From Darwin to Derrida その209

 
ヘイグの「ダーウィンからデリダまで」.本文完結後,付録(Appendix)があり,そこではテキストには公的テキスト(音声や文字)と私的テキスト(脳内のテキスト)があり,解釈においては後者が重要であることが指摘され,本書自体は読者を説得するための公的テキストであり,説得が奏功すればそれは何らかの形で読者の指摘テキストを変えていくことが述べられていた.そしてこの付録には補足(Supplement to the Appendix)が付加されている.
 

付録への補足

 

  • その使用により性格づけられる道具としての語を考えてみよう.そしてハンマーの使用を,鏨の使用を,正方形の使用を,膠鍋の使用を,そして膠の使用を考えてみよう.

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

 
付録への補足の冒頭で引用文はウィトゲンシュタインの1958年の「Preliminary Studies for the “Physiological Investigations”: Generally Known as the Blue and Brown Books」だ.なおこの青色本・茶色本とはウィトゲンシュタインの1930年代の講義ノートが謄写版で極く少数部数流通したもので,1958年に改めて一冊になって出版されたということのようだ.
 

  

  • ディルタイは説明としての自然科学と理解としての精神科学とを区別した.リクールにとって説明と理解の弁証法は解釈学的サークル(私はあなたが意図していたことを理解している,もしあなたがなぜあなたがそのような行動を取ったかを説明できるなら)だった.
  • 「理解」はしばしば意図の認識を含むものとして使われる.著者は読者の解釈が自分の意図に近いと読者がそのテキストを理解できたと考え,読者の解釈が自分が意図した解釈と大きく異なると誤解されたと考える.読者は著者の意図が認識できたときに,著者の「本音」を理解する.著者と読者はテキストが理解されたかどうかについてしばしば意見を異にする.

 
このあたりは芸術の解釈,理解としてよく議論になるところだ.一般的にはいったん出版された後はある本の解釈は読者が自由に行うことができ,著者の意図が唯一の正統な解釈だとはされないという意見がよく聴かれるところだ.ヘイグの認識もこれに近いだろう.