ピンカーのハーバード講義「合理性」 その13

ピンカーの合理性講義.全24回が終了したが,講義中にあまり質疑応答の時間を取れなかったということで,第25回には質疑だけに特化した補講が用意されている.題して「何でも聞いて」.講義前の音楽はムーディ・ブルースの「Question」
 
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第24回 何でも聞いて

 

質問1

(質問者)

  • アポロ計画での月着陸やホロコーストの否定論がある.真実を否定するようなグループについてはどう説明するのか?

 
(ピンカー) 

  • ご指摘のような現象についてのヒューリスティックス,バイアスの知見は実は驚くほど少ない.しかしこの問題は今やとても重要になっている.それは私たちの大統領がこのような思考形式にとても親和的だということもあるからだ.
  • また部分的には講義の中で説明している.それは部族主義的なメンバーシップのディスプレイであり,真実かどうかよりも,自分が何者であるか(そのグループに受け入れてもらえるか)の方が重要だという説明だ.
  • この説明に関しては,大きな部族としては右派と左派ということになるが,実はもう1つ分断軸がある.それはエスタブリッシュメントと大衆という軸だ.大衆部族は真実かどうかよりもカオス,ナラティブを好むことになる.
  • この部族主義的説明が当てはまるのは,気候変動や進化などの政治的な色がついた問題だ.

 

  • しかしそうではない陰謀論や真実否定言説も広く信じられている.至近な例では「コロナウイルスは○○によって○○のために開発された人工的なウイルスだ」などがある.
  • 何故このような現象があるのかについてはリサーチを経た確立された知見はない.だからここからは私の仮説,推測だ.

 

  • 私たちは自分の身の周りの現実を自分の生活の前提として持っている.車のガソリンはまだあるか,明日どのようにオフィスに行くか,などの問題は外界の現実とつながっている.この部分では誰しも真実を気にする.
  • しかしそれ以外のゾーンがある.直接自分の生活に関係ないところにはマルチプルなナラティブがある.多くの人はその世界では前提が真実かどうかはあまり気にしない.グループで共有していると集合的神話ということになる.そこでは真実かどうかよりも,面白い話か,道徳的に受け入れられる話かの方が重要だと感じるのだ.
  • そして私やあなたちハーバード生を含むアカデミアの部族はこの点に関して「すべての信念に関してはそれが真実かどうかが重要である」という「ユニバーサルリアリズム」を信奉している.私たちはすべての物事を自分で確かめることはできないから専門家のネットワークを信用する.そしてはるか過去の歴史から宇宙の果ての現象まである話が真実かどうかを気にする.しかしこれは実は心理的には不自然で歴史的には新しい考え方なのだ.
  • 多くの人はそういう風には考えない.良い例は歴史ドラマや映画だ.どんなに史実に基づいたものであっても脚本家は話を盛っているし,台詞はほぼすべて創作だ.でも普通の人はそれでいいのだ.すべて真実かということより「いい話」かどうかの方が重要なのだ.
  • もう1つの例は宗教だ.宗教においてはいろいろなとても信じがたいことを信じるように説かれる.そして信者はそれが文字通りの真実かどうかは実はあまり気にしていないことが多い.モラル的に受け入れられるかの方が重要なのだ.ドーキンスの新無神論の受けが悪いのはここに原因がある.神が実在するかどうかは実はそれほど信者にとっての重要な論点ではないのだ.彼等の関心はモラル,存在論,コズミックなところにあって,それは神話やお話しに近いのだ.
  • これが私の推測だ.トランプがあんなに嘘ばかり言っても大して支持率が落ちないのもここに原因があるのだと思う.

 

質問2

(質問者)

  • 世の中にはいろいろな人がいて,時に事実の主張について間違っている人もいる.しかしその人に「事実は違いますよ」と伝えても,しばしば「私はあなたのその指摘に傷ついた,謝罪せよ」という風に反応される.そういう場合に単に謝る方がいいのか,いや私は事実を指摘しただけであなたを攻撃したのではないと頑張る方がいいのか

 
(ピンカー)

  • 事実を伝えただけなら謝るべきではないと思う.特に大学内ではそうだ.
  • そして単に謝るという対応をとると相手の敵意を強めてしまうというリサーチもある.

 

質問3

(質問者)

  • 私は女性がSTEM部門に少ないのは性差別の結果かということについて興味がある.そしてリサーチを調べると,確かに空間把握能力などでは性差があるという知見を得ることができる.しかしそのような知見はこの問題については,(差別が原因だという論者には)全く受け入れられないように見受けられる.こういうことについてどう考えればいいのか.

 
(ピンカー)

  • 一般的に認知科学の知見を確立させるのは非常に難しい.それはヒトの反応がノイジーでアンケート調査にはいろいろ問題が生じやすいからだ.
  • こういう問題にはメタアナリシスが重要だ.そして良いメタアナリシスは単にこの問題については51%が支持で49%が不支持だというだけでなく,なぜこの違いが生じるのか,この問題がどのように複雑なのか,見落とされている可能性のある要因は何かにまで踏み込んでいる.

 

  • そしてこの性差別問題に関しては確かに政治的な含みがある.そしてまさにこのハーバードで15年前に総長ラリー・サマーズ辞任事件が起こった.また最近もGoogleメモ事件が起こっている.両方のケースでサマーズもダモアもメンタルローテーションで性差がある,職業選好に性差がある,分散が男性の方が大きいなどというかなり確立している知見に基づいた意見を述べただけだが,大騒ぎになった.
  • この問題について.まず押さえておくべきことは,性差があるものについても男女の重なりは大きいということ,そして女性の方が優秀であると認められている能力も多いということだ.
  • そのうえでこの地雷原の上を綱渡りしようとするなら,「なんらかの差別を正当化しようとするものではないこと」「男女の能力や選好についてのクリアーな知見を得ようとしているだけであること」を強調することを勧める.

 

質問4

(質問者)

  • 私は大きなイベントを経たヒトの行動の変化に興味がある.産業構造の変革とか911の前後とかだ.今回のコロナウイルスのパンデミックを経てヒトの行動はどう変わると思うか

 
(ピンカー)

  • 今まさにその最中なので予測は難しい.911のときになされた社会の変容についての予測の多くは極度に誇張されたものであったことがあとでわかった.例えば本社に機能を集中させるのはテロの標的になりやすいので,企業は本社を持つのをやめるだろうとかの予測は皆外れ,多くはノーマルに戻っていった.もちろん空港などのセキュリティは少し厳しくなったが.
  • アメリカでは大災害のあとは,それに対応した動きがあるのが普通だ.911のときは国土安全保障省が新設された.30年代40年代に都市の大火災が相次いだときには消防の組織や危機設備が整備された.
  • 今回も同じことが起こるだろう.次のパンデミックに備えて早期探知システム,対応するためのネットワーク,個人予防手法の開発,薬やワクチンの早期対応体制の整備などだ.

 

  • この講義との関係でいえば,リスク認知と利用可能性バイアスが関連する.利用可能性バイアスがあると,リスクがイメージできればその認知が上がり,イメージできないと認知が下がる.これはアジア諸国がアメリカやヨーロッパ諸国より上手くできている1つの要因ではないかと思っている.彼等はSARSによって今回のコロナの危険性をよりイメージできたのだろう.いずれにせよより良いパンデミックへの体制が整備されることを望んでいる.

 

  • 行動変容という点では今まさに私たちがやっていることをどう考えるかだ.つまりこれまでフェイストゥーフェイスのミーティングが重要だとされていて,多くの人は飛行機や自動車で物理的に移動して会議や商談や講義を行ってきた.しかし今回それができなくなり,やむを得ずにZoomなどで面談するようになった.そしたら実はフェイストゥーフェイスは多くの場面で不要だったのではないかという認識を皆が持つようになってきている.
  • もちろん今すぐにすべてが置き換わるわけではないだろう.しかしEメールが物理的な手紙に,オンラインメディアが既往メディアに,ストリーミングが映画館に与えたような影響は出てくるだろうと思っている.多くの面談はオンラインに移行するだろう.

 

  • グローバル化やジャストインタイムのサプライチェーンがどうなるかが議論されている.この点に関して私は大きな変化が生じるという意見には懐疑的だ.グローバル化はものすごく大きな基盤的な動きだ.そう簡単に動きを変えることはない.そして国際貿易には引き続きものすごい利点があるし,パンデミックへの対応自体に国際協力は不可欠だ.サプライチェーンも大きく変化して巨大倉庫や高い在庫水準が基本になるという意見にも懐疑的だ.ただいずれにしてもこの手の予測は難しい.

 
(質問者)

  • ミーティングについてはコロナが既にあった動きを加速したという理解か

 
(ピンカー)

  • そうだ.テレカンファレンスは増えつつあった.そして今回のコロナウイルスはこの動きを加速するだろう.皆が今回やむなくオンライン面談をやってみたら,多くの面談はこれでこなせることがわかってきた.ただどこまで置き換わるかの予測は難しい.私は「多く」の面談がオンラインに移行するだろうという言い方に止めておく.

 

質問5

(質問者)

  • 講義でモアウェッジはバイアスを訓練により克服できると主張していたが,それはどこまで信頼できると思うか

 
(ピンカー)

  • あそこで主張されていたのは訓練で違いが生じるということで,それは信頼できる.
  • ではどこまでバイアスを克服できるのかというのは別の話だ.モアウェッジはカーネマン自身がバイアス克服には悲観的だったと紹介している.
  • しかしカーネマンはほとんどの人はシステム2も使うことができると指摘している.誤謬が生じやすい環境のキューに目を配り,見つけたら意識的に誤謬の補正するように努力する事はできる.これはバイアス自信をなくすわけではないが補正を賭けられるということだ.
  • 長年にわたり「相関と因果に気をつけよう」とか「逸話だけで飛びつかずにデータをみよう」とか訓練していれば違ってくる.そしてどのようにすればバイアスを補正できるかの方法を知っていることも役に立つだろう.私は小学校の時から訓練をすればいいのではないかと思っている.

 

質問6

(質問者)

  • 自己意思,自制というのは本当にあるのか.例えば体重を減らしたいが,「自分に体重を減らすことはできない」と信じているような人は自己意思があると言えるのだろうか

 
(ピンカー)

  • まず,ヒトは自制の能力を持っている.それは前頭前野から辺縁系に至る脳内のネットワークとしても解明されているし,実際にヒトは様々な欲望を抑えることができ,それは人生の成功と相関していることが知られている.
  • しかしそれは無限ではない.肥満に関していえば,肥満しているからといって自制能力がないわけではない.ヒトには体重のセットポイントがあり,そして各人の自制能力はレンジを持っている.そして各時点でレンジの中で自制能力を発揮し,セットポイントから上下するというのが実情だろう.
  • 講義との関連でいうと,短期的な割引率の問題から逃れる方法としては自制よりもオデュッセウス的な方法の方が効果的だ.我慢して自制するのではなく,事前に環境を操作してその時点で欲望を満たすことを不可能にするのだ.

 

質問7

(質問者)

  • この自制能力を改善することはできるか

 
(ピンカー)

  • いい質問だ.この問題には2つの次元がある
  • 1つは人は将来の期待についてそれぞれ異なるマインドセットを持っているということだ.期待が高い人はより達成が難しい将来の希望を持ち,それに必要な自制能力の水準が異なってしまう.
  • もう1つは訓練による改善が可能かという問題だ.これはバウマイスターのリサーチが有名で,彼は自制能力は筋肉と同じように訓練で改善できるし,使い続けると疲労で能力が下がると主張した.この主張の是非には議論がある.私は訓練による改善はありそうなことだと思っている.

 

質問8

(質問者)

  • 講義では政治的バイアスと部族主義の話があった.現在政治的な分極化が進んでいる.私の祖父は保守派だったが,いろいろな論点について有意義な議論ができた.しかし今は学校内でそういう議論を行うのは難しくなっている.合理性を使うとして,どのように政治的に意見を異にする人達に対応すればいいのだろうか

 
(ピンカー)

  • それはまさに「the question of this era」だ.私が証明された効果的な方法を知っていればなあと思う.
  • とはいえ,いつもうまくいくとは限らないが時にはうまくいく方法はいくつか示唆されている.
  • まず同じ場所にいて共通の問題の解決をしなければならなくなると部族主義が減退することが知られている.
  • また議論する際に,相手をデモナイズしない,道徳と絡めて人格攻撃をしないことはとても重要だ.
  • 分断が何故あるかを理解することも役に立つ.これは教育程度により住居地区と職業選択が分断されていることが大きな要因になっている.過去はこの分断を埋める環境(徴兵制による軍隊経験,ライオンズクラブのような組織)があったが,それが失われている.
  • 議論において何故そう思うのかの理由やデータの有無の確認も役に立つ.ただし都合の良い証拠のチェリーピックで論争がさらに燃え上がることもあるので注意が必要だが.
  • そして部族的シンボルにはとりわけ注意すべきだ.いい例は気候変動だ.アル・ゴアはこれについて明確な意見を述べたが,政治的な色彩を問題に与えてしまったともいえる.あまり合理的とはいえないかもしれないが,右派の気候変動問題に関心のある人々を取り込むことも役にたつだろう.
  • 気候変動については気候変動自体ではなくプログラムの是非を議論するのが有効だろう.炭素税や原発やいろいろな提案があるが,そのどれがいいかを議論するのだ.それは問題を協力して解決しようという方向につながる.

 

質問9

(質問者)

  • トランプの当選予想の時に明らかになったが,ヒトはアンケートの正直に答えないことがあるが,この問題にはどうすればいいのか

 
(ピンカー)

  • アンケート調査への回答の信頼性は社会科学の大きな問題の1つだ.
  • これは回答が社会的望ましさに関連するときに問題になる.そしてアンケートの中にそういうの(例えば嘘をついたことがある)が1つでも混じっていて,それに不正直に回答すると,そのあとのアンケート回答の正直度が下がってしまうという問題につながる.
  • いくつかの対策はある.匿名性,他の人がどう回答するかの予測も合わせて答えてもらって補正するなどだ.
  • ダヴィドウィッツはGoogleのサーチデータを使ってこの問題を回避した.ゲイについてや人種差別についてなどの実態把握を行ったのだ.
  • いずれにせよこの問題は残る.

 
(質問者)

  • Googleなどのデータを使うのはプライバシーのような問題があるのではないか

 
(ピンカー)

  • プライバシーの問題と,サーチリザルトが副作用的な影響を与えるという問題がある.プライバシーに関してはダヴィドウィッツは匿名化されたデータを用いている.
  • この問題は私企業と政府,言論の自由とも絡み複雑だ.

 
以上で補講も含めたピンカーの講義は終了だ.半年分の講義を短時間で受講できて大変楽しかった.
 

<完>

ピンカーのハーバード講義「合理性」 その12

ピンカーの合理性講義.第23回は効果的利他主義,第24回はこのコース全体の締めくくりの最終講義で,合理性で人生や世界をよくすることはできるのかというテーマが扱われている.
 
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第23回 効果的利他主義

ピンカーの合理性講義..第23回は「効果的利他主義」.ゲストレクチャラーはウィル・マカスキル.
ピンカーから今回のテーマについてモラルを進めるという実践においてどのように合理性を用いるかということだと説明がある.レクチャラーについては功利主義道徳哲学者のピーター・シンガーに大きく影響を受け,「効果的利他主義」の提唱者の1人であり,その実践である80000hoursのコファウンダーであるとも紹介される.講義前の音楽はレオナード・コーエンの「The Future」
 

マカスキルの講義 「我々は未来に何を託すのか」
  • 今日は私たちは時間や資源を未来のためにどう使うべきかという話をしたい.そして私は「超長期主義(Longertermism)」に立ち,その擁護を行いたい.超長期主義とは「最も良いことをしたいならそれは非常に長期的な将来の社会にとって最も良いことをすべきだ」という考え方だ.順番に議論していく.

 

  • (1)将来の人々のことは勘定に入れるべきだ:良いことや悪いことの評価は,その結果が他の人にとっていつ生じるかとは独立になされるべきだ.いつのことかは良いか悪いかにとって本質的な問題ではないはずだ.
  • (2)将来には(過去に比べても,現在と比べても)ものすごく多くの人がいるだろう:(グラフを示しながら)ヒトの歴史を20年前としてみるとここ数百年で大きく増加している.そしてヒト種の将来を考えると何千年か,何百万年か,何十億年か,どれをとっても過去とも現在とも桁外れの人が存在することが期待できる.つまり人々の幸福を考えるなら将来が圧倒的に重要なのだ.
  • (3)将来の人々は(現時点の行動や判断に)関与できない.彼等には選択権も意思表明権も与えられていない.そしてモラルサークルは家族や村→国家→世界と広がってきたが,さらに→すべての世代の人々に広げていくべきだ,
  • (4)そして私たちは今非常に長期的な将来に影響を与える方法を持っている.たとえわずかな力でも遠い将来には途方もない大きな影響になる(大きな船に対してごく小さな力を与えてもヨーロッパから出航した船の到着地を北アメリカから南アメリカに変えることができる)

 

  • 将来への大きな影響について,特に回復不可能な影響を中心にいくつか考えてみよう.

 

  • (1)気候変動:温暖化ガスの影響は排出後長期的に影響が残る.そしてそれにより回復不可能な影響が生じる.例えば種の絶滅,珊瑚礁の消滅,氷床の消滅と海面上昇,経済成長率への影響(温暖化が生じてしまったあとの下押し影響)

 

  • (2)文明の崩壊:私たちの現在の行動によって文明が崩壊する可能性が上下する.その1つは戦争だ.核兵器の開発により人類の持つ破壊力は格段に上がった.大国同士の戦争は文明の崩壊を招きうる.キューバ危機は乗り越えられたが,ケネディは核戦争になる確率を1/3程度覚悟していたという.もう1つは(今まさに関心が深まっている)パンデミックだ.過去のパンデミックに人口の数割を死に至らしめたものは存在する.進化的には病原体の進化はホストを殺すような方向には向きにくいとされているが,人工的に開発されたならその限りではないかもしれない.そして今生命技術はものすごい速度で進展している.
  • 一旦文明の崩壊が生じたら,人々は前文明的な生活を余儀なくされ,壊滅的に人口が減るだろう.それはローマ帝国崩壊後の人口推移を見ると想像できる.

 

  • (3)価値観の変更:価値観の変化は将来に大きな影響をもたらしうる.モラル基準は変化してきていることが知られているが,時に価値観は非常に長く影響が残る.たとえば今でもベストセラー1位の本は聖書だ.また影響は多方面にわたることがある.数百年以上前の鋤の利用の有無が現在の女性の分業の少なさと相関している例,アフリカで奴隷狩りが多かった地域が現在でも社会的信頼が低く1人あたりのGDPが低い例,インドで忠誠に交易が盛んだった都市は現在でもヒンドゥー・イスラム間のコンフリクトが少ない例などがある.
  • 私が(個人的に考える)将来にとって重要と思われる価値には,コスモポリタニズム,ヒトの厚生以外への関心,功利主義,リベラリズム,そして超長期主義がある.

 

  • では私たちはどうすべきか.それを考えているのが 80000hours プロジェクトだ.この名前は人生で何かに費やせる時間から付けた.今進めているのは,グローバルの中での優先順位付け,パンデミックへの準備(これは現在追い風になっている),AIのセイフティと政策利用,運動のモメンタム作りだ.興味がある方はサイトを訪問して欲しい.

 

ピンカーとの質疑応答

 

  • ピンカー:この効果的利他主義の運動は効果的慈善の考え方にインスパイアされて始まったもので,基本的にモラルサークルを将来世代の人々まで広げようという運動だと捉まえている.ここで将来世代まで広げることの1つの議論のポイントは,彼等はまだ実在せず,いわば仮想的な存在に過ぎないということだ.そしてこのような仮想的存在まで考えるということになると,私たちは可能な限り子を作るべきだということにならないのか,中絶論争でプロライフに立つことになるのではないか.
  • マカスキル:基本的にいつの問題かを区別する立場は擁護できないと思っている.

 

  • ピンカー:私が提起している問題は,「いつ」ということではなく「もし」の問題だというものだ.私は中流以上の収入がある大学教授だ,子どもを何人か作っても皆それなりに幸せな人生を歩めるだろう.私は子どもを作るべきだったのか(ピンカーには子どもがいない)
  • マカスキル:もしという問題でも,選択の結果どちらの世界がより良いかという比較はできる.皆幸せな人生が期待できるなら子どもが生まれた世界の方が良かったという主張は可能だ.しかしそうすべきかどうかは別の問題だ.それには皆がそうしたときに文明が維持可能かという問題をしっかり考える必要があるからだ.

 

  • ピンカー:次に超長期主義についての質問がある.将来の予測は先に行くほど指数関数的に難しくなる.それは可能性分岐がそれぞれに増えていくからだ.テトロックもスーパー予測者でも5年以上の予測は難しいといっている.特に人類存在のリスクは予測が困難だ.これまでも様々な予測が大外れだった.70年代には人口爆発と原油枯渇と世界的飢饉が懸念されていた.60年代には自殺の増加が,911直後にはテロリズムが懸念されていた.テクノロジーの予測はとりわけ外れやすい.また議論していた気候変動や核戦争はある意味それほど遠い将来の話ではないともいえる.このあたりはどうか
  • マカスキル:まず最初にテトロックはすべての予測が5年以上無理だといっているわけではないことは指摘しておきたい.5年を越える有効な予測ができる分野もあるのだ.
  • ご質問は「超長期の予測は難しく,それに意味はあるか」ということになると思う.しかし予測の難しさは問題による.「1億年後太陽はまだ地球を飲み込んではいない」という予測は信頼できる.片方でとても困難な予測もある.大国間の戦争が生じるかどうかは誰にもわからない.だからある程度容易に行える予測がある分野に焦点を絞るべきだ.希少種の絶滅が心配され,それにより人類がどのような影響を受けるかなど.
  • 60年代からの様々な予測が大外れだったという指摘があったが,これに対する正しい反応は,もっとリサーチをすべきだということだと思う.要約すると,超長期予測ができるものもあり,予測には注力していくべきだということになる.

 

  • ピンカー:基本的に効果的利他主義は合理的選択理論として期待効用を用いるのだと思う.ここで,確率が非常に小さいが,影響が巨大な問題をどう扱うかという問題がある.例えばサンクトペテルブルクパラドクスを考えると,指数関数的に確率が下がり,ベネフィットが指数関数的に上昇するような現象は期待効用で捌くのが難しいことを示している.具体的な問題でいうと「ペーパークリップを効率的に作るためのAIが我々を邪魔者と認識して人類を滅ぼすのではないか」というようなリスクにまともに対処するのかという問題になる.
  • マカスキル:これは難しい問題.誰も満足のいく答えを見つけていない.私の立場は,シートベルトをする,選挙に行くという程度の100万分の1クラスの問題には対応し,ペーパークリップAIのような1兆×1兆×1兆分の1のような問題は無視するというものだ.

 

  • ピンカー:効果的利他主義は効果的慈善運動にインスパイアされた.効果的慈善の考え方にとってヒトの心理にあるアカウント効果はどう考えるべきものになるか.私はいろいろな慈善とは別にテディベアコップス(https://www.teddybearcop.com)にも寄付している.これは私の中では慈善とは別のアカウントにあるものだ.
  • マカスキル:効果的慈善の考え方では,まず寄付の総額を決め,そこから効果的な募金に配分していくというものになる.効果的利他的寄付のファンドとは別にテディベア寄付のような少し楽しい寄付のファンドがあってもいいということかもしれない.

 

  • ピンカー:動物の権利との関係では効果的利他主義はどう考えるのか.農場の家畜の厚生を考えるなら我々は皆ベジタリアンになるべきか.あるいはロビイイングに注力すべきか.
  • マカスキル:ベジタリアンになるより,企業向けロビイングに寄付する方がはるかに効果的だ.もちろん両方やってもいいが.

 

  • ピンカー:(途上国の労働者の構成を考える)フェアトレード商品の購入やボイコット運動は効率的でないと主張されているが,説明して欲しい.
  • マカスキル:フェアトレード商品をより購入しても,実は現地労働者のためにはあまりならないというリサーチ結果がある.サラリーはこれによりほとんど影響を受けない.ボイコットについてはそれを買うのをやめるとして代替品に何を買うかという問題がある.多くの場合代替品を購入すると問題は解決されない.

 
 

第24回 「合理的人生,合理的世界」

ピンカーの合理性講義も最終回.これまでの講義で合理性を説明してきたが,では合理性を用いて個人の人生や世界はよくなるのかということがテーマ.また後半では前回に引き続き効果的利他主義運動を行っている2人のゲストが招かれて短いプレゼンをしている.講義前の音楽はビートルズの「Getting better」.

  • 本日は最終回.ここまで講義してきた合理性を用いて人生や世界をよくすることができるのかを取り上げよう.

 

合理性と人生
  • まず逸話的な事例を挙げよう.世の中には非合理性による人生の不幸の事例があふれている.
  • ギャンブラー誤謬(vs期待効用理論):サイコロの次の眼を予測できるという幻想は(期待値がマイナスの)賭博に入り浸ることにつながるだろう.それは長期的なロスにつながる.
  • 自信過剰:新規開店のレストランの半数は3年以内に閉店する
  • ベースレート無視:稀な病気の診断が陽性になった時に,この非合理性は不要な手術につながりやすい.
  • 利用可能性バイアス:911事件のあと自動車で長距離移動する人が増えた.これにより1500人以上が余計に死亡したと推測されている.
  • 条件付き確率の誤謬:これはしばしば冤罪につながっている.(例:同じ家庭で続け様にSIDSで子どもが死ぬ確率は70百万分の1だという検察官の追求で有罪になったケースの説明)
  • 相関と因果の混同:いかさま薬剤に引っかかる.
  • 臨床的判断(エキスパートの直観的判断)と保険数理的判断(統計分析を用いた判断):多くの人がインデックスファンドに平均的に劣るアクティブ株式ファンドを購入する.
  • サンクコスト誤謬:つまらない映画を途中退場できずに時間を無駄にしてしまう.
  • 双曲割引:退職後の貯蓄不足を招く.

 

  • これらはいずれもアネクドータルなものだ.では非合理性が悪い人生に結びつく実証的な証拠はあるのだろうか.
  • それを示す格好のスタディがある.ブルインドブルアン,パーカー,フィショフによる2007年のものだ.
  • 彼等は700人に対してアンケート調査を行い,意思決定コンピテンスインデックス,意思決定スタイル,意思決定の結果,そしてそれらの相関を調べた.順番に説明しよう.

 

  • (1)意思決定コンピテンスインデックス(どのぐらいバイアスに弱いか)
  • アンケートを用いてフレーミング(アジア疫病問題を生物種の絶滅に置き換えて質問),自信過剰(様々な問題の解答と自分回答の主観的正答確率を答えさせて,その符合を見る),意思決定ルールの使用傾向,リスク認識の一貫性(数多くの質問の中に「自分がここから1年間で自動車事故を起こす確率は」「自分がここから1年で事故を起こさない確率は」というのを混ぜておき,その一貫性を見る),サンクコスト耐性(食後のデザートを注文し,一口喰ってからやはり健康に悪いと思ったら,食べるのをやめるか)を測定した.

 

  • (2)意思決定スタイル(意思決定がどこまで合理的か)
  • アンケートで「自分は物事をどこまで合理的に決めようとするか」,後悔「人生で機会を逃してしまったと何度も振り返るようなことがあるか」,満足か最適化か「今観ている番組を楽しんでいてもチャンネルサーフをするか」,建設的思考「間違いに気づいたら,すぐに修正に入るか」,合理的意思決定の評価「意思決定をいつもロジカルにシステマティックに行っているか」などを尋ね,どこまで合理的かを評価する.

 

  • (3)意思決定の結果(バイアスによりどれだけ人生をだめにしたか)
  • アンケートで「休校処分を受けたことがあるか」「職について1週間以内にやめたことはあるか」「離婚したことがあるか」「性病と診断されたことがあるか」「望まない妊娠をしたことがあるか」「飲酒して吐いたことがあるか」「飲酒運転で捕まったことがあるか」などを尋ねる.

 

  • <結果>
  • 意思決定コンピテンスインデックスの7つの項目はすべて互いに相関していた.これはこのインデックスに実態があることを示唆している.これは誤謬を避ける能力であり,IQと相関する.
  • このインデックスは意思決定スタイルとも相関していた.
  • そしてこのインデックスは意思決定の結果とも相関していた.誤謬を避ける能力は人生をだめにする出来事の少なさと相関するのだ.
  • もちろん相関は因果とは限らない.
  • しかし,この相関はIQをコントロールしても,社会経済状況をコントロールしても,意思決定スタイルをコントロールしても残った.(部分相関係数はそれぞれ0.26,0.20,0.14)
  • 結論はyesだ.合理性を用いてバイアスとエラーを避けることはより良い人生と相関し,おそらく因果もあるのだ.

 

合理性と世界
  • では世界はどうなのか.
  • 歴史的な進歩は実証的な事実だ.寿命,健康,経済,安全などの指標を組み合わせたウェルビーイング指標が2種類提案されているが,どちらも歴史的に右肩上がりになっている.
  • ではこの進歩は「a “thing”」なのか? (訳し方は難しいが,人の努力とは関係なくそこに存在するのかということで,「進歩は(黙っていても享受できる)不可避の法則なのか?」ぐらいの意味だと思われる)
  • そうではない!
  • 自然法則は人類のウェルビーイングには無関心だ.そして時には敵対的だ.熱力学の第二法則は放っておくとすべてが壊れることを意味しているし,進化は病原体や捕食者にも生じる.そしてヒトの進化自体,個人個人の幸福のためではなく繁殖成功を上げるように進むのだ.

 

  • そうではなく,ヒトの歴史的な進歩は合理性を用いてきた成果だと考えるべきだ.すべての進歩は良いアイデアにより押し進められてきたのだ.その例を見てみよう.

(ここから「21世紀の啓蒙」で描かれた人類の進歩のグラフが次々に示され,解説される)
 

 

  • 平均寿命は18世紀には30歳台だったが,現在は70歳台(先進国では80歳ぐらい)に伸びている.この背景には公衆衛生(上水道,下水道,ワクチン,手洗いなど),医療(抗生物質,防腐剤,輸血,麻酔など)のアイデアがある.
  • 飢饉も減った.この背景のアイデアは,農学(輪作,鋤,種まき機など),合成肥料,機械化(トラクター,ハーベスターなど),輸送貯蔵技術,そして緑の革命だ.
  • 貧困も減った.背景のアイデアはテクノロジー(産業革命,大量生産,輸送技術),制度(銀行,保険,貿易),政府(契約強制,暴力と詐欺の取り締まり,中央銀行,インフラ,リサーチ),そして普通教育だ.
  • 戦争による死者も減少した.背景のアイデアは,カントの永遠の平和について,民主制,交易,国際機関,戦争の違法化と国境の固定化などだ.
  • 殺人も減った.背景のアイデアは政府(アナーキーからの移行),警察,紛争解決システム(抑止戦略としての復讐や名誉の防衛を不要にし法律を整備する)などだ.
  • 汚染も減った(温暖化ガスは例外になる).背景のアイデアは規制,環境保護,そしてテクノロジーだ.
  • 奴隷制の廃止は進んだ.背景のアイデアは視点の交換,モラルサークルの拡大だ.
  • 差別も減少している.(トーマス・ジェファーソン,キング牧師の有名な言葉が紹介される)

 

  • では合理性が世界を進歩させたと実証はできるのか
  • ある程度は
  • 交差時間差相関分析を用いて,教育の上昇が,時間差を持って各種の進歩に相関しているかが調べられている.
  • それによるとGDP,健康,長寿,平和,民主制,リベラリズムはすべて時間差を持って上昇している.

 

で,どうすべきか
  • で,あなたはどうすべきか.ここで効果的利他主義運動を推進している2人(エリック・ガストフレンドとジュリア・ワイズ)から話を聞こう.

 

エリック・ガストフレンドからのプレゼン

 

  • 効果的に世界にとって良いことをするにはどうすれば良いか.
  • 効果的利他主義の立場からは,自分のリソースから見てなにが世界にとって最適かを考えることになる.様々な良いことを比較して最もコスト効率が良いものを選ぶことになる.
  • 我々はあなたが持つすべてのリソースを今すぐすべて利他主義行動につぎ込むべきだという立場はとらない(これについては後にジュリア・ワイズから説明がある)

 

  • 最適化はどのように行うべきか.
  • リサーチによると,効率的に寄付を行いたいと考えている人は寄付を行う人の85%,さらにどの寄付先が効率的かを実際に調べる人は32%,そして最適パフォーマンスになるように実際に寄付する人は3%しかいない.
  • その結果,誰が資金を最も必要としているのかはしばしば見過ごされている(いろいろな疾病の死者数と飢饉の金額がアンバランスになっていることがグラフで示されている.心臓病やCOPDは死者が多いにもかかわらず基金は少なく,乳癌,ALSなどは死者に比べて桁違いに寄付が集まっている)

 

  • 効果的利他主義はいくつかの原則を持つ.
  • (1)合理性:感情ではなく,頭を使い,数量を見る.(リサーチによるとタンカーの油汚染から鳥を救うためにいくら払うかというアンケートでは,鳥の数が2000羽でも20万羽でもほとんど変わらない)
  • (2)コスモポリタニズム:人種,性別,性的指向,民族,国籍で扱いを変えない.すべての命は平等だと考える.
  • (3)反事実条件法による推論:プログラムなしではなにが起こるかとの差を考える.これは因果を見ようということだ.単一の例で判断しない,選択バイアスに陥らない,などに気をつけ,できるだけランダムサンプル(あるいは諸条件をコントロールした中)でのテストを行う.しばしばプログラムは予期しない副作用を持つのだ.(犯罪を減少させるために,少年達に監獄がどんなにひどいところかを教えるというプログラムは,実は犯罪を増加させることが明らかになっている)
  • (4)コスト効率:同じ金額で何人救えるかを考える.盲人への支援を考えると,4万ドルで1頭の盲導犬を訓練できる.しかし同じ金額で糸状虫症の治療を行うと400人救え,白内障やトラコーマの手術を行うと1000人救えるのだ.
  • (5)優先順位を付ける:基本的にスケールが大きく,無視されている問題,効果が期待できる問題にフォーカスする.典型的にはドラッグ,アルコール問題がある.

 

ジュリア・ワイズからのプレゼン

 

  • 子供の頃世界には飢えて死ぬ子どももいるときいて衝撃を受けてこの道に進んだ.
  • 効果的利他主義を実践するに当たって,今ある自分のリソースを今すぐすべて寄付するべきかというのは重要な問題.これに対しては長期的に最も効率的に行動できる方法は何か(今全部つぎ込んでも長続きしない)と考えることが大切だ.
  • そして実践することも大切だ.昔功利主義の学会に出たことがあるが,皆功利主義の歴史だとか抽象的な問題ばかり議論していて今なにをすべきかを議論する場ではなかった.しかし現実の中で今なにをすべきかが重要だ.
  • では実際に今どうすべきか.私たちは一定の予算配分をすることを進めている.毎日2ドルのキャンディを買うたびに実は寄付に回した方が良かったのかと悩むのは効率的ではないし,長続きもしない.収入の1割とか,年間いくらとか.はじめは何でも良い.それでなお寄付ができるようなら少し割合や金額を上げれば良いし,きついのなら下げれば良い.
  • この予算化は時間についても同じだ.人生すべての時間の中でどのぐらいを慈善に当てるかを決めていけば良い.

 

ピンカーからの結語

 

  • 合理性についての講義は以上になる.私は大学で講義を受け持つようになって40年になるが,今回の講義は特別に感慨深い.
  • 1つはまさに100年に1度のパンデミックに遭遇したということがある.そしてこれに対しても人類は合理性を持って対処すべきだ.実際に様々な感染予防策の策定,ワクチンの開発などに際しては合理性が使われている.大学の講義もそうだ.IT技術を用いていろいろなやり方を試している.
  • そしてもう1つはこの講義を通じて多くの素晴らしい人に出会えたことだ.ティーチングスタッフ,そしてゲストレクチャラー皆に感謝したい.あなたたち学生との交流も楽しかった.
  • この講義では私が認知科学者として40年研究してきた中で最も重要なアイデアである「合理性」を扱った.そこにはいろいろなパズルがある.合理性とは何か,何故それは不足しているように見えるのか,どうすればもっと合理的に振る舞えるのか.そしてそれは「ヒトは合理性を使って多くのことを達成してきたが,同時に時に非常に非合理的に行動する」というパラドクスにつながる.
  • あなたたちが,自分たちの認知の限界を理解し,合理性のツールの使い方をマスターし,より深い知恵を身につけ,それを使って世界の不幸を減らすことを期待する.そして成功し,満足できる理性的人生を送られんことを.

 
以上でピンカーの講義は終了だ.前々回でシンガーのかなりどぎつい効果的利他主義を紹介しておいて,この2回はややマイルドで実践可能性も考えた効果的利他主義(そしてこれはグリーンの立場に近いだろう)をレクチャーするという形になっている.我々はヒトの本性として様々な選好を強く持っているので,それを前提として実践可能性を考えることは重要だということだろう.

書評 「モノ申す人類学」

モノ申す人類学

モノ申す人類学

 
本書は長谷川眞理子による毎日新聞の「時代の嵐」コラムをまとめたエッセイ集になる.ある程度トピックごとに章をたててまとめ,一部書き足りなかったところについての補足も収められている.進化環境に適応して形成されたヒトの心のあり方と現代社会・現代文化のミスマッチというのが全編を通じて流れる通奏低音的テーマになる.著者はまえがきで2016年にこのコラムを執筆し始めたときには,ヒトの心理について狩猟採集民としての生活に適応した進化心理をメインに考えていたが,現在は文化進化の変容の速さがヒト心理に与える影響がずっと重要だと見積もっているとコメントしている.なかなか興味深い.
 

第1章 進化からヒトを見る

 
第1章は現代の科学技術がいかに人類進化史的に見て新しい次元の大変化であるかがテーマになる.ヒトの脳や心理は過去20万年で形成されてきたこと,典型的な現代環境とのミスマッチの例としてダイエットの難しさがあること,進化環境では食材の調達や下ごしらえが大変であったため食事は基本的に皆で集まって行う社会行動だったこと,ヒトのみが全世界に広がっていることを可能にしたのは文化の力だが,そもそも広がっていったのは好奇心の要因が大きかっただろうことなどが語られている.
ここで「ジェンダーについて思うこと」という一節があり,著者の世代のフェミニストはボーヴォワールの「第二の性」を聖典としてきており,そこには共感できる論点があるにしても(行動生態を研究するものとしては)なんともぬぐい去れない違和感があったことが書かれている.オスとメスは基本的に最適戦略が異なり,ヒトの男性と女性も10億年以上の有性生殖の進化史を背負っている.それを無視してここ数百年の文化的なジェンダー概念だけで男女差別を論じることには違和感が残るということだ.そして生物学的な性差とその理由を理解することが男女の平等や働き方や子育て支援政策を考える上での基本ではないかと主張している.おそらくこれが新聞のコラムになったときにはいろいろな反論や批判があったのだろう.ここで補遺が収録されている.自身女性でもある行動生態学者である著者のフェミニズムに関してのよく練られた説明なので簡単に紹介しておこう.

  • 進化生物学は生物学的な性差とその進化的な理由を明らかにしてきた.だから私はヒトの性差についても単に文化的な社会的概念が作った副産物に過ぎないとは思っていない.
  • しかしそれは「性差は生物学的に決定されている」とか「性差別は当然」と主張するものではない.
  • 生物学的な性差は栄養を持たず莫大な数の精子を生産するオスと栄養をつけて数が限定される卵を作るメスが繁殖成功度を上げるために採る戦略が異なっていることに由来する.
  • 哺乳類はメスが卵の栄養だけ投資するわけでなく,子を胎内で育て,出産後一定期間授乳するので,より両性間の戦略の差は大きくなる.
  • ここで「戦略の差」といっている意味は,これは条件依存的であり性差が固定されているわけではないということだ.ヒトの女性が果たしてきた妊娠,出産,授乳という仕事が人工的なプロセスに置き換えられれば女性が採ることのできる戦略の幅は増大するに違いない.そしてこれまでの社会と技術はある程度そのような女性の負担を軽減するように進展してきた.もちろん完全に人工的に置き換えらるようにはなっていないし,それが好ましいことかどうかはよく考える必要がある.
  • 男性は繁殖にかけるコストが小さかったので,繁殖以外の行動にエネルギーをよりつぎ込んできた.そして社会において権力を握ってきたので,歴史的経緯から基本的に社会は(現代であっても)男性の都合の良いように作られている.暮らし方,働き方そのものが繁殖コストの少ない個体がやることを基本に設計されているのだ.
  • 女性が妊娠,出産,授乳をより負担することがヒトにとって重要だと考えるならば,その違いを認識した上で男女の平等を実現する方策を考えねばならない.ヒトとしての繁殖コストを社会でどのように分担するのかを技術の発展も含めて考え直す必要がある.

 

第2章 少子化は止められるか?

 
第2章は少子化がテーマで,ここでは少子化の議論に際して「人類が進化環境において協同繁殖種であったこと」を理解することの重要性が繰り返し説かれている.
通常の動物は資源が豊かになると産む子どもの数が増える.なぜ現代の産業社会のヒトがそうならないかについて,資源が増えただけではなく子ども一人あたりの投資量が増えたことが重要であることがまず指摘される.次にヒトが協同繁殖種であるということは,子育て支援が特別な1種の「贅沢」ではなく,両親以外の多くの人が関わらないと子育てできないという制約があるということで,現代社会でその協同繁殖体制が崩れたのならそれに変わる公共サービスを考えるべきであることが主張され,また(個人的な経験もふまえて)子犬が可愛いと感じることが共同子育て感情のトリガーになり得るのは1つの希望であるとも書かれている.
 

第3章 進化でつくられたヒトの心

 
第3章は進化心理学の内容に絡むコラムが集められている.
まず児童虐待の問題が取り上げられ,(最近の報告件数の増加については,実態の悪化というより,人々の意識の向上により通報が増えたということらしいことを踏まえた上で)血縁のない親子関係が(相対的に)難しいことには理由があること,それでも協同繁殖種であるヒトは多くの場合血縁のない子どもにも愛着がもてること,親が(無意識も含めて)次の繁殖の方がチャンスが高いと感じるとき(特に現在共同体からのサポートが受けられないと感じるとき)に虐待が生じやすいことが説明され,この問題について周囲のサポートの重要性が強調されている.
そのほか,思春期のはちゃめちゃさは自分なりの生き方を探す「お試し期間」と考えられ,過度の安全志向が問題になり得ること,現代の科学技術が自己認知・自意識に(進化環境になかった)フォーカスを与えていること,「心の理論」により相手の意図を読むことの度合いには個人差や文化差があってそれぞれの場面で適切なバランスをとるのは難しいこと,現代社会が「人の評価」について定量的な基準に偏っている可能性があることなどが論じられている.
 

第4章 科学技術のゆくえ

 
第4章は科学技術が生む新奇環境がテーマになっている.
技術の開発の際にそれがヒトや環境に与える長期的な影響(とくにAI,SNS.仮想現実,ビッグデータなどがヒトの行動選択のもとになる環境認知に与える影響)が軽視されがちであること,AIに囲まれて暮らす生活への否定的感情がまず取り上げられている.また科学という営みがよりチームワーク制,分業体制が進み,「産業革命」を迎えており,科学者の生産と雇用の形態,評価基準(そしてノーベル賞のあり方)根本的に考え直す必要があると主張や沖縄に国立自然史博物館を作ろうというコラムもここに含められている.
前段の議論は現代の新奇技術への不安が前面に出ていて(毎日新聞のコラムであり,さらに紙面が限られているということもあるのだろうが)やや違和感がある.著者はコンパニオンのように世話してくれるAIに囲まれて暮らすのは嫌だと書いているが,私などは快適なら是非そうやって暮らしたいとも思ってしまう.新奇技術は有害な影響を持つかもしれないが,巨大な利益をもたらす福音という面も大きい.メリットを享受しつつ,どのように弊害を避けるかという視点をより前面に出した方が良かったのではないかと思う.
 

第5章 大学の不条理

 
第5章は行動生態学者としての著者ではなく,総合研究大学院大学学長としての著者の本音コラムが集められていてちょっと異色な(そしてなかなか面白い)章になっている.
大学という組織に関しては教授達,学生達,(卒業生を雇用する)企業達というプレイヤーがそれぞれ他のプレイヤーの動向を見ながら行動しているため,どうあるべきかを論じるにはゲーム理論的な分析が必要であることをまず踏まえた上で,現在の大学改革議論の問題点を次々に指摘している.いくつか論点を紹介しておこう.

  • そもそも大学がどのように生まれて継続してきたかという基本的な認識が共有されないまま大学改革の議論が行われている.大学の歴史は12世紀以降自由な研究と教育を求める学者たちとそのあり方をコントロールしようとする諸勢力との戦いの歴史であった.自由な知識追求の欲求とそれを学びたいという若者の欲求はヒトの本性だともいえる.現在の議論は経済的価値をめぐってなされるが,それは本来の知識追求のそもそもの目的ではないのだ.
  • 大学政策にかかる有識者会議は「日本には大学が多すぎ,経営努力が足りない」と指摘する.しかし彼等の議論は多角的に国際比較した結果であるようには見えない.きちんとデータを見るなら「日本は研究開発にはそれなりに財政支出しているが高等教育に出し渋る国だ」「日本には高等教育のレールが一本しかない」という実態が浮かび上がる.後者の問題への対処には大学改革だけでは解決できず,大幅な働き方改革,企業の採用慣行改革が不可避である.
  • 日本の財務省は国立大学の予算を削るために「削る判断が正しい」ということを示すデータなるもの(政府の科学技術支出と論文生産性の関係の国際比較など)をたくさん出している.そのデータは「日本の国立大学は多くの公的支出を受けている割には論文生産性が低い」という仮説の検証するためのデータなのだろう,しかし仮にその仮説が立証されてもそれは事実の問題であり,「支出を削る方がいい」という価値判断を不可避的に導くわけではない*1.価値判断には別の理由が必要だ.
  • 大学の最も重要な意義は次世代の人材育成ではないか.しかし現在の大学改革の議論においてはこの目的が軽視されている.それはこれまでの企業の採用が,学生が大学で何を身につけたかではなく,大学の入試の難しさというブランドのみを基準にしてきたことと深くつながっている.日本の社会全体が大学教育の価値を見る目を持たなければ世界の中で取り残されてしまうだろう

 

第6章 成熟した市民社会へ

 
第6章では文化進化による社会システムの変化により,ヒトが快・不快に感じる対象が変わって,行動が変わっていったことに関わる問題がいくつか取り上げられている.具体的には貨幣の発明が「抽象的で無限の欲望対象」という進化環境になかったものを生みだしていること,現代文明による快適で安全な生活環境がリスク判断を(進化環境よりも)極端にリスク回避的にしていること,情報があふれるようになった中で(多くの情報を分析して結果を出す認知的負荷を不快に感じるために)単純な二分法の誘惑に弱くなっていることが扱われる.
ここから現代日本の文化や制度についての苦言コラムが並ぶ.人々の行動基準が「自分の意見を言わない」「意見を言う人間を不快に感じる」方向に向かっていることへの苦言があり,なお大きく残る男女差別的制度改善のためには女性議員や女性管理職の比率を増やすべきであること,それにはインクルージョンの考え方が重要であることなどがコメントされている.
最後に,たしかに世の中は良くなってきているのに「信じてきた価値観や社会の常識が変わるのでないか」「文明は転換点にあるのではないか」という不安が拭い去れないことについてのコラムが収められている.
 
 
本書は元々単発のコラムを集めたものなので,特定のストーリーがあるわけではなく,その時々の著者の本音が綴られるというエッセイ集となっている.進化心理について,そして現代環境とのミスマッチについては長年の研究のバックグラウンドがにじみ出るいいコラムになっているし,性差別や大学改革の不条理については,日頃の不満と強い思いが伝わってくる.長谷川眞理子ファンにとっては嬉しい一冊ということになるだろう.
 
 

*1:というより,論文生産性を上げることが望ましいなら,普通は「支出のあり方を改善して論文生産性を上げることを試みよう」となるのではないかということだろう

ピンカーのハーバード講義「合理性」 その11

ピンカーの合理性講義.第21回は応用編で医療,第22回はピンカーによる講義で道徳を扱う.この道徳の講義は次回の効果的利他主義についてゲストレクチャーの前振りを兼ねている.
 
harvard.hosted.panopto.com

  

第21回 「医療」

 
ゲストレクチャラーはアトゥール・ガワンデ.ここからピンカーの紹介になる.なお講義前の音楽はロバート・パルマーによる「Bad Case of Loving You (Doctor, Doctor) 」
最初にピンカーによる導入がある.

  • ガワンデは医師であり,ハーバードで教鞭もとり,Amazonやバークシャーなどが出資しているスタートアップのCEOも務める.またライターとしても活躍し,何冊もの本を出している.著作の中では「The Checklist Manifesto(邦題:アナタはなぜチェックリストを使わないのか)」が有名だ.本コースとの関連としては医療における非合理性をどう解決していけば良いかを実践しているということがある.

 

 

  • 医療というのは完全な科学ではない.常に学習を重ねている.つい数十年前までは効果のない慣習や迷信も一部に残っていた.それを効果をテストして改善してきた.慣習的に行ってきたことについて合理性を使い,インセンティブ,ルール.プロシージャーをもつシステムとしてきたのだ.今日はそのあたりの話を聞かせてもらうことになっている.

 

ガワンデの講義
  • 私は物事をエンピリカルに改善したいと考えてやってきた.私に大きな影響を与えたのは2人の哲学者が書いた1976年の本*1で,そこではヒトの誤謬性について説明されていた.
  • 医療の誤謬はどこから生まれるか.1つは無知で,1つは愚かさ(ineptitude)から来る.医学はルネサンス以降数百年無知を減らすように努力してきた.そしてそれは医学的知識,公衆衛生として積み上がった.平均寿命は40代から80代に延びた.愚かさへの対処はここ100年ぐらいの取り組みになる.そして今や無知より愚かさの方が大きなインパクトを持つようになっている.
  • 愚かさの問題の根本には複雑性の問題がある.ヒトの状態が悪くなるやり方(つまり疾病)には7万種類以上あり,対処方法も4000以上,薬も6000以上ある.複雑性を扱うのは難しいのだ.
  • アメリカで最大の死の要因は(喫煙が減ったため)高血圧になっているが,1/3は適切な対処を受けていない.アメリカで手術を受けてなんらかの手違いで後遺症などの問題が起こるケースは毎年10百万件を超えている.
  • 合わせると愚かさによる影響はアメリカで死因の1/3に関与していると推計される.途上国では1/2を越えるだろう.

 

  • ではどうしたら正しい処置を行うことができるようになるのか.ステージに分けて考えよう.
  • ステージ1は教育だ.正しい考え方,正しいやり方を教える.あなたはこれをした方がいいということだ.手を洗おう,ステイホーム,マスク着用しようということだ.
  • しかし従わない人や信じない人々は残る.次のステージ2は規制になる.あなたはこうしなければならないということだ.これは効果があるが,コストの割には効果が小さい.
  • 次のステージ3がシステム化だ.正しいやり方をやりやすくするのだ.ナッジはその1つだ.しかしここで意味しているのはもっと広い.交通を考えよう.道路,カーデザイン,ルールなどが組み合わさって安全が確保されている.

 

  • 私はこのシステム化に取り組んだ.そしてまず医療の成功失敗を調べ,成功率が高い医療現場で何が生じているかを確認し,19のキープラクティスとしてまとめた.そしてそれをチェックリストの形にして8都市でテストした.結果は医療現場での誤謬が47%も減少した.驚くべき効果だ.
  • これは他の分野でも使っていくべきだ.そして私は今システムサイエンスの発展を期待している.システム化はヒトの幸福に大きな影響を与えるのだが,まだその分野への投資は小さい.

 

ピンカーとの質疑
  • ピンカー:チェックリストの効果の大きさは衝撃だ.チェックリストによりエラーを防ぐことで救える命がアメリカだけで毎年10万人単位でいるということか
  • ガワンデ:院内感染から手術ミスまで合わせ,推計では40万人程度だ.

 

  • ピンカー:それで私たちはその数字の大きさに気づいていない.メディアのカバレッジによる利用可能性バイアスということになるだろう.
  • なぜチェックリストはこんなに効果があるのかを考えてみた.1つは記憶システムの性質だ.将来何かしなければならないことを覚えておくのはプロスペクトメモリーと呼ばれるが,この想起には環境中のキューが大切であることがわかっている.適切なキューがないとものすごく大切なタスクでも思い出せない,毎年駐車場の中の車で子どもが熱中死するのはこのためだ.
  • もう1つは認知バイアスで,自分の認知バイアスを過小評価しがちで,統計的な判断が苦手ということがあるだろう.だから直観的判断を信頼しすぎるのだ.

 

  • ガワンデ:その通りだろう.そしてその他にも要因はある.それには個人に帰するものとグループに帰するものがある.個人に帰するものとして重要なのは認知的なオーバーロードで判断水準が低下するということだ,そして自信過剰からそのことを認めない.実際にチェックリストをテストすると,70~80%の医師が今後も使いたいというが,20%程度の医者はこれは無駄だといって使いたがらない.しかし,あなた自身が手術を受けるときに担当医師に使って欲しいかと聞くと95%が使って欲しいと答えるのだ.そういう医者には「あなたは不要かもしれないが,しかし同僚の医師達はどうなのか,あなたが使わない中で使ってもらえるか」と説得するようにしている

 

  • ピンカー:自己奉仕バイアスと本質的帰属誤謬だね.実際にヒトがどう振る舞うかは,その人のキャラクターよりも環境条件の方に大きく左右されることがわからないのだ.例えばキティ・ジェノヴィース事件では,暴漢に襲われている女性に対して誰も通報しなかったが,それは冷たいからではなく,誰かが通報するだろうという環境下だったからだ.
  • ガワンデ:集合的な問題ということですよね.それこそがチェックリストが有効なことを説明するグループの要因,チームのダイナミクスだ.手術の際のチェックリストの大きな目的は「このメンバーは外科医のためにここにいるのではなく患者のためにここにいる,患者に何かあるかもしれないと疑問を感じたら発言をためらってはいけない」ということを周知徹底するところにあるのだ.

 

  • ピンカー:あなたの本は2009年だが,その後のスマホの進展を見ると,単なるリストではなくアルゴリズムやアプリの形にできないかと思ってしまうが
  • ガワンデ:アプリ化はUIの作り込みなどにコストがかかってしまう.チェックリストがうまくいっているかどうかを見るには,現場の人達がリストを現場に合わせて改良しているかどうかというのが最もわかりやすい方法になる.管理側が始めると膨大なリストになりがちだがそうなると誰も使わなくなる
  • システム化はヒトの脳の限界を視野に入れて進める必要があるのだ.改善をスコア化してリストの個別項目の重要性を調べるということはやってみたことがある.先ほどステージ3がシステム化といったが,実はステージ4がある.それは自動化だ.

 

  • ピンカー:ボストングローブで抗がん剤の治療ミスで若い女性が死亡したという記事が出たことがある.大衆の関心は犯人捜しと厳罰への要求に収斂した.識者は犯人捜しよりシステムの改善が重要とはコメントしていたが
  • ガワンデ:その通りだ.あの事故はシステムが脆弱だったからだ.結局責められるようなことをしたわけでもない看護婦が職を失う結果になったが,システムの改良を考えるべきだ.社会全体としてステージを挙げる必要があるのだ.

 

  • ピンカー:現在コロナによる死者はまだ高血圧やがんに比べるとごく小さい.しかし大きな不確実性がある.いつ頃相対的な死者の大きさを比べるべき時期になるのだろうか
  • ガワンデ:相対化はまさに生じつつある.しかし今はまだ相対比較は難しい,片方は経済だが,もう片方の(コロナによる)命の数は全く不確定だからだ.この問題はまだまだわからないことが多いのだ.

 
ここからそれ以外の参加者からの質問

  • 最初の質問者:アメリカのヘルスケアは他の先進国に比べて劣っているという話があるがなぜか
  • ガワンデ:確かにコストパフォーマンスは悪い.そしてCPが悪い理由はいくつかある.まず管理コストが高いということがある.官僚制やフラグメンテーションの問題だ.2つ目に価格の高さ.そして3番目が間違った治療だ.これには不必要な治療の問題と,ミスの問題があり,しばしば両方が絡んでいる.典型的なのが背中の痛みだ.実は背中の痛みは48時間安静にすれば90%程度は良くなることがわかっているが,いろいろやってしまう.そしてしばしば手術が行われるが,調べると改善効果はない.なぜこうなるのか,1つは医者の無理解だが,もう1つはインセンティブ構造に問題があるからだ.治療費が効果に基づいて支払われない.だから医者には効果を上げるような動機がない.効果を測るのは難しい.多くの保険は雇用者と紐ついているが,転職のたびにトラックが途切れる.

  

  • 2人目の質問者:チェックリストは固定項目になる.医療現場の現場の判断との関係はどう考えれば良いのか
  • ガワンデ:それはリストの性格にもよる.手術のリストはチームが理解しておくべきことの確認が多い.実際にサンプルが少なくリストの有効性に疑問が残るような場合もある.そういうときには,暫定的なリストを渡し,現場で変えたときには報告を求めるということをしている.ある意味クラウドの智恵を使うということだ.

 

  • ピンカー:今回のコロナウイルス問題について何かコメントはあるか
  • ガワンデ:現在各国でどのシステムがワークするのかの比較実験のようになっている.まだ結果は出そろっていないが,1つわかってきたのはコマンドシステムの有効性だ.何かを迅速にやってもらうにはコマンドシステムは効率的で速い.片方で中央集権にもリスクはある.その意味でパブリックデータはとても重要だと思っている.

 
いろいろ衝撃的な話だ.「アナタはなぜチェックリストを使わないのか」は電子化を待っているうちに読みそびれてしまっているが,一度目を通しておかねばという気にさせられる.(なぜ書名が「あなた」ではなく「アナタ」になっているのは謎だ.)
ガワンデはにはこのほかにもいくつか著書があるようだ.邦訳されている者には以下がある.
 

予期せぬ瞬間

予期せぬ瞬間

 

第22回 合理性と道徳

 
第22回はピンカーによる道徳の講義.講義前の音楽はペギー・リーとベニー・グッドマンオーケストラの「Why Dont’ You Do Right」

  • 皆さんに残念なお知らせがある.今日はゲストレクチャーではなく私の講義だ.というのは,来週のレクチャーでは「効果的利他主義」を扱う.そのためのステージを設置するという意味で今日は道徳と合理性の関係を講義したい.

 

道徳と道徳感覚
  • まず道徳(Morality)と道徳感覚(Moral Sense)を区別しなければならない.これは道徳の規範的モデルと記述的モデルに該当する.
  • 道徳の規範的モデルは道徳,倫理,道徳哲学の内容であり,最上の理性で「何が善で何が悪か」を考察するものだ.
  • これに対して道徳の記述的モデルは道徳心理学,道徳感覚の内容で「何が善で何が悪かについて人々はどのように考えたり感じたりするか」を調べるものだ.そしてこれは「道徳錯覚というものはあるのか:合理的な議論で正当化できない善悪の直感が存在するのか」という疑問に関連する.

 

  • では「道徳感覚」とは何か
  • 進化は我々に「道徳感覚」をもたらしたと考えることができる.それは以下の根拠がある
  1. 社会性生物の協力の問題への解決につながる(適応を示唆)
  2. 幼児の発達のごく早期に「親切」が現れる
  3. 道徳に関連する(通文化的な)ユニバーサルな現象がある:善悪の区分,フェアネスの感覚,互いに助け合う行動傾向,権利の義務の感覚,悪は正されなければならないという信念,ある種の暴力の禁止などだ.
  4. サイコパスにおいては道徳感覚が損なわれる

 

道徳化
  • この道徳感覚は道徳化(Moralization)と関連する
  • 道徳化とは「望ましくない行為について嫌悪したりださいと感じたりすること」から「不道徳だと感じること」への心理的な転換だ.
  • これはユニバーサルであって,一旦道徳化が生じると罰が正当化され,さらに罰が必須のもの(つまり悪が罰を逃れることは許されない)となる.これについてバートランド・ラッセルは「良心から生まれる残虐性の強制はモラリストの喜びであり,だから彼等は地獄を発明したのだ」といっている.
  • 心理学者のポール・ロジンは道徳化についてこう指摘している:ベジタリアンには健康のためのベジタリアンとモラルベジタリアンがいる.モラルベジタリアンは,より「ベジタリアンであるべき理由」を多く挙げ,より大きな感情的リアクションを見せ,「他の人もベジタリアンであるべきだ」と考え,ほかの道徳的評価をベジタリアン主義と結びつけ(肉食者はより攻撃的だなど),肉を汚染物質であるように扱う(スープに肉汁が一滴入ったときに健康のためのベジタリアンは気にしないが,モラルベジタリアンはそれを嫌悪する).

 

  • 道徳化は政治や文化にも大きな影響を与える.
  • ある文化の中で同じ特定の行動がモラル化されたものと非モラル的なものの間でスイッチする.
  • 1960年代以降アメリカ文化で非モラル化したものには,離婚,非嫡出子を生むこと,働く母,マリファナ,マスターベーション,ホモセクシュアルセックス,オーラルセックス,無神論,薬物中毒,ホームレスであることなどがある.
  • 逆にモラル化したものには,子どもへの広告,大規模小売チェーン,女性のヌード写真,人種ジョーク,喫煙,テレビにおける暴力,二酸化炭素排出などがある.また左派と右派で論争になっているものも多い.

 

  • ハイトは道徳化について感情的反応だと論じた.よく練られた兄弟姉妹間の性交シナリオ(合意済みで一度限りで避妊している)についてどう思うかを聞かれると,ほとんどの人はそれらしい理由を挙げてこれは非道徳的だと答えるが,その理由がこのシナリオでは成り立たないことを示されると「理由は説明できないがそれはモラル的に許されない」という反応を見せる(「モラルダムファウディング現象).
  • これはその回答者自身のインセストへの嫌悪感が元になっている.そしてリーバマンとコスミデスとトゥービィは,異性の兄弟を持っている人の方がこの嫌悪感が強いこと(適応を示唆している)ことを見つけている.
  • このほかのモラルダムファウンディングには「不要になったアメリカ国旗を切り刻んで雑巾にする」「交通事故に遭った愛犬の肉を焼いて食べる」「スーパーで丸ごと1羽のチキンを買い,それでマスターベーションをしたあとで料理して食べる」などがある.

 

道徳感情
  • ではこのモラル感情とは何か
  • ハイトはこの基礎のうちの2つは「フェアネス」と「加害vsケア」だとした.
  • ここには繰り返し囚人ジレンマの解決となるべき互恵的利他へ向かう要素がインプリメントされている:同情(相手を助ける),感謝(利他者への褒賞),軽蔑・怒り・モラル的嫌悪(チーターへの罰),罪・恥(チートを避け,チートしてしまったときの関係修復を図る)

 

  • そしてハイトはそれ以外にも別の進化的起源を持つモラルの基礎があることを発見した.
  • 「コミュニティ」:グループへの忠誠,社会規範への服従(トイレを使ったら流す,移民やボヘミアンに対する敵対反応など)
  • 「権威」:既往の秩序への尊敬.(王族,貴族,金持ち,有名人への崇拝,ムハンマドの描いた漫画への敵意など)
  • 「純粋」:神聖vs汚染の軸.(嫌悪のモラル化,合意のあるインセストへの軽蔑,モラルベジタリアン,宗教的シンボリズムなど)

 

 

  • モラルの基礎は,文化(あるいはサブカルチャー)により異なってくることがある.
  • 西洋リベラルのメインストリームは,フェアネスと加害vsケアの軸のみをモラルの正統的基礎とする.しかしアメリカの保守や伝統社会はよりコミュニティ,権威,純粋の軸を重視する.アメリカではこれらの軸の重視度合いと政治的な立場はきれいに相関している.
  • では保守の方が(軸をたくさん持つから)より道徳的なのか?
  • とは限らない.モラル感覚をより使えば(規範的に)よりモラル的とはなるわけではない.
  • 政治的部族主義はモラル的イデオロギー的なコミットメントを掘り崩す.最近のアメリカ政治では,このようなことがロシアに対する態度,COVID19に対する政策の是非においてみられた.

 

道徳錯覚(Moral Illusions)
  • 道徳化された感情(嫌悪,不快)が(理性的に分析すると)道徳的に問題ない行動に向けられることがある.
  • 多くの例が生命倫理において現れる.
  • クローニング:多くの人がクローニングに嫌悪を感じ許されないとするが,合理的に説明できるわけではない.臓器ドナーへの金銭的な支払いも同じだ.
  • その他のかつてあった生命倫理的タブーには試験管ベイビー,人工授精,臓器移植,輸血,ワクチン,麻酔(!)があった.
  • 同性愛,人種間結婚もかつては非道徳的と考えられていた.
  • つまり合理的に考えて正しいと思われる道徳的な意見を持つためには,我々は時に自分の道徳感情を割り引く必要があるということだ.これは効果的利他主義にも関連する.

 

道徳的リアリズム
  • では道徳というのはフィクションなのか
  • 道徳的ニヒリズムは「道徳というのは進化が協力を可能にするために作った方策に過ぎない」と考える.
  • しかし必ずしもその考え方に従わなければならないわけではない.
  • 論理学や数学や幾何学という体系は客観的な規範的モデルを作ることが可能であることを示唆している.
  • つまり理論的には(ヒトに進化産物としての奇妙な癖と錯覚を伴う道徳感覚があるのだとしても)客観的な道徳の規範的モデルを構築することが可能なのだ.これが道徳的リアリズムの立場だ.これは数学的リアリズム(数学は客観的な真実の体系として存在し,数学者はそれを発見しているのだ)の立場に似ている.

 

  • では規範的道徳が道徳心理学から独立して存在するのだとすれば,それはどこから来るのか
  • 1つの考え方は「宗教」というものだ.グールドは「Rocks of Ages(邦題:神と科学は共存できるか?)」という本でNOMA(重ならない領域)という議論を行い,科学は事実の領域を,宗教はモラルと意味の領域を扱うのだとした.
  • しかしこの議論は成り立たない.何故道徳が宗教からは得られないのかについてはプラトンが「エウテュプロン」において説明している.「もし道徳が神から来るとするなら,何故神はある道徳原理を取り上げ,別の原理を否定するのかが問われなければならない.もし神に何の理由もない(単に恣意的に選んでいる)のなら,それに従う理由はない(自分の子どもを殺せと命じられたら従うのか?).もし神に理由があるのなら,最初からその理由を直接使えばいいだけだ」

 

 

  • では道徳の合理的な基礎は何か
  • 私はそれは「視点の交換性」だと考える.(「カルビンとホッブズ」の漫画が紹介されている)
  • 自分の利益があなたの利益より優越する理由は,それが自分の利益だというだけでは成り立たないということだ.「自分の利益の大切さと視点の交換性」が道徳の合理的な正当化の基礎になる.
  • そして実際に子どもに道徳を教えるときに,我々はこの原則を使っている.「そんなこと自分がされたらどう思うの?」
  • この原則は世界の道徳システムのコアでもある.黄金律(多くの宗教),永遠の視点(スピノザ),どこからでもない視点(ネーゲル),無知のベール(ロールズ),定言命法(カント),最大多数の最大幸福(功利主義)

 

道徳の公平性についての2つの立場:帰結主義と義務論
  • この問題は多くの道徳哲学のコースで最初に扱われる帰結主義と義務論の対立に関連している.

 

  • 帰結主義とは「ある行為の道徳性はその帰結によって決まる」とする立場だ.
  • 道徳の帰結主義はしばしば功利主義をとる.これは結果を効用により評価するということだ.この効用は「幸福」に近く,他人の幸福への関心も含みうるものだ.そしてしばしば「最大多数の最大幸福」と簡潔化される.

 

  • 義務論とは「ある行為の道徳性はその行為の本質的な性格により決まる」とする立場だ.
  • 宗教的な戒律はこの表現形式になる.
  • カントの定言命法もこれだ:「あなたの意志の格率が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」「あなたおよびほかのあらゆる人格における人間性を,単に手段として扱うことなく,常に目的としても扱うように行為せよ」

 

実践理性批判1 (光文社古典新訳文庫)

実践理性批判1 (光文社古典新訳文庫)

  • 作者:カント
  • 発売日: 2015/06/26
  • メディア: Kindle版
 

  • 功利主義には知的な魅力がある.
  • それは単純で,中立的で,不可知論的で,正当化が容易だ.「害がなければ良い」「それで幸せになるのなら,悪いはずはない」「大人が同意の下に私的に行動していることは他者の関心事ではあり得ない」
  • そしてそれは宗教的,伝統的,直感的な禁止を越えて道徳を進歩させてきた.
  • その例の1つは残酷な刑罰の禁止だ.ベッカリアは「残虐な刑罰を繰り返すと人の心は麻痺していき,その抑止力は投獄以上にはならなくなる.刑罰が正当化されるにはその抑止メリットが加害を上回ることが必要だ」と合理的に議論した.ここに嫌悪感が理由とされていないことは重要だ.
  • 動物の権利もそうだ.ベンサムは「問題は彼等が論理的か,しゃべれるかではない,彼等は苦しむかどうかなのだ」と論じた.
  • 同性愛の権利も同じだ.同じくベンサムは「それは誰にもどんな苦しみも与えない.それどころかパートナー達は自分たちの意思に従って行動し幸せになっている.同意があるもの同士の行動により誰にもどんな痛みも与えていないのだ」と擁護している.
  • 宗教的迫害について,ジェファーソンはこう言っている.「正統的な政府が刑罰を行使するのは他者への加害的行為についてのみだ.しかし『神は20人いる』とか『神はいない』と言う行為は,私や私の周りに人に何の害も与えない.それは私に財産的な被害も身体的な被害も与えないのだ」
  • 女性の権利,普通教育,労働者の権利,環境保護も同じように功利主義の議論から進んだのだ.

 

  • ではヒトは直観的には功利主義者なのか,義務論者なのか
  • フィリッパ・フットは「トローリー問題」を発案した.(内容の説明がある) このポイント切替バージョンではほとんどの人は1人を犠牲にして5人を救おうとするが,太った男突き落としバージョンでは多くの人が突き落としをためらう.
  • 功利主義ならこの2つのバージョンに違いはないが,義務論では違う.そして心理学的にはこの2つの行為は異なる.何の罪も無い人を物理的に加害することには強い忌避感情があるのだ.
  • これは功利主義が合理的で,義務論が感情的だということを意味するのか.
  • ジョシュア・グリーンはトローリー問題,(ゲシュタポの探索下で隠れているユダヤ人集団の中の)泣き叫ぶ赤ちゃん問題の被験者を脳スキャンにかけた.人々が義務論的判断(太った男を突き落とさない,赤ちゃんを窒息させない)をするときには脳の感情を扱う回路の部位が活性化し,功利主義的判断をするときには論理的な思考を扱う回路の部位が活性化した.(部位の詳細の説明がある)
  • また感情的な反応を抑えたり,認知的な熟考を行うように教示されるとより功利主義的な判断になりやすいことも明らかになった.これは脳の感情回路部位の損傷患者,良いムードの被験者,直感を信じないように教示された被験者,自分で自分は衝動的ではなく合理的だと説明する被験者,認知内省テストの高得点被験者で生じた.
  • 逆に負の感情を強化されたり,熟考的な思考を抑止されるとより義務論的な判断になりやすい.自分は衝動的だと考える被験者,時間制限がきつい場合,認知負荷をかけられた被験者はそうなる.
  • また医者は義務論的で,公衆衛生担当者は功利主義的であることもわかった.

 

 

功利主義の是非
  • では功利主義こそが合理的な道徳へのアプローチなのだろうか.義務論の時代は終わったのか? グリーンはカント自身が自らの感情の犠牲者だとほのめかしている.我々は皆功利主義者になるべきなのか.

 

  • 話はそう単純ではない.道徳哲学のコースの最初で示されるように功利主義には様々な思考実験的な批判がある.
  • その1つは功利主義では暴動を防ぐために無実の人をスケープゴートに仕立てることも(それで多くの人を救えるなら)善になるというものだ.同じような有名な例は「1人を殺して5人の臓器移植を行う」問題にもある.
  • 効用モンスターという問題もある.同じリソースで他人より非常に多く幸福を感じる人がいればその人の効用は他の人たちの効用より大きいと評価すべきなのだろうか.
  • 最近のデレク・パーフィットによる批判としては,どんな幸せな人々の集団も,それが有限で有る限り,生きるか死ぬかみたいな悲惨な生活を行っている何千倍もの人々の集団より効用が低いことになるというものがある.似た例には「幸福なウサギ小屋」批判(安価に多数の幸福なウサギが飼えるなら,我々はすべての予算をウサギ小屋建設に振り向けるべきか)がある.
  • また最大多数の最大幸福は,ひたすら人口爆発させることが善になるということになるという批判もある.

 

  • これらの批判に対しては反論できる部分もある.
  • 「最大幸福」というのは平均を最大化させることに限る必要はないという反論はあり得る.最大苦しみをミニマイズさせるという基準もあり得るだろう.
  • 行為功利主義に対して規則功利主義という考え方もできる.例えば臓器移植問題では,「誰か1人を殺せ」という代わりに,「医者により多くの人を救えるという判断があれば入院患者を安楽死させる権限を与える,そして入院患者には,より多くの人が救える場合には自分が安楽死させられる可能性があることを告知しておく」という規則を導入するという解決になる.
  • 別の反論は,このような思考実験は行為者がすべての情報を知っているという馬鹿げた前提をおいているというものだ.現実では知識は限定されている.そのなかではある程度危険な行為を避けるためにしてはいけないことの範囲を定めておくことは合理的だ.つまりヒトの認知の限界を考慮すれば功利主義的にもある種の義務論的な規則が是認できることになる.

 

  • そして義務論にも様々な思考実験的批判を行うことが可能だ.
  • ゲシュタポにユダヤ人の存在について嘘をついてはいけないのか.
  • カントはマスターベーションについて「自らの身体を手段として用いるから許されない」と主張した.そうなのか
  • かつては義務論的な理由により輸血や臓器移植,同性愛や人種間結婚が禁止されていた.これらは是認できるのか

 

  • もしかしたら,規則功利主義と義務論倫理はそれほど違わないのかもしれない.

 

  • 同じような議論は道徳哲学の第3の道であるアリストテレスに始まる徳倫理学にも当てはまる
  • 徳倫理学によれば,善の定義は様々な徳の例示として表現できる.それらには勇気,寛容,権威,プライド,名誉,友情,真実,機知,正義などがある.
  • そしてこのような徳倫理も功利主義的に正当化可能だ.
  • 不完全で誤謬に弱い人間がこのような徳を身につけるように務めるなら,(意識的に最大多数の最大幸福を計算して行動するよりも)皆がうまくやることができる

 

効果的利他主義;それは功利主義の次のフェイズ(そして進歩)なのか
  • ここで次回講義のテーマにつながる話をしよう.

 

  • ピーター・シンガーは「拡大するサークル」という本で,互いに利他主義的に振る舞うグループの拡大を論じた.それを広げると動物の権利にもつながる.そして近時「効果的利他主義」を唱えている.

 

The Expanding Circle: Ethics and Sociobiology

The Expanding Circle: Ethics and Sociobiology

  • 作者:Singer, Peter
  • 発売日: 1983/10/01
  • メディア: ペーパーバック
 

  • 彼は「富裕層やミドルクラスの人々は所得や富の大半をチャリティにつぎ込むべきだ」と主張する.彼は「浅い沼」思考実験(浅い沼で子どもが溺れているときに「靴がぬれるから」と言って子どもを助けることをためらう人はいないだろう)を示し,チャリティはそれと同じ構造を持っていることを指摘する.そしてモラルは距離や知り合いかどうかに依存するはずがなく,期待効用の逓減性から,金持ちは所得の大半を貧しい人に移転すべきだと主張する.
  • 彼はさらに自分の子だからと言って特別扱いすべきではない(血縁淘汰の結果はモラル的には是認されない)とも主張している.
  • そして効用については単位金額あたりの質調整済み余命増加量のみで考えるべきだとする.
  • すると最も効果的なチャリティは貧困国の公衆衛生への支出になる.
  • すべてを合わせると.人はそれを最大に追求できるキャリアを選ぶべきで,稼ぐ能力のある者はできるだけ稼いで,その大半を最も効果的なチャリティに寄付すべきだと主張する.彼は(そのようなチャリティを行うなら)ヘッジファンドマネージャーはホームレスにスープを配るボランティアよりもはるかに道徳的だと指摘する.
  • そして彼は動物の苦しみも最小化させるべきだとする.特に農場の動物はそうであり,野生動物もおそらく同じだ.そしてどの動物に支出するかの基準はその動物の意識の程度にのみよるべきだと主張する.
  • また彼は将来世代の幸福を優先させるべきだとも主張している.まだ生まれていない世代の人数は圧倒的に多いからだ.するとそれは(かなり可能性があって,破局的な気候変動よりも)たとえ可能性がどんなに低くても人類存続のリスク(核戦争など)への対処を優先すべきだということになる(シンガーは例えばペーパークリップの生産の最大化させるAIが暴走して人類を滅ぼすリスクにも備えるべきだとしている).

 

  • これは随分奇矯な主張に聞こえるだろう.
  • 多分実際に奇矯なのだろう.しかしヒトの道徳直感は明らかに非モラルでありうるということかもしれない.
  • そしてそれこそこの講義のポイントだ,我々は自分の道徳的直感を信じすぎてはいけないのだ.一見いかに奇矯に見えても合理的に導かれた結論を無視すべきではないのだ.

 

  • では我々は皆効果的利他主義者になるべきか
  • そうかもしれない.しかし個別の議論はしっかり評価していかなくてはならない.特に将来の予測を含む完璧な知識が前提である議論には吟味が必要だ.効果的利他主義によるいくつかの結論は,普通の人の徳や欲求を吹き飛ばし,非人間的な無関心を要求し,現実のニーズよりも極端に仮想的な課題を優先するからだ.
  • そしてこのような効果的チャリティ戦略は,伝統的な経済成長戦略よりははるかに非効率的であるかもしれないことも忘れてはならないだろう.

 
さすがにピンカーの講義は道徳の様々な側面を手際よく簡潔にまとめていて素晴らしい.私的には義務論や徳倫理学の功利主義的擁護可能性,最後のシンガーのエキストリーム道徳についてのコメントが印象的だった.
シンガーの議論に対してはグリーンの実効的功利主義が答えになるのではないだろうか.「できるだけ稼いで,自分は最低限の生活をして所得の大半を途上国の慈善に寄付せよ」という行動を(進化心理を前提にすると)皆が喜んでやるはずはない(そもそもシンガー自身どこまで実践しているのだろうか).そこには様々な偽善とチートが生じて社会全体の効率が下がるだろう.人間の本性を前提にした上で実践的効率も考えた功利主義の方がうまくいくのではないだろうか.

*1:書名も紹介しているようだが,聞き取れなかった

ピンカーのハーバード講義「合理性」 その10

ピンカーの合理性講義.第19回と第20回は応用編.それぞれ政府の情報公開と非暴力政治運動を扱う.
 

第19回「情報と規制」


harvard.hosted.panopto.com

 
ゲストレクチャラーは法学者のキャス・サンスティーン.サンスティーンはセイラーと「ナッジ(邦題:実践 行動経済学)」を共著していることで有名だ.最初にピンカーからのサンスティーンの紹介がある.政府の政策評価に詳しく,40冊もの著書があるそうだ.(6冊挙げていたが,スターウォーズ本が入っているのは学生向けのサービスか*1)また7月に最新刊「Too Much Information」が出る. 講義前の音楽はボブ・ディランの「Subterranean Homesick Blues」(なぜこの曲なのかはちょっとよくわからない)

How Change Happens (The MIT Press) (English Edition)

How Change Happens (The MIT Press) (English Edition)

Impeachment: A Citizen's Guide (English Edition)

Impeachment: A Citizen's Guide (English Edition)

The World According to Star Wars (English Edition)

The World According to Star Wars (English Edition)

 

サンスティーンの講義

 

 

  • 今日はこの新しい本で書いたことを中心に話したい.それは政府,規制当局はどこまで情報を開示するかという問題に関係している.
  • 本来合理的経済人なら情報はあればあるほどいいはずだが,実際にはそうとは限らない.

 

  • まずそれに関する3つの話をしたい.
  1. 食品のカロリー表示の義務づけ規制について:アドバイザーをしていたときにこの義務づけに映画館のポップコーンを含めるかということが議論になり,パブリックコメントを求めた.多くの人が,そんなものを見せられたら映画が楽しくなくなってしまうという意見を寄せてきた.表示による情報提供は人々を健康にするが,情報は見る人の主観的人生の質を下げることが,つまり悲しませてしまうことがあるのだ.
  2. 母の決断:私が若い頃,父が頭痛を訴え,病院で診断を受けた.それは手遅れのがんで,余命は1年程度だったが,母は父に告知しないことを選んだ.夫と自分の性格,結婚の関係性などからその方が人生の質が高くなるとジャッジした.その判断は正確だっただろう.しかし本当にそれでよかったのかという問題は残る.
  3. アンケートデータ:私はいろいろなことを知りたいかどうか,知りたい場合にいくらまでなら払うかについてのアンケートをとっている.食品のカロリー,自動車の燃費,スマホがインターネットに接続できているかなどの質問についてはyesと答えるのは50~60%しかいない.自分がいつ死ぬのかだと25%,天国があるかは50%だが地獄があるかどうかについてはもっとずっと低い.カロリーや燃費の情報に1年間でいくら払うかについても大体20ドル程度だ.つまり実に多くの人が情報を積極的に知りたがらないのだ.

 

  • 標準的な経済学では合理的経済人は有効に利用可能な情報には,そしてそういう情報に限って効用を感じるはずだ.しかし実際には多くの例外がある.それは情報の価値には効用的な価値以外に感情的価値,認知的価値があるからだろう.
  1. 効用的価値:この場合も情報にネガティブな価値しかない場合がある.陪審にとっての予断を持ってしまうような情報などだ.採用にあたって,有能な人が実は肥満であることは知らない方がいい.
  2. 感情的価値:これが先ほどのポップコーンのケースだ.ヒトは楽しくなる情報が好きで,悲しくなる情報は避けようとする.また映画やスポーツのネタバレのようなケースもこれになる.情報を知ってしまうと楽しみが減るのだ.生まれるまで子どもが男の子か女の子かを知りたくない人は多いし,週間天気を知ると楽しくないという人もいる
  3. 認知的価値:私はイヌとオオカミの関係にとても興味がある.シェイクスピアの人生に興味を持つ人もいる.他の人が知らないようなことを知りたがる人もいる.各人の情報の認知的価値はそれぞれ異なっているのだ.

 

  • ここで合理性の点からの情報探索問題を考えよう.合理性から離脱した探索行動はあるだろうか.ここで情報を探索した方がいいかの意思決定が難しいということには注意が必要だ.Amazonで何を買うか,買ったときにそれが自分にどういう影響を与えるのかを予測するのは難しい.自分の感情状態は特に予測しにくい.

 

  • メカニズム的に探索価値を過大評価したり過小評価したりするものもある
  1. 現在バイアス:特に今この感情的価値を重視するということが生じやすい.がん検査は将来の健康に重大な影響を与えるが,とにかく今結果を聞くのがいやだというのはこれで説明できる
  2. インパクトバイアス:ある出来事のインパクトが長期間減衰しないと感じてしまう.これにより情報評価が歪む.
  3. 楽観バイアス:これは探索を過大評価しやすい.

 

  • これに関連する2つの問題がある.
  1. メンタルヘルスとの関係:鬱状態では感受性が下がりコントロール感が減る.これは認知的価値を過小評価するだろう.不安状態ではより情報を求めようとする.そして因果は逆向きにも流れるだろう.
  2. 規制当局のディスクロージャー:私は政府の政策のコストベネフィット分析に興味がある.では情報公開はどう評価されるべきか.ここに理論と実践のギャップがある.タバコパッケージに肺ガン症状のグラフィック表示を義務づけるという政策がある.このコストとベネフィットはどう評価されるべきか.グラフィック広告の人々の健康状態への効果は測定できるだろう.しかしこれで禁煙したがミゼラブルになるケース,やめられなくて恐怖に駆られるケースを評価するのは難しい.同じことはポップコーンカロリー表示問題にもある.リサーチによると元々健康で肥満ではない人々はカロリー表示を確かめ,時にサラダに変更する.しかし肥満な人はできるだけ表示を見ないようにし,食べてしまい,そして悲しくなる.このような厚生結果は評価が難しいが重要だ.

 

  • 一般化すると政策評価においてこのような感情的価値をどうするかという問題になる.あるいはたいしたことないのかもしれないが予断は禁物だ.
  • 最後に「知ることが良いことか」に関連する素晴らしい小説を紹介しよう.バイヤットの「Possession(邦題:抱擁)」だ.情報は知れば知るほど良いとは限らない.情報を与えて人々が幸福になる確率を上げることが課題だ.

 

Possession (Vintage International) (English Edition)

Possession (Vintage International) (English Edition)

  • 作者:Byatt, A. S.
  • 発売日: 2012/04/18
  • メディア: Kindle版
 

ピンカーのコメントと対談
  • ピンカー:いくつかコメントしたい.
  1. 言語学では情報提供の動機にはコミュニケーションや社会的なものがあるとする.そして会話においては関連性が重要だ.そうすると関連する情報が累積的に積み重なる.
  2. (規制により義務づけられている)薬の副作用説明はひどいと思う.ただ嫌なことのリストが付されているだけだ.あれでは患者の不安を煽るだけで利用価値がない.
  3. 情報のためにいくら払うかというアンケートにはタブートレードオフの問題があると思う.セックスや臓器移植のような問題についてはその価格を聞くこと自体がオフェンシブになる.
  4. 合理的に情報を避けようとする場合には「情報が実際に不利をもたらすケース」がある.誘拐犯は犯人の顔を見ない方がいい.またコーディネーションゲームでは相手の状態を知らない方が有利になる.
  5. 隠れた合理性で情報を避ける場合もあるだろう.タバコが不健康であることを知りながらタバコを吸うのは「自分が不合理だ」と明かしていることになる.知らないで吸っている方が正当化しやすい,知らないことに評判メリットがあることになる
  • サンスティーン:GMOの表示の義務づけは人々にそれが悪いものであるとの誤解を与えた.現在の薬の副作用表示に問題があることも確かだ.タブートレードオフについては謎を感じている.私は人々がフェイスブックやインスタグラムにいくら払うか,自分にとってのサービス価値はどのぐらいかとよくアンケートで聞いている.価値については50~100ドルぐらい認めていても一切払いたくないという感覚が強い.これはタブーになっているからだろうか.

 

  • ピンカー:市場で何が売られているかでタブーが決まる側面はある.昔まだミネラルウォーターなどなかった時代に,とあるロックコンサートで入場料は取らずに水のボトルに課金していろいろ問題になったことがあった.テトロックは,価格を付けること自体にモラルの問題があるようなものはタブーになるのだと説明している.命の値段などもそうだ.

 

  • サンスティーン:命の価値については政府は実際には政策において価格を付けてディスクローズしている.そこは非常に透明だ.オバマ政権は命の値段を上げた.今回のCOVIDでもそこは議論になっている.80歳の命と40歳の命は同じ価値なのかという問題などだ.命だけでなく,周りの人の悲しみまで考えると評価は難しい.

 
 

第20回「暴力的,非暴力的政治変化」

第20回の講義は合理的に政治を変化させる方法がテーマになる.ゲストは政治学者のチェノウェス.まずピンカーによる紹介がある.講義前の音楽はサム・クックの「A Change is Gonna Come」

  • 今日のゲストであるエリカ・チェノウェスは9年前に世界の政治学界を震撼させた.彼女は市民抵抗運動の中での非暴力コンフリクト戦略を描いた本をマリア・ステファンと共著で刊行して,注目されたのだ.

 

 

  • 本コースとの関連では,彼女の著作のスタンス自体が合理性の応用として非常に優れた例になっているということがある.戦争と暴力については皆なんらかの意見を持っている.左派の理論,資本主義と市場と貿易が良いとする理論,民主制が効くという理論,グローバルコミュニティが重要だという理論がある.それぞれの理論には良いアネクドートがある.非暴力についても同じで,ガンジーなどの例がある.しかし単なるアネクドートにはいくらでも反論がありうる.ここで彼女の本はアネクドートに頼らずデータからそれに取り組んでいるところが重要だ.
  • もう1つの本コースとの関連性は,非暴力レジスタンスがまさに合理性を応用した戦略だという点だ.映画「ガンジー」には「もし50百万人のインド人が協力を拒否すれば,十万人の英国人でインドを統治できるはずがない」というガンジーの台詞がある.そして非暴力レジスタンスには魅力がある.若い人達を引き付けるし,国際的な支持も得やすい.また相手の暴力を誘発しにくい.非暴力の有名な例にはキング牧師のケースもある.彼は教会や西洋哲学ではなくガンジーの影響を受けている.そしてキング牧師の運動は女性,ゲイの権利運動に広がった.

 

ガンジー (字幕版)

ガンジー (字幕版)

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

チェノウェスの講義「21世紀の非暴力レジスタンスのパラドクス」
  • 「Why Civil Resistance Works」ではなぜ非暴力レジスタンスが有効なのかについての戦略的な理由を説明した.今日はその後に得られた知見を中心に話したい.
  • 非暴力レジスタンスはコンフリクトの方法論.ストライキ,ボイコットなどがそれにあたる.パッシブではない.しかし物理的な暴力は使わない.平和と暴力の間にある第3のスキルフルな方法だ.
  • 非暴力レジスタンスはガンジーの発明ではない.ガンジーは20世紀初頭にヘンリー・デイヴィッド・ソローの「市民は協力拒否できるだけでなく,そうする義務を持つ」という考えに触発されて運動を進め,新しい力を得た.ガンジーは当時「パッシブ不服従」と呼んだ.しかしパッシブという語感を嫌って,「市民的不服従」と呼び変えた.

 

  • ではこの非暴力レジスタンスは,軍隊や暴力をふるう意思に対してなぜ効果的になれるのか.
  • 私はデータを集めた.まず過激運動(独立運動や独裁者を放逐しようという運動)の件数.(1900年から2019年までの10年ごとの暴力的過激主義運動と非暴力過激主義運動の件数が表示される.暴力的運動の件数はあまり変わらないが,非暴力的運動の件数は1980年代から上昇,2010年代に大きく伸びている)
  • そして成功率だ.(成功率のグラフ:暴力的運動の成功率は1970年代以降下がり続け,非暴力的運動の成功率は2000年頃まで上昇を続け,最近少し下がっている.しかし1950年以降常に暴力的運動よりいい成功率になっている,特に最近は2:1以上のアドバンテージになっている.)

 

  • ここで謎がある.なぜ最近非暴力運動は件数が増加するなかで成功率が下がっているのか.(1)過去なぜうまくいったか(2)この10年で何が変わったか(3)非暴力運動に将来はあるか,に分けて考えよう.

 

(1)過去なぜうまくいったか
  • それは多様で多くの人が参加してモメンタムを保ったこと,様々な分野の支持者の忠誠を得たこと,運動のエスカレーションの中でも規律を保てたこと,多くの非暴力手法を用いたことによる.
  • <モメンタム>
  • データから見ると,まず人口の中の参加者比率が高いほど成功率は高くなる(グラフを提示:人口の0.5%だと成功率は20%以下だが1.5%を越えると80%以上の確率になる).非暴力運動への参加はリスクが(暴力的運動ほど)高くないので,これは非常に効率的だ
  • 運動のモメンタムは「現時点の参加者数×ここ1週間のイベント数」として計測できる.これは成功率に大きく効いてくる.(関連グラフが表示される.アフリカの独裁者追放運動では参加が人口3.5%を越えてイベント数が80件を超えると成功率が上昇し始める)
  • 女性の参加は特に重要だ.(関連グラフが表示される.1945~20104年前のデータを統合してみると,フロントラインに女性が多く顔を見せていると,男性だけのケースに比べて1/3~1/2の参加者で同じぐらいの成功率が期待できることになる)これはおそらく女性は社会的によりつながり,よりスキルフルで,様々な戦術が利用可能になるからだ.例えばボイコットはアイルランドで支配者への衣食住の協力を女性が拒否したことに始まる.

 

  • <様々な分野の支持者>
  • 運動の成功には社会の様々な分野(特に支配側の支配の柱になっているような部分)での支持が重要だ.警察,経済的主体,行政,メディアなど.ユーゴスラビアや南アフリカではまさにこれが起こった(ミロシェビッチの抗議運動を行っている市民への発砲命令を軍隊が無視したケース,南アフリカのビジネスオーナー達の支持のケースが紹介される)
  • <手法>
  • 抑圧効果:抑圧的な政府への抗議運動は非暴力的な運動の方がはるかに成功しやすい(46% vs 20%).なぜか.そもそも抑圧は政治的にリスクが高い.大衆への暴力行使は大衆の激しい怒りを生みだし,しばしばバックファイアする.(いくつかの例が紹介される) また抑圧は実践としてもコストが高い.それは抵抗側が,抗議デモのような形態からボイコットやステイホーム戦略を採るようになったからだ.
  • このような分散戦略はリスクが低く効果が高い.今まさに実感しているようにステイホームの経済破壊影響はすさまじい.それは抑圧政府に大きな経済コストを課す.(様々な分散戦略の例が解説される)

 

(2)ここ10年で何が変わったのか
  • 多数参加のトレンド:ピークサイズはここ30年で下がってきている(グラフが提示される)
  • 規律:最近の非暴力運動は暴力的部隊も抱え込んでいる割合が増えている.抑圧側が暴力を誘導しようとする傾向もある(グラフが提示される) 
  • 抑圧側の対抗:非暴力運動が成功しやすいことを理解した抑圧側は様々なスマートな方法を使うようになっている.外国人やアウトサイダーを非難,抵抗側をテロと喧伝する,抵抗側を取り込む,自分の側の非暴力サポーターで対抗する,ならず者を使う,大衆の恐怖を煽るなどなどだ.
  • 戦術的革新と柔軟性:SNSの利用など.
  • 長期的非暴力レジスタンスへの準備と戦略化:最終的な多数参加イベントをかなり遠くにおく.
  • 活動のデジタル化による弱点:抑圧側の調査やカウンターの宣伝が容易になる,素速く運動を指示できるが,支持者との長期的な関係は希薄化する,これまでの運動の教訓の希薄化,抑圧側の対抗による恐怖は増加しやすいなどがある.

 

(3)非暴力レジスタンスに将来はあるか
  • 良いニュースとしては過去非暴力運動が効果的だった要素はなくなっていないということがある.パラドクスを解消するには,リーダーシップと組織化が引き続き重要であること,戦術より先に戦略を描くこと,過去の教訓を共有することが重要だ.

 

対談
  • ピンカー:共有知識について.共有知識はコーディネイトや運動の動員に重要だとされているが,抵抗運動ではどうか.
  • チェノウェス:それもあるが,キーの問題は大衆の大きさの臨界を越えるかというところ.抑圧側の支持者もいる中でどう動員するかのような話だ.

 

  • ピンカー:レジスタンスには明確なゴールがあると計測もしやすいが,70年代の学生運動のようにそこがぼやけているようなものはどう扱うのか
  • チェノウェス:異なる運動をどう評価するか.今様々なデータを集めている.とりあえずわかったのは,目的が明確かどうかであまり最終的な成功率に差がなさそうだということだ.そして確かに目的が曖昧でいくつもあるものもある.また複数の団体が異なる目的を持って参加しているものもある.実際にデータを集めるにはそこでなんとかして計測できるような目的記述を行っていくということになる.

 

  • ピンカー:戦術はいつどのように決めるのがよいのか.気候変動については抗議運動もあるが,政治家も動いている.
  • チェノウェス:それについてはいくつも研究がある.インサイドかアウトサイドかなど.そして各やり方の間には緊張もある.社会の中にもいろいろな次元がある.(ルーズベルトのニューディールの時の逸話を紹介)

 

  • ピンカー:非暴力が失敗することもある.第二次世界大戦ではナチには戦うしかなかったように思える.冷戦時にもいろいろな議論があった.実際に暴力で対抗するしかない場合があると思うか
  • チェノウェス:ナチについてはそうかもしれないと思う.しかしごく一部で収容所行きを阻止して事例もあるし,もっと多くのドイツ人が非暴力的に抵抗したらもっと良い結果になったかもしれないというのはある.どこまで多くの人が一緒に運動できるかが力を決める.そして効率的な全体主義政府が徹底的にコントロールしていれば,抵抗運動は非暴力的でも暴力的でもいずれにしても難しいだろう.

 

  • ピンカー:非暴力レジスタンスの成功率の上昇はほかの暴力減少と同時に生じている.モラルや歴史的な要因はあると思うか.
  • チェノウェス:非暴力レジスタンスの有効性は世界における人権概念の重要性の上昇と関連するという主張はある.モラルの問題もあるが,実際に大戦後の民主主義政府がそう扱うようになったというのもある.

 

  • ピンカー:今書いている本について紹介して欲しい
  • チェノウェス:今2冊構想している.1冊は市民的抵抗についてのQ&A的な本,もう一冊は抵抗運動における女性参加の重要性についての本だ.

*1:スターウォーズ本は私も期待して読んだのだが,特に行動経済学周りの話題はなく,単にファンによる熱いスターウォーズ本だった