From Darwin to Derrida その208

 
ヘイグの「ダーウィンからデリダまで」.付録(Appendix)ではヘイグによる「テキスト」という用語には音声や文字による公的テキストと,脳内にある私的テキストがあることが触れられる.
 

付録(痕跡器官):語についての語 その2

 

  • 言語の熟練機能は文脈にある.文脈がその言語で書かれたり話されたりしたテキストの解読を可能にするのだ.子どもは英国海軍情報部がドイツのコード7500を解読するのと同じような方法で言語を習得する.多くの文例を観察し,意味を推測し,可能な意味を別の文例で検証する.これをヒトがどのように思考するのかについての生得的および学習した知識の文脈で行うのだ.これはまさに解釈学サークルだ.

 
そしてテキストはその文脈に応じて解釈される.そのような解釈を学習する際には解釈学サークル(部分がわからないと全体がわからず,全体が分からないと部分がわからない)の問題が生じることになる.
 

  • 私の公的テキストはソシュールのいうパローレと,私的テキストは同じくソシュールのいうランゲとほぼ同じだ.ソシュールはランゲの共有的性質を強調した.しかし私は私的テキストのパーソナルな性質を強調する.私的テキストは各人にとって独自のものだ.しかし相互理解のニーズが同じ言語コミュニティ内の私的テキスト間での相互の情報共有に,そして共有の慣習に結びつく.

 
ここではソシュールの「一般言語学講義」が参照されている.

 

  • 私的テキストは言語的非言語的文脈における公的テキストの積み重ねられた知覚と解釈から人生のコースに沿って発達する.公的テキストの形態はそれぞれの言語で偶然決まった独自の慣習に従う.しかし最初のブートストラップ(これにより私的テキストが公的テキストから情報を得ることができるようになる)には遺伝的なテキストからの鍵になる入力が必要になる.

 
このあたりはチョムスキーによる言語の生得性の主張と関連していそうで面白いところだ.
 

  • 公的テキストは意図された受け手の私的テキストと豊かな連合を呼び起こすようにデザインされている.それはちょうど印象派の絵画において技巧的におかれた点描が鑑賞者の解釈メカニズムを起動させて,(描かれていない)詳細を喚起させることと似ている.
  • 情報の豊かさは受け手の私的テキストにあるのであって,公的テキストにあるのではないのだ.公的テキストは私的テキストのコンテンツへの慣習的なポインターに過ぎない.この公的テキストの誘導的な機能は,コミュニケーションを行う双方が十分に似たような私的テキストを持っている時にうまく働く.そしてその相似性はヒトとしての共通性,共通する体験,1つの言語コミュニティのメンバーシップであること(同じ言語を話さなくてはならない)から来る.話し手は聞き手が公的テキストを話し手がそれを解釈するのと同じように解釈するだろうと予期する.

 
言語が与えてくれる本当の豊かさは脳内の言語(基本的に学習されたものだが,解釈学サークルの問題を解くには生得性コンテンツが必要)というのはなかなか興味深い考察だ.
 

  • 語は他の語を用いて定義される.この文章を書くために私はマジャール語の辞書をランダムに開いて「csendülni」という語を見る.そこには「csendülni」のマジャール語を用いてなされた定義だとおもわれるものが書かれている.「csendülni」という公的テキストは私の私的テキストのどこにもポイントしない.私の心には何の連合も生まれない.もしあなたもマジャール語話者でないのなら.「csendülni」についてあなたが言うことができるものは(私の怪しげな権威を信じて「それはマジャール語の語だ」という以外に)ほとんどないだろう.
  • ほとんどのマジャール語話者はおそらく「csendülni」を会話の中で使うことができるだろう.しかしそれぞれの話者の中の私的な連合は異なるだろう.私の友人であるアパリ・ペーターは「csendülni」の訳として「鈴の音(voice of the bell)」を提案した.一部のマジャール語話者はその語が「本当は」どういう意味かについて明確な意見を持っていて,辞書編集者に「正しい定義」を提案するかもしれない.私は英語の辞書を使っていて,そこにある定義が私の私的テキストの感覚から大きくはなれていることをしばしば経験した.

 
ちなみにGoogleによるとマジャール語(Googleではハンガリー語と表記される)の「csendülni」の意味は日本語で「静かにする」,英語で「to keep quiet」と出てくる.しかし日本語の「静かにする」はマジャール語で「maradj csendben」とされる.(「鈴の音」は「a harangok hangja」とされる)文法や語彙にいろいろ微妙なところがあるようだ.
 

  • この公的テキストは説得のためのものだ.「意味」と「情報」の連合を再アレンジし,あなたがこれらの語をどう解釈し,使うかを変えようとするものだ.そしてこれはこれらの語の「適正な」意味を示そうとするものではない.これはあなたがあなたの私的テキストを参照しながら私の意図を理解できるように説明する試みだ.私の意図はあなたの将来の考えを形作るであろうあなたの私的テキストに抽象的アトラクターを構築しようというものなのだ.

 
そして最後にこのテキストの議論を踏まえて本書の試みの解説がある.なかなか深い.
そして本書はまだ続く.次は「付録への補足」になる