War and Peace and War:The Rise and Fall of Empires その34

 
ターチンによるローマ帝国の起源.まずエトルリアとローマの間に文化的辺境があり,そこでローマは領域における軍事的強国になった.紀元前5世紀にはいったん循環的な内部抗争期に入ったが,紀元前4世紀に入り循環が一周回るとともにローマはガリアとの真のメタエスニック断層線に直面した.これはローマ内での内部的な抗争の終結,イタリア諸都市の防衛のためのローマへの服従という既決を生み出した.そして同じ論理が帝国の興隆につながったとターチンは説く.
 

第6章 オオカミに生まれつく:ローマの起源 その6

 

  • (文明と野蛮という)メタエスニック辺境の論理はローマのイタリア統一を助けただけでなく,地中海統一にも効いた.紀元前2世紀の終わり頃にはガリアは地中海文明のヨーロッパ辺境における主要な野蛮部族となっていた.西から東までそのプレッシャーは強烈だった.
  • イベリアでは侵入したガリア(ケルト)は現地民族と融合してケルティベリアンとなった.南フランスではマルセイユなどのギリシア植民都市が強く圧迫されていた.北イタリアではガリアの脅威が存続し続けた.バルカンではガリアはドナウ川を下降しながら支配領域を広げ黒海周辺域に達した.紀元前279年にはガリアはマケドニア,ギシリア,トラキアになだれ込んだ.マケドニア人は何とかガリアを押し戻したが,トラキアではガリア系の王国が興った.3部族が小アジアに侵入し,中央アナトリアに地歩を固めた.これはガラリア(ガリアの土地という意味)として知られる.彼等は紀元前3世紀を通じてビチュニアやポントゥスを襲撃した
  • 辺境における小さな文明都市(マルセイユやポントゥス)はローマの保護を求め,後に忠実な同盟都市になり,最終的には(強制的にではなく)帝国に組み込まれた.
  • それから200年ほど続いたガリアとの戦争状態(その最後の一幕はハンニバル戦争とも深く関わっている)はローマの軍事力を増大させた.紀元前387年のローマ略奪はローマ人に協力の重要性を納得させ,長く続いた貴族(パトリキ)と平民(プレブス)の争いは1世代経たずに収束した.またガリアの脅威を感じたイタリア諸民族はローマによる安全保障を求めて進んでローマに従属するようになり,ローマによるイタリア統一,さらに地中海沿岸への拡大を容易にした.

 
ローマ帝国の地中海統一がメタエスニック辺境にあったからだというターチンの議論は少し苦しいだろう.
イタリアを統一したあとのローマの立地はもはや辺境でも何でもない.確かにマルセイユやポントゥスは野蛮民族に圧迫された彼等が自発的にローマに下った結果なのかもしれない.しかし3次にわたるポエニ戦争でカルタゴを屈服させてアフリカに支配地域を広げた経緯はどうなのか.(ターチンが力説するように)イタリア半島におけるハンニバル戦争にはガリアの要素があるのかもしれないが,それ以外は当時の文明地域の強国同士の覇権争いとして捉えるべきものだろう.ピュドナの戦いでマケドニアを打ち破ったのも文明国同士の覇権争いだし,ポンペイウスによるシリア征服,オクタビアヌスによるエジプト征服は文明圏内への拡張戦争だ.カエサルのガリア征服には文明と野蛮の要素があるが,これも略奪されるかどうかという辺境の争いというよりも,領土と権益を求めた(いわゆる帝国主義的な)拡張戦争と見る方が自然だろう.
そしてターチンも(分が悪いと思っているのかはわからないが)このあたりについては非常に簡単にしか語っていない.