From Darwin to Derrida その198

 
最終章「ダーウィニアン解釈学」.文理の学問の違いを議論し,人文学には直感的経験的把握という要素があることを指摘し,ヘイグは「意識」の問題に入る.そして無意識的行動を完全無意識の「自発的行動」と意識によりコントロール可能だが,普段はオートマチックに行動できる「自動的行動」に分けて議論を進める.そして自動的行動においては無意識下でも世界の入力が解釈され続けていることを指摘する.
   

第15章 ダーウィニアン解釈学 その6

 

ナメクジであるとはどういうことか その3

  

  • この原稿の第一稿を書くためにペンが必要になったとき,私はどこにペンがあるかについて無知の状態からはじめたわけではない.私はそれを見ることなく,ペンが右側にあるというぼやっとした感覚を持っていた.そこではじめて注意を集中してペンを取り上げたのだ.そしてその際に黒い棒のような物体をサーチし,それがペンかレーザーポインターかを決めるためにそれを深く解釈する必要はなかった.それらの心的作業はすでに為されていたのだ.しかし私がペンを取り上げようと思う前は,その位置は私の意識の最前列にはなかった.ぼやっとした背景コンテンツとして,それが必要になればすぐに手に取れるという感覚を持っていただけだ.どこを見ればいいかを知っていたのだ.

 
自動的な行動における意識のあり方についての内省的考察は哲学的な感じで面白い.ヘイグが楽しんで書いているのがわかるところだ.
 

  • 意識には「心の中に持っていること」,つまり行動の調整を可能にする短期記憶が含まれる.私は最近,敗血症の症状としての興味深い「非経験」を味わった.私は意識を持っているように見え,質問されれば答えたが,同じ答えを繰り返したそうだ.「意識はあるか」と聞かれたら「意識はある」と答えただろう.なんと馬鹿げた質問だろう.しかし私には質問に答えた記憶が全くない.私は一時的に整合性を失っていたのだ.救急車に乗せられてから「我に返る」までの間のことは何も覚えていない.「我に返る」が生じたとき,細胞の自発的プロセスが魂の高レベルの整合性を再構築し,記憶が戻ったのだ.「私」が帰還したのだ.

 
ここも内省的な考察が書かれている.このあたりは脳のモジュール性をあわせて考察すべきところのようにも思われるが,ヘイグはそこには深入りしない.
 

  • 哲学の永遠の「ハードプロブレム」の1つは「どのように物質世界に主観的感覚が生じるのか」だ.私はこの問題について特に独自の洞察があるわけではないが.それは意識の目的因,つまりそれを解決するために意識が進化したタスクの理解とともに得られるだろうと思っている.意識はプライベートなテキストとして使われる道具だ.それは情報の解釈であり,それは魂が連続的な解釈を得るために使う.このようなテキスト的な補綴を必要とするタスクの特徴は何だろうか.なぜこれらは自発的,あるいは自動的に処理することができないのだろう.テキストが刻まれる物質的メディアは何だろうか.
  • 私はこれらの問題に答えるには解釈学サークルに入る必要があると考えている.解釈学サークルにおいては.高いレベルの「熟慮」が低いレベルのメカニズムに介入し,低いレベルのメカニズムは高いレベルの主観性の基礎になっているだろう.意識はメタファーとの結合が必要なのだ.

 
そして意識を考察するにはその適応性を考察すべきだという進化生物学者らしい見解が述べられている.そしてそれをどう考察するかについて,解釈学サークルが重要だとしている.一見モジュールに分割して考えるだけではダメで,全体から見る目も必要という主張の様にも見える.とはいえ,モジュールに分割してから,その進化史と適応性を考えて解釈学サークルに入ってもよさそうだから,そういうわけではないのだろう.