自発的行動は完全に無意識だが,自動的行動はその気になれば意識的コントロールの制御下におくことができる.自発的行動の例は心臓の鼓動,呼吸,細胞膜のイオン交換,意識の構築などだ.自動的行動の例は痒いところを掻く,自転車を漕いで曲がるときに重心を移動させることなどの繰り返された行動になる.これらの行動の学習段階で意識的関与があるのは共通の主観的知覚だが,いったん複雑な行動が学習されれば,意識的に行うより自動的に行う方がうまくできる.

 
このヘイグの「自動的行動」はカーネマンのシステム1の議論にちょっと似ていて面白い.またクリアカットな境界はないとしているが,まさに呼吸はある程度は意識的にコントロール可能なのでこの中間的なものと扱うべきだろう.
 

  • 意識のメカニズムはツールであり,意識の文脈はテキストだ.そしてこれらは低レベルのメカニズムへの高レベルの介入の際に使われる.しかし全ての介入の実装はこの自発的,自動的な違いの作成の基礎の上にある.
  • 私が通勤するとき,私の細胞の選択は全て自発的で,より高いレベルの選択の多くは自動的だ.私は自分の足を地面のどこに下ろし,どうやって角を曲がるかについての複雑な決定について自覚していない.このような細々としたタスクから解放されるので,私の意識は今日一日何をするかを考えたり,くだらない考えにふけったりできる.しかし大通りを渡るときにはそこに意識が集中する.いつもと違う道を通り洗濯物をクリーニング屋に持ち込もうと思っているときには,意識をそこに保っておかなければならない.でないと手に洗濯物を持ったままオフィスに到着してしまうだろう.
  • 私の現象学的通勤は冬の道路が凍り付いた日の朝には全く異なったものになる.そういう日には私は意識的に注意しながら足を地面に下ろしていくことになる.ちょっとでも注意が途切れたなら転倒のリスクがある.足をどこに下ろすかには多くがかかっている.それは優先事項になるのだ.
  • ナメクジが舗装された歩道を横切るように隠れ場所から現れるとき,それは注意を払っているだろう.それは行き先を知らないだろう,あるいは一度行ったから知っているのかもしれないが.

 
ヒトの意識の問題を解説していて,突然話題はナメクジになる.このあたり(ヒト以外の動物に意識はあるのか,あるとすればそれはどのようなものか)は哲学的にはよく問題になるところだろう.ヘイグはまたすぐヒトの意識の働き方に話題を戻す.
 

  • 現象(phenomena)は周辺の入力の解釈だ.それは世界の物事のメタファーであり,行動を選択するために使われる.私がどこまで意識的に処理しているかに関わらず,世界の知覚モデルは新しいデータにより常にアプデートされ続けている.新しい入力は過去の入力からの解釈と比較される.モデルとデータはレジスターに格納される.知覚はモデルとデータの違い探知器として機能する.驚くべき違いがあればそれは即座に注目すべきものとしてフラグが立てられる.

 
ここでヘイグは周辺状況の解釈として「現象」という用語を用いている.それは知覚からのインプットを受け脳により構築された世界についてのモデルということになる.
 

  • 意識のコンテンツはすぐに使える解釈だ.それらには,改めてサーチする必要のないアイテム,更なる情報を求めるときにどこをサーチすべきかのポインターが含まれる.私の知覚野は,オブジェクト,空間における位置,それとつながる知識,それに対する意図という形でカテゴライズされている.

 
このように現象を整理すると,意識している事柄はこの周辺世界モデルの一部であり,ある種の「解釈」ということになる.