スティーヴン・スターンズの「老化の進化」

スティーヴン・スターンズが老化の進化に関する講義をオンラインで公開している.


[Stephen Stearns] The Evolution of Aging, the Great Transition, and the Increasing Risk of Chroni...

 
スターンズは生活史などの進化生態を扱う進化生物学者で,ごく初期に進化医学にかかる専門書を出したことで知られる.私もまずウィリアムズとネシーの「Why We Get Sick」を読んだあとスターンズの「Evolution in Health and Disease」食い入るように読んだものだ.

Evolution in Health and Disease

Evolution in Health and Disease

  • 発売日: 1998/12/17
  • メディア: ペーパーバック
The Evolution of Life Histories

The Evolution of Life Histories

A Primer of Evolutionary Medicine

A Primer of Evolutionary Medicine

 
老化の進化,つまり「なぜ生物は寿命を持つように進化するのか,不老不死の方が有利ではないのか?」はハミルトン,メダワー,ウィリアムズなど多くの著名な進化生物学者が取り組んだテーマだ.スターンズの講義は見逃せない.
 

スターンズの講義「老化の進化:大転換と慢性病リスクの増大」

  • 私はこの考えを30~40年かけて発展させてきた.今日は以下の4点について話したい.
  1. なぜ老いるのか
  2. 大転換:死亡,繁殖,栄養,衛生の変化
  3. 対立形質の多面発現と非感染疾病のリスクの変化
  4. 長寿に進化できるか,その場合のリスク

 

大転換

 

  • 人生を形作る事件は,誕生,子ども時代,青春時代,成熟,大人時代,老化,死と続く.これらは全て進化により形作られている.
  • 18世紀以降,これが大きく変化している.私はこれを「大転換」と呼んでいる.
  • 大転換には3つの要素がある.
  1. 産業革命:18世紀の英国から始まり,現在多くの国に行き渡った.
  2. デモグラフィック転換:18世紀の英国,フランスから始まりこれも世界中で完了しつつある.
  3. 疫学的転換:19世紀に先進国から始まった.現在途上国で進行中だ.

 

  • 大転換の帰結は次の3つだ.
  1. 人口の年齢構成が若者中心から老人中心に変化した
  2. 誕生直後から2歳ぐらいまでの若年齢時の死亡要因にかかる淘汰圧が大きく下がった.
  3. これまで隠れていた老齢になったときの遺伝子のコストが明らかになってきた.それが(非感染)慢性病の増加だ.ここにはまだ大きなブラックボックスがある.慢性病に対して安易に遺伝子治療を行おうとすることには思ってもみない悪い結果をもたらすリスクがあるだろう.

 

なぜ老いるのか 対立形質の多面発現とトレードオフ

 

  • では進化遺伝学者は老化をどう捉えるのか.
  • このトピックに関してはメダワーとジョージ・ウィリアムズの考察が重要だ.
  • メダワーは淘汰圧は年齢と共に下がると考えた.人口に占める老化個体の比率は小さいし,老化により繁殖率は下がるからだ.
  • ウィリアムズは若齢時に有利で,老化後に不利な遺伝子は淘汰を受けて頻度を増やすと考えた.
  • これらの考えをトム・カークウッドはうまくグラフ化した.寿命を上げるには身体のメンテナンスコストを負担する必要がある.メンテナンスによるメリットとコストの年齢効果を考えると,最適メンテナンスレベルがあるはずで,それは寿命を永遠に延ばすよりも小さいはずだということが示されている.

 

  • では寿命についてどのように淘汰が働くだろうか
  • もし年齢と共に死亡率が上がるなら生物は老化を早めるように進化するだろう.(ある程度以上の年齢になると)いずれ死んでしまう個体にメンテナンスするより,機能するうちに(メンテではなく)繁殖につぎ込む方が有利になるからだ.

 

  • これにより寿命の生活史理論はこうなる.
  1. 若い時期の繁殖はより有利になる.
  2. 繁殖と生存のトレードオフがあるために,繁殖や生存(メンテナンス)のための投資には最適レベルがある.
  3. そのレベルでは(内因的)死亡率はゼロより大きくなり,潜在的な寿命が決まる.

 

  • ではこの理論は信頼できるだろうか
  • 繁殖と生存のトレードオフは実際にあり,そして遺伝が関与している.それは実験でもフィールドでも繰り返し示されている.
  • ここではいくつかの淘汰実験を紹介しよう.

 
ここでスライドによる説明がある.ショウジョウバエについて14要因(生活史要因(体サイズ,発達時間,若い時期の繁殖力,遅い時期の繁殖力など),それに関連する生理的要因(飢餓耐性,エタノール耐性,飛翔能力など))について個別に人為淘汰をかけ,ある要因への淘汰が別の要因にどういう影響を与えたかが示されている.それぞれの要因が別の要因に+や-の影響を与えており,全体が複雑なトレードオフにあることが見事に示されている.
 

  • これらの結果は50人・年に渡る研究をまとめたものだ.
  • 例えば発達時期を長くするように淘汰をかけると体サイズは上がり,若い時期の繁殖力は上がり,遅い時期の繁殖率は下がる.若い時期の繁殖力を上げるように淘汰をかけると寿命は下がる.
  • 要するに生物は複雑なトレードオフの中にあるのだ.

 
次の実験のスライドが説明される.同じくショウジョウバエを用いて,7年かけて成虫死亡率の高さに淘汰をかけた系統(HAM)と死亡率の低さに淘汰をかけた系統(LAM)を作る.(HAM系統は90世代,LAM系統は50世代を重ねた)
この結果が2系統の日齢ごとの死亡率のグラフとして表示される.明らかにHAMの方が死亡率が高くなり,寿命が短くなっている.
 

  • 理論の予測通りに内因的死亡率が進化した.HAMの寿命は60日,LAMの寿命は65日だった.
  • これはヒトに換算すれば5年程度の寿命を上げたことになる.

 

  • ではすべての生物は老化しなければならないのだろうか
  • シリコンバレーのビリオネアであるラリー・エリソンとラリー・ペイジは不老不死のリサーチに出資している.

 

  • まずこう問い直そう.「どのような生物は老化しなければならないのか」.例外を考察することで理解が深まるだろう.
  • これについては1882年にワイスマンはこう考察した.「非対称に繁殖する生物は老化しなければならない」しかしこれは一旦忘れられた.
  • 1957年にウィリアムズは「体細胞系列と生殖系列の区別がある有性生物は老化しなければならない」とした.
  • 1993年にパートリッジとバートンは「母と子が区別可能な非対称生物は老化しなければならない」とした.
  • 私はこれらの考察は正しいと思う.そして2003年に実験によりこれが支持されることを示した.
  • また別の2005年の実験は,すべての細胞分裂はおそらく非対称であり,すべての生物が老化しなければならないことを示唆している.

 

  • これらの考察の鍵は「対称的に繁殖する生物は老化しなくてもいい」という洞察にある.分裂が完全に対称なら母と子を区別することはできなく,どちらも無限の命を持つか,どちらも寿命をもつしかできないはずだ.メンテナンスにかかるトレードオフは母娘で同じになる.
  • 実際に生殖系列と体細胞系列が分化していないが,非対称に分裂する細菌(カウロバクター)においては老化が観察される(分裂したあとの片方の系列(娘:遊泳する)では老化が生じないが,片方の系列(母:ストークを持って基盤と接着する)では老化が起こる).これは両系列でメンテナンスにかかるペイオフが異なってくるためだ.実際に調べると母の繁殖力は下がっていく.
  • そして大腸菌(E. coli)の分裂が実際には非対称であることも示された.(分裂時に新しくできる細胞膜があり,それが何代さかのぼるかを考えるとある特定の分裂で対称にはならないことがわかる.そして実際に細胞膜の相対的な新しさで競争力が異なっている)
  • この結果は非常に深い意味を持つ.
  • 生殖系列は生命の誕生以来の歴史を持つ.それは潜在的に不死ということだ.しかしそれは生命そのものについてであって,特定の個体については当てはまらない.
  • 生殖系列であっても世代ごとの分裂は非対称だ.新しい方は保存されるが,古い方は捨てられるのだ.
  • 私はかつて,生殖系列には非常に優れたバイオケミカルな仕組みがあるのだろうと考えていた.しかしそれはそういうわけではないのだろう.むしろ自然淘汰の必然的な帰結だと今は考えている.

 

  • ここで一旦まとめておこう.
  • 老化の進化理論はほとんどの動物でよく支持されている.そこでは老化というのは繁殖成功淘汰にかかる副産物として理解できる.
  • 我々は何十億年もの間繁殖をうまく行えるように進化してきた.
  • では我々は大転換にうまく準備できているだろうか.そうはいえないだろう.

 

大転換と非感染疾病のリスクの変化

 

  • 大転換はヒト集団にとって農業革命以降で最も大きな変化だ.
  • その変化は産業革命による労働,技術,経済の変化,デモグラフィック転換による生誕率,死亡率,人口年齢構成,栄養,成長の変化,さらに疫学的転換による感染症と栄養不足からガンと慢性病へという疾病構成の変化という3つの要素を持ち,ヒトの生態と惑星の生態を大きく変えつつある.

 

  • デモグラフィック転換はまず死亡率が下がった後に生誕率が下がるため,その途中では大きな人口増加が生じ,最後には人口減少に転じる(5フェーズに分けた説明がある)
  • 疫学的転換は感染症比率が大きく減り,免疫疾患,ガン,循環器系疾患,肥満,糖尿,認知症の比率が増える形になる.
  • これらにより死亡率,繁殖率が下がり,平均寿命は延びる.
  • そして自然淘汰のドライバーは死亡率から繁殖率に移る.それぞれの分散(これが淘汰圧を決める)は英国では1900年頃にクロスしている.現在の先進国でのヒト集団への最も強い淘汰は家族サイズについてかかっているといえる.

 

  • この大転換はヒト進化にどのような影響を与えているのか.
  • アメリカ,オーストラリア,フィンランドでは.男性も女性もより早い年齢での繁殖に淘汰圧がかかっている.
  • アメリカの女性には最終出産と閉経を遅らせる方向,体重増加,身長減少,コレステロールレベル低下,血圧低下に向けて淘汰圧がかかっている.
  • ガンビアでは,大転換の進展と共に,淘汰圧は低身長と高BMIから高身長と低BMIに向けて淘汰圧が転換した.(これらは淘汰圧についてのリサーチで,ヒトの形質がこれに反応しているかどうかではない,それにはもっと時間がかかる)

 

  • そして先進国では生物学と文化の間の緊張が増加している.
  • 初潮から閉経までの期間は生物学的な繁殖ウィンドウになる.しかし文化的に子どもを遅くもつような傾向があれば緊張が生じる.

 

  • 寿命が延びるとこれまでの進化によって蓄積されてきた(若い頃のメリットと繁殖終了後のデメリットという)遺伝子の対立的形質の多面発現がより顕現する.
  • ガンリスク,心臓病リスク,認知症リスクについての遺伝的リサーチによると,繁殖力や,若い頃の生存にかかるアドバンテージが老齢時の疾病リスクとリンクしている.これまで「今すぐ買って,支払いはあと(Buy Now and Pay Later)」とやってきたが,今や払うべき時が来たということだ.
  • 現在観察されている世界的な遺伝的疾病の増加の一部はこれまでに進化してきた形質の隠れたコストとして理解できる.(人口ピラミッドの変化を使って説明がある)
  • 典型的な例には乳ガンがある.先進国ではBRCA1とBRCA2遺伝子の変異が(稀なものではあるが)子宮ガンと乳ガンのそれぞれ1~13%,1~5%の原因になっている.これらの変異は生涯繁殖成功の大きな増加と関連している.そして大転換前のヒト集団において正の淘汰を受けてきたのだろう.
  • ガン全般に関しては,抑制タンパクであるp53がDNA損傷に対する細胞応答を司り,ゲノムの安定性に寄与している.これにかかる遺伝子の変異は長寿とガン診断後の生存率に影響する.しかしこれらの変異は(特に35歳より若い女性に対して)胚盤胞の子宮への定着を阻害する効果(つまり不妊効果)を持つ.
  • アルツハイマーや心臓病について,APOE4アレルは低栄養で下痢に悩まされる幼児の認知発達をプロテクトする.これは過去の幼児死亡率を大きく下げることにつながっただろう.しかしこのアレルは老齢時のアルツハイマーや心臓病のリスクを上げる.
  • 40以上の遺伝子が冠動脈疾患リスクを上げることが知られている.そしてこれらの遺伝子は最近正の淘汰を経てきたことがわかっている.これらの遺伝子は繁殖成功をあげているのだ.これは対立的多面発現がありふれていることをよく示している.子どもを持つことは文字通り心臓に悪いのかもしれない(Having children may litterally break your heart)

(これ以外の対立的多面発現の例が一覧としてスライドで紹介される)
 

  • ここで要約しよう.
  • 公衆衛生や医療の進歩によるフードセキュリティの向上,子どもの死亡率の低下は,デモグラフィー,淘汰,健康,疾病を劇的に変えた.
  • これらは肥満,アレルギー,喘息,免疫疾患を増やしている.これらは(進化環境と現代環境の)ミスマッチ疾病だといえる.
  • そして長寿はこれまで隠されてきた繁殖のコストを顕わにしている.そのコストとは(高齢時の)ガン,認知症,心臓病の増加だ.

 

我々はもっと長生きできるか.

 

  • 寿命には遺伝的変異があり,淘汰に反応するだろう.この反応は素早いかもしれない.
  • 長寿への淘汰圧は,最初の子どもを遅く持つように連続的にかけることによって得られるだろう.
  • そうするとすべてのシステムが生存率を改善するように進化する.単に長生きするだけでなく,健康で活力のある老年を得られるだろう.
  • 平均寿命の上限は(すべての内因性の死因をなくすことができれば)数百年にまで伸びるだろう.そこでは.全員が事故か暴力によってのみ死ぬことになる.
  • しかしこれはファンタジーだ.多くの人々は実際にはチートしてより早く子どもを持とうとするために,このような淘汰はかからないだろう.

 

  • このことの意味は何か
  • 老化の進化理論の重要な仮定と予測は支持された.これはヒトにも当てはまる.
  • 我々の身体は使い捨てとなるように進化したのだ.
  • これは進化の焦点が個体の生存ではなく遺伝子の複製にあることについての強い証拠だ.
  • この視点から考えると(つまり文化を一旦無視すると),アイデアと希望,愛と夢,そして芸術と音楽と共にある我々1人1人のヒトは,進化のメジャープレイヤーではなく,遺伝子の支持キャストに過ぎないということになる.
  • しかしながら我々は長生きする.それは我々の繁殖が改善されたためだ.
  • おそらく「人生は誕生,成熟,老年,そして死とつながる全体だ」という認識は我々の消滅の不可避性を受け入れることに役立つだろう.
  • 老年時の痛みや苦しみは若いときに活力や美しさや繁殖力とバランスしているのだ.死は生とバランスしている.我々は自分たちの人生を,老いと若さを同時に天秤にかけることによってフェアに評価できるだろう.老年時の苦しみは赤ん坊の喜びと同時にあるるのだ.
  • 最後にデイヴィッド・ヘイグのコメントを紹介したい.
  • 我々は幸せになるように進化したわけではない.我々は幸せになったり,悲しくなったり,惨めになったり,怒ったり,心配したり,落ち込むように進化した.愛し,憎み,慈しみ,冷淡になるように進化したのだ.
  • 我々の感情は遺伝子が我々を説得するために使うニンジンのようなものだ.しかし遺伝子の目的が我々の目的と一致する必要はない.
  • 善良と幸福は遺伝子に目隠しして騙すことによってのみ得られるものかもしれない.
質疑
  • 繁殖と寿命がトレードオフである生物学的実例はあるか
  • もちろんある.これを最もよく示すものは(今回紹介した)様々な淘汰に関しての反応が諸要因で相関を持っているというものだ.

 

  • 遺伝子治療について老齢時の予期しないリスクがあるだろうという話をされたが,これを回避する方法はないのか
  • まず体細胞遺伝子治療に関しては,繁殖を終えてから治療を始めるという方法がある.生殖ラインの遺伝子治療ではうまく回避するのは難しい.原理的には多くの遺伝子をうまく調節すればいいということになるが,実際に行うのは非常に困難だろう.またヒトの生死に関わることなので,実験も難しい.

 

  • 不老不死についてヒドラの例外についてはどう考えればいいのか
  • 大腸菌についてのリサーチからすべての細胞分裂は非対称だと考えているという話をした.ヒドラでも細胞分裂は非対称に違いない.しかしヒドラは生殖系列で分裂した細胞をうまく老化した体細胞と部分的に入れ替えるということを行っている.非対称を個体の中で組み込んで処理するシステムになっているということだ.

 

  • 生殖系列に特別なメンテナンスシステムはないだろうということだが,何故そう考えるのか
  • 少し話をはしょりすぎたかもしれない.生殖系列の特別なプロテクトメカニズムを説明する理論もある.それは体細胞が侵入してくることに対するプロテクトは自然淘汰により進化するだろうというものだ.それ以外のメンテナンスについては特別にそのような淘汰圧があると考える理由はない.だから私はそういうものがないだろうと考えているということだ.しかしもちろんそういうメカニズムがあるかもしれない.

 

  • 対立的多面発現は普遍的な現象だろうという話だが,実際に見つかっているものはまだ少ないのではないか,それは何故か
  • 少ないかどうかは見方の問題ということもある.それを別にして,まずこのようなことがあるのではないかと調べ始めたのが最近だという事情がある.またヒトにおいて本当にしっかり検証するには,生死の歴史的なデータと多くのヒトのゲノムワイド解析が必要になる.これを進めていけばはるかに多くの対立的多面発現現象が見つかるだろう.

 

  • 紹介されたリサーチは種内のものだが,種間比較ではどうか
  • 種間比較には多くの興味深い問題があるだろう.何故コウモリは長寿なのか,何故ゾウはガンにならないのか.ただ種間比較は厳密な実験が難しいという事情がある.

 

  • 高齢出産に関してはどう考えるべきか
  • 出産が40歳に近づくにつれて様々な問題が生じることはよく知られている.これが最近何か変化したというデータはない.この問題に関しては(安易に高年齢出産に問題がないかのように考えるのではなく)よくデータをみることがとても重要だと考えている.


ハミルトンの議論(若いときにメリットがあってその後不利があるような遺伝子の侵入可能性が数理的に吟味されているもの,簡潔で美しい)が紹介されていないのはちょっと残念だが,なかなか充実した講義だった.様々な人為淘汰実験の結果生物の生活史や生理機能がトレードオフの塊であることがよくわかるものになっている.


なおハミルトンの議論は自撰論文集の第2論文「The Moulding of Senescence」にある.

ピンカーのハーバード講義「合理性」 その9

harvard.hosted.panopto.com

 
ピンカーの合理性講義.第17回は応用編でマイケル・ルイスがマネーボールなどの著書の話をする.第18回は当初の予定を変更し,ピンカーによる「合理性を用いて新型コロナウイルスにいかに対処するか」という緊急講義になる.

第17回「スポーツ,金融,政府」

 
ゲストレクチャラーはベストセラーノンフィクション作家のマイケル・ルイス.ルイスの本は私も何冊も読んでおり,大変楽しみな講義だ. 冒頭でピンカーからは,バイアスを自覚して様々なツールを使って意思決定することがゼロサムゲームのような世界で有利になるのかがテーマだと説明がある.そのあとマイケル・ルイスをその8冊の著書とともに紹介.

今回のテーマに関連する著作としては金融市場を描いた「ライアーズ・ポーカー」,メジャーリーグにおけるセイバーメトリクスの興隆を描いた「マネー・ボール」,そしてTKを描いた「かくて行動経済学は生まれり(原題:The Undoing Project)」になる. なお「かくて行動経済学は生まれり」の私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20170806/1501980839
 

Liar's Poker: From the author of the Big Short

Liar's Poker: From the author of the Big Short

マネー・ボール〔完全版〕

マネー・ボール〔完全版〕

Moneyball: The Art of Winning an Unfair Game (English Edition)

Moneyball: The Art of Winning an Unfair Game (English Edition)

 
ルイスの講義はくだけた講演風のもの.いろいろ裏話もあって面白い.講義前の音楽はキング・カーチスの「Take Me Out to the Ballgame」
 

マイケル・ルイスの講義
  • 私は最初ウォールストリートのインベストメントバンクに就職した.そこではトレーダー達がカスタマーの非合理性を利用して利益を上げていた.それは経済学の教える合理的経済人とは異なる話だった.その後作家になりカリフォルニアのオークランドに移り住むことになった.
  • オークランドに移った2000年頃はメジャーリーグの選手サラリーが急騰している時期だった.A’s(オークランド・アスレチックス)では右翼手のサラリーがたった15万ドルなのに左翼手は600万ドルもらっていた.きっと選手間にはいろいろな不満があるだろう,面白い物語が書けるかもしれないと思って取材を始めた
  • いろいろ選手にインタビューしたが,予想に反して選手達はとにかくオファーをもらってプレイすることしか考えていないようだった.では球団はどのように配分を決めているのだろうか.当時のA’sはヤンキースの1/5の予算でそこそこいい勝率を上げていた.そこでGMのビリー・ビーンに取材を申し込んだ.
  • ビリーに会って1日話しこんだ.すぐにそこにビッグストーリーがあるのがわかった.私はビリーに「一体どのように選手間の配分を決めているのか」と尋ねたら,ビリーは「それはこれまでどんなジャーナリストにも聞かれたことはないが,私がGMとして朝から晩まで一日中考えていることだ」と答えた. そしてどうやっているかをいろいろ話してくれた.
  • それまでどこの球団も100年間同じことをやっていたが,ビリーはやり方を変えたのだ.取材をしている中で選手のシャワールームを見たが,あまり体型の良くない選手が多かった.(ビリーのアシスタントの)デポスタにそれを言うとそれこそがポイントだと教えてくれた.つまり「アスリート体型の選手は市場でオーバーバリューになっている.だから(アンダーバリューの)そうでない選手を集めた方が(コストパフォーマンス的に)有利だ」というのだ.ヒトの心の非合理を巧く利用していたということになる.それを私は「マネー・ボール」に書いた.
  • しばらくして「マネー・ボール」についてのセイラーとサンスティーンの書評がでた.そこには「ルイスは知らないようだが,これはまさにトヴェルスキーとカーネマンが発見していたことのケーススタディだ」とあった.
  • 私は恥ずかしながら彼等の名前すら知らなかった.そして早速調べてみて彼等の議論を知ると,マネーボールで描いたことはまさに彼等の言う通りだった.ヴィヴィッドに印象に残る選手はオーバーバリューされる.利用可能バイアスだ.既に流布している「打率」などの数値が過剰に重大視される.セーブポイントが作られると早速それが評価の基準になる.アンカリングだ.ビリーは2線級の投手をクローザーにしてセーブを稼がせてトレード市場に出すということを繰り返した.
  • 私はTKに興味を持った.ここで偶然の幸運が2つあった.知り合いの心理学者にこの話をしたら,カーネマンなら知っているしすぐそこにオフィスがあるよ,会いに行ったらといわれた.また,トヴェルスキーの息子とも知り合いになり,伝記を書くことになったのだ.そしてわたしは「The Undoing Project」を書くことができたのだ.

 

ピンカーとの対談

 

  • ピンカー:取材してこの2人の印象はどうだったか
  • ルイス:ダニー(カーネマン)の超パワーはその疑う能力だ.自分がファストアンドスローを書いているときにすらその価値について疑い続けていた.エイモス(トヴェルスキー)はとにかく頭が切れた.ニスベットは,「エイモスに会って彼が自分より頭が良いと気づくまでの時間の短さ」をIQの指標にできると言った.また行動も合理的で,パーティに出かけてもつまらないと思えば10分で退席し,映画もつまらないと思えば5分で退場した.サンクコストをカウントしないということなのだろう.

 

  • ピンカー:私のダニーの印象はセンシティブで批判に傷つきやすい人というものだ.エイモスはとにかく楽しい人だった.ところで,マネーボールの出版から17年経つが,メジャーリーグの球団は皆取り入れたのだろうか,それはそのような戦略の有利性をキャンセルしたのだろうか.また野球はつまらなくなったのか面白くなったのか.
  • ルイス:マネー・ボールがメジャーリーグを席捲したのは確かだ.しかしこれは私が書かなくてもそうなっただろう.ボストンレッドソックスを買収したヘンリーは既にビリーのやり方の効率性に気づいていてそれを取り入れようとしていた.私との取材の時には,「これを本にしないで欲しい,(A’sから引き抜きたいので)ビリーを紹介して欲しい」と言っていたほどだ.そしてその後ほぼすべての球団がビリーのやり方を取り入れた.
  • しかし「マネー・ボール」の現場の評判は散々だった.球団のマネジメントやスカウト達は「そんなくだらないことを読む必要はない」と広言していた.それは彼等の職を脅かしたからだ.これはフラッシュ・ボーイズの時にも同じようなことがあった.しかし本はよく売れ,それを読んだ金持ち達は知り合いの球団オーナーに「君はもしかしたら金を無駄にしているかもしれないよ」と本を読むことを推薦した.そして(本を読んだ)オーナー達は素速く動いた.メッツやカージナルズは(抵抗する)マネジメントを総入れ替えした.これは非効率が顕わになったとたんに市場は効率的に反応したということだと思う.
  • では今どうなったか.マネー・ボールのやり方が行き渡ったために野球市場の非効率を見つけるのは格段に難しくなった.選手の価値評価についてはコンセンサスが得られつつある.ビル・ジェイムズはテレビで統計数字が延々と表示されるのについて野球が少しつまらなくなったと評した.たしかにヴィヴィッドさが評価されないから少しはそうなったかもしれない.しかしこのような批判は野球だけのようだ.バスケットではスリーポイントの価値が明らかになりゲームは面白くなっている.
  • TKの仕事はアーティファクトだとかちょっと面白いが役に立たないとか批判された,しかしA’sの快進撃を説明できたのだ.

 

  • ピンカー:金融市場ではどうなのか.行動経済学を理解したトレーダーは有利になるのか
  • ルイス:それはスポーツとは少し異なっている.ヘッジファンドがビリーと同じことはできないだろう.市場は非効率がわかるとすぐにそれをなくしてしまう.私がウォールストリートにいたときにオプションやデリバティブ取引が始まった.ごく初期にはトレーダー達もバイアスを持っていたが,あっという間にそれは気づかれて効率的になった.

 
(ここから学生の質問)

  • 最初の学生:これから野球はどうなっていくのだろうか
  • ルイス:スポーツはどんどんサイエンティフィックになっている.1つにはテクノロジーも進展しているからだ.最近の動きにはコーチングの革新がある.ピッチャーの腕の動きの速さと球速を見ると動きに無駄があるかどうかがわかる.そういう非効率性をより見つけられるようになるのだ.アストロズは技術系の球団職員を大幅に増やしている.古いファンには面白くなくなるという議論はある.それはMLBがNFLやNBAと違って過去からの連結を大事にしているというところがあるからだ.感情的な部分だ.コミッショナーやGM達もわかっている.しかし片方で統計的な視点で楽しむファンもいる.私はビリーに新しい長打率やOPSなどの数字を球場に表示して,ファンに解説すれば良いじゃないかといったが,このような啓蒙はまだなされていない.
  • 2番目の学生:新型コロナで大規模な財政支出がなされるが,インフレリスクについてどう思うか
  • ルイス:それは経済学者の間で議論になっている.私はそこについてコミットできるわけではないが,1つ気になっていることはある.それはトランプ大統領が政府債務の信頼を崩すのではないかという心配だ.彼は個人的に何度もデフォルトを起こしているし,アメリカ国債について,中国が持っている分は我々から盗んだものだという言い方をする.これはリアルにリスクだ.

 

  • 3番目の学生:個人としてバイアスを自覚してできることはあるか.先ほどのエイモスの話を聞いてオバマ大統領が食事の時に何を食べるかなどの意思決定をしないようにしていると聞いたことがあることを思いだした.
  • ルイス:私は個人的にオバマ大統領を取材したことがある.そのときに「あと30分であなたが死に,次の大統領が私だとしたら30分で何を引き継ぐか」と聞いたことがある.彼が最初に言ったのは「意思決定はすればするほど疲労して質が落ちる.できるだけつまらない意思決定は避けるように」ということだった.それは実際にそうなのかもしれない.

 

  • ピンカー:このハーバードの学生のある程度の割合はウォールストリートに進むだろう.何かアドバイスはあるか.
  • ルイス:ウォールストリートでは大金を稼ぐことができる.私はウォールストリートで成功した人をたくさんみてきた. そしてわかったことがある.「その大金は自分の才能が稼いだもので,自分が自分のために使ってよいのだ」と考える人達は,結局大金を持っていてもあまり幸せにはなれないようだ.そうではなく「自分は大金を稼いだが,自分の才能はそれを世の中のために使うところにこそある」と考えてそれを実行する人は皆幸せに見える.そのように心がけることをお勧めする.

 
 
やはりマネー・ボールの話は面白い.日本のプロ野球でも随分セイバーメトリクスは知られるようになったが,あまり長打率やOPSが表示されたり報道されることはない.個人的にはこのあたりを含めていろいろ変えていった方が面白いと思うのだが.
 
メジャーリーグのマネー・ボールの先についての本ではこれが面白かった.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20160414/1460587238


行動経済学的な分析としてはこの本が面白かった.(この本はピンカーがこの講義で説明している「ホットハンド錯覚」錯覚の発見前なのでホットハンドはないということになっている)私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entries/2012/08/11

 
また最後のウォールストリートに進む学生へのアドバイスにも味がある.お金は大切だが,大金を稼いだあとの幸せのつかみ方はそれまでとは少し異なる側面があるということなのだろう.


 

第18回 「コロナウイルス時期における合理性」

当初は「合理的楽観主義」が予定されていたが,今回新型コロナウイルスのパンデミックを受けて,これまでの講義のレビューにもなるだろうということからピンカーによる講義「コロナウイルス時期における合理性」に変更になっている.(なお本講義は4月6日になされている.その時点のケーススタディとして受け取るべきものだ.いずれにせよタイムリーで興味深い講義になる) 講義前の音楽はトム・レーラーの「I Got It from Agnes」

  • 今回のコロナウイルスパンデミックについてはいくつかの疑問がある.なぜパンデミックがあるのか,我々の理解は正しいのか,我々の恐怖は合理的か,なぜ最適行動が取れなかったのか,ウイルスに勝てるのかなどだ.これから見ていこう.
  • これに関連するのは,進化した心理適応,利用可能バイアス,指数関数増加の直感,事前と事後,ベイズ推論,将来割引,社会政治バイアス,そして合理的楽観主義になる.

 

<感染症はなぜあるのか>
  • 聖書は神による懲罰だと教えているが,現代ではこれは自然淘汰から産まれる普通の性質だとみることになる.生命はレプリケータだ.レプリケータは利己的で機会主義的だ.病原体レプリケータから見ると生物個体はエネルギーと栄養と複製システムマシナリーの塊で,これを利用することになる.そしてライフサイクルが短いので進化的にはホストより有利だ.だから病原体はユニバーサルで指数関数的に増える.
  • イーワルドは病原体の進化生態を研究した.(他種の生物からヒトに移って来た際など)最初にホストに取り憑く際にはホストを殺すような強毒性の病原体にアドバンテージがあると考えられる.皮膚などの防衛をかいくぐり身体の深いところに潜り込んでできるだけ搾取する.しかしすぐに変異体との競争になり,表面付近にとどまり,ホストを生かして感染を広げる方が有利になり,そう進化する.これが弱毒化進化だ.風邪などはこのような若語句かが生じた結果だと考えられる.
  • しかし常にそうなるわけではない.例えば媒介者が動き回れるならホストを殺すまで搾取した方が有利だ.蚊媒介の黄熱病やマラリアはこのケースだ.下痢で広がるもの(赤痢),密集環境で進化した場合も同じだ(スペイン風邪).また外環境で長い間耐えられるようなカプセルに入っていても弱毒化は生じにくい.天然痘や炭疽菌はこれだ.しかし耐性自体コストが高いのでユニバーサルにはならない.

 

  • では今回はどう考えればいいのだろうか.ここでこの新型コロナウイルスはとりわけ厄介な性質を持っているということがわかる.
  • まず感染後無症状の間にホストが動き回り握手や咳などを通じて感染する.外環境でもしばらく耐えられる.これにより強毒性なのに感染力が高い.しかし体表面にとどまり弱毒のものが有利になればそう進化する.だからソーシャルディスタンスは重要だ.

 

  • では何故我々は(病原体との進化競争に負けて)死に絶えていないのか.それは3つの防衛があるからだ.
  • (1)免疫システム.(SIRシミュレーションを示し)免疫があるヒトが増えると感染は終息する.
  • (2)次の防衛メカニズムは行動免疫だ. 感染者とのコンタクト,コンタクトの際の感染率を行動により下げることができる.内向的行動傾向,よそ者嫌い,そして汚物嫌悪だ.
  • ヴァレリー・カーティスは汚物嫌悪が適応であると指摘した.病原体媒介物のリストと人々の嫌悪感リストには高い相関性がある.(糞尿,吐瀉物,腐敗物,精液,ネズミ,ダニ,ハエなど)そして病原体媒介物に似せた物体とそうでない物体のどちらがよりいやかを調べた実験結果も示した
  • (3)そして最後の防衛が合理性だ.我々は世界の仕組みを知り,それを用いて感染を抑制できる.ワクチン,抗生物質,様々な介入方法(公衆衛生,ソーシャルディスタンス,テストと行動トレース)

 

<では我々の反応は合理的か>
  • 我々のここまでの反応は合理的だったか,あるいは我々はバイアスの犠牲になっているのか.1つずつ見ていこう.
  • (1)事前と事後:感染した場合の死亡リスクは?WHOは当初3.4%と発表した,これは恐ろしい数字だ.しかしこれはp(死|テストポジティブ)だ.テストは症状がある人が受けていてランダムサンプリングになっていない.真に問題なのはp(死|感染)なのだ.最近のランダムテストの結果から考えるとp(死|感染)は0.3%以下のようだ.
  • (2)ベイズ推論:この問題は面白いことに通常扱われる稀な病気の診断問題とは逆になっている.特にニューヨークのような地域では感染率は比較的高く,擬陽性率は高くないが,偽陰性率が高い.つまりテストの陰性はあまり意味がないかもしれない.
  • (3)リスク評価バイアス:今回のパンデミックは利用可能バイアス(メディアのカバレッジ,有名人のケース,ヴィヴィッドなイメージ)恐ろしいリスク(新しくコントロール不能で潜在的にカタストロフィック)の典型的なケースになっている.
  • だから我々の恐怖は確かにバイアスしているだろう.
  • では恐れすぎなのか.

 

  • そうではない.
  • (1)世界の安定性の前提が満たされていないかもしれない.ベースレートは世界が安定していて初めて意味を持つ.今回のパンデミックは世界を変えてしまっているのかもしれない
  • (2)相殺方向のバイアスがある.ヒトは指数関数増加を直感的に理解できないのだ.実は嫌悪反応に関してはある程度指数的な直感が働く(汚染物が接触した場合など).これはある意味対感染症の適応心理かもしれない.しかし抽象的な課題では指数的増加は直感的に理解できなくなる.そして指数的増加は結果としてのファットテイルの冪乗分布を生む.正規分布と違ってものすごく悪いことも生じうるのだ.実際に過去のパンデミックはその時点での平均余命を大きく下げている.これは世界大戦よりはるかに大きな影響だ.そして現在(4/6)世界のDTは7日,アメリカのDTは5日なのだ

 

<なぜ正しく準備できなかったのか>
  • 早期警戒ネットワークもマスクの備蓄もテスト体制もシミュレーションドリルもなかった.歴史を振り返ればパンデミックは決して予見不可能ではないにもかかわらずにだ.
  • それには将来割引心理が関わっている.進化環境の不確実性のため,我々は現代環境からそうすべきよりはるかにスティープにそして(指数的でなく)双曲的に将来価値を割り引く.これが準備を難しくしたのだ.

 

<なぜ現時点で断固たる行動を取れないのか,一部の人は密集し,握手を続けるのか>
  • これは典型的な共有地の悲劇だ.個人にとっての今すぐのメリットある行動が集合的な災害を生む.

 

<ではこの不確実性の中どう行動すべきか>
  • これは講義でやった統計的意思決定モデルが使える.信号を致命的疫病,ノイズをただの風邪として,どの程度の知見があれば経済再開を始めるかを決めることができる.そしてそれはペイオフの評価に依存する.ここで考えなければならないのは,シャットダウンを続けることによる経済的コストには(自殺などの)人命がやはり含まれるということだ.この相対的価値を考えなければならない.

 

<それだけか>
  • そしておそらく今回の不手際の主因はいま見てきたバイアスではなく社会的政治的バイアスだろう.
  • トランプ大統領は当初民主党のコロナ騒ぎをHoaxだとこき下ろした.パンデミックすら政治的ディプレイの材料にしたのだ.そしていつ2マイル以上の移動を避けるようになったかというアンケートを見ると明らかに南部と中西部でその時期が遅い.政治的イデオロギーと高い相関があるのだ.これはトランプ発言の効果としか説明できない.

 

<合理的楽観主義>
  • で,当初の講義案に戻ろう.合理的楽観主義はお花畑楽観主義とは違う.それは合理性を使えば将来を明るくすることができる」という信念のことだ.
  • 今回のパンデミックでも合理的楽観主義をとるべき理由がある.多くの国は対策の結果感染を抑えつつある.アメリカでもテスト件数は増えている.合理性の応用(疫学の知見利用,企業やWHOの対応,ワクチン開発努力)も進んでいる.
  • 最後にいくつかのいいニュース,個人でできることの関連サイトを紹介しておく.(80000hours,Our Worldなどのサイトが紹介される)

 
なお今回の新型コロナウイルスについてはよくわかっていないことが多い.これは4月上旬における合理的な評価ということになるのだろう.

ピンカーのハーバード講義「合理性」 その8

ピンカーの合理性講義.第15回は気候変動問題,第16回は犯罪がテーマの応用編だ.
 
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第15回 「気候変動」

第15回は特定イッシュー「気候変動問題」を扱う.ゲストレクチャラーはソロモン・ゴールドスタイン=ローズ.26歳の気候変動活動家で,既にマサチューセッツ州の下院議員を2年務めているそうだ.またゴールドスタイン=ローズは気候変動問題について最近「The 100% Solution」という本を出している.ピンカーは気候変動問題では今まで読んだ中で最も良い本だと褒めている. 講義前の音楽はエラ・フィッツジェラルドの「Too Darn Hot」
 

 

ゴールドスタイン=ローズによる講義「100%の解決策:気候変動問題へのプラン」
  • 気候変動問題をめぐっては人々の間に政治的な分断がある.これを分析すると2つの動きが顕著だ.
  • (1)1つは道徳的イデオロギーとでも呼ぶべきもの.多くのアクティビストやあまりこの気候変動問題に関心のないリベラルの政治家に多い.彼等は気候変動問題を道徳の問題と捉え,皆で我慢して道徳的に正しい風力や太陽光エネルギーに転換すれば良いと考える. 彼等は実効可能性の分析をしないし,問題解決のタイムラインもない.経済的な分析にも無関心だ.中国や途上国もついてくればいいというだけで,彼等とどうやって協力していくかのプランもない.ある意味マジカルシンキング的な立場だ.
  • (2)もう1つの動きは中庸イデオロギーだ.これは中道的,実務的政治家やコメンテイターに多い.彼等はシニカルだ.今の目標は物理的にも政治的にも不可能だとあきらめ,政治的現状を受け入れてしまっている.

 

  • どちらの立場も問題を解決できない.私は解決可能な問題に取り組むエンジニアとして行動したい.

 

  • まず温暖化ガスの排出状況をよく見て見よう.皆が注目するエネルギー関係は半分程度だ. 農工業のプロセスに関係するようなものも多いのだ.エネルギーだけでなく広い取り組みがまず必要だ.そうした分析の上,まず技術的な部分で5つの方針を提示したい.

 

  1. クリーンな電力の増加:現在10PWh/yだが,現状だと2050年に30程度になる.しばしば挙げられる目標は50程度で,風力と太陽光がいいのか,原子力かなどの議論をしている.しかし真に解決を目指すなら100~140程度が必要だ.使えるものは何でも使っていくということにするしかない.
  2. 電気化:自動車,トラック,電車だけでなく船,暖房,炊事,アンモニア製造なども電気化を進めるべきだ.
  3. 水素などの合成燃料の推進
  4. エネルギー以外の分野の温暖ガス削減:牧畜(牛),セメント製造,農林業のやり方には改善余地が大きい.
  5. 炭素隔離:森林保全や植林,その他の炭素隔離テクノロジーを開発推進すべきだ

 

  • これまでは技術サイドの話だった.では政治的にどうやって進めていくのか.問題は先進国だけでは解決できない.途上国にとっては先進国で今やっているような削減は貧困問題や経済問題から不可能だ.これをどうするか
  • 私はアメリカは独自に世界のためにできることをすべきだと思う.そして長期的な経済的犠牲なしにできることがある.それは電気自動車などの様々なガス削減デバイスを大量生産して安価に提供することだ.これは中国との合意なくとも実行可能だ. これらをさらに詳しく「The 100% Solution」で論じた.興味のある人は是非読んで欲しい.

 

ピンカーとの質疑
  • ピンカー:全く犠牲なしにはできないのではないか
  • ゴールドスタイン=ローズ:それは犠牲の定義次第だが,今までの自由が制限されることもあるし,特定業界にとっては厳しいこともある.

 

  • ピンカー:農工業のやり方を変えればコストがかかるのではないか
  • ゴールドスタイン=ローズ:最終的にはより安価で安全な電力供給につながり,必ずしもコスト高ということにはならない.

 

  • ピンカー:マクロンは炭素税の導入をしようとして,激しい抵抗に遭って断念したがどう考えるか
  • ゴールドスタイン=ローズ:最後は説得の問題.リベート(補助金)などの対策も含め,皆にメリットがあることを説得することは不可能ではないと考える

 

  • ピンカー:原子力は最終解決には不可欠だと思うが,現状の反対論も合わせどう思うか
  • ゴールドスタイン=ローズ:原子力は非常に集中したエネルギー源であり,温暖化ガスフリーだ.そしてそれによる死者も化石燃料やバイオマスとは桁違いに少ない. だからこれは解決には重要だ.もっと小さくて安全な原子力ユニットを開発してコストを安く,これを皆に説得していくしかないと思っている.

 
最後に政治家としてのキャリアやこれからの抱負などを語って終わりになった.若くて聡明かつ積極的でブリリアントな政治家だ.ピンカーがゲストとして呼ぶのもわかる.とて印象的だった
 
 

第16回「犯罪」

 
ゲストは社会学者トーマス・アブト.冒頭でピンカーの導入がある.(講義前の音楽は収録されていない.冒頭は映画「ジョーカー」の紹介から始まる)

ジョーカー(字幕版)

ジョーカー(字幕版)

  • 発売日: 2019/12/06
  • メディア: Prime Video

 

  • 全米では1960年代後半から90年代前半まで高犯罪率の時代があった.(これは最後の質疑でも取り上げられる) そして現代でも重大犯罪は(アメリカにとって)非常に大きな問題だ.殺人による死者は(世界大戦を除くと)戦争より多い.若い男性の死因としてメジャーなものになっている.都市犯罪は都市生活に深く影響を与える.そして犯罪問題はしばしば大統領選の焦点になり,ニクソン,ジョージ・W. ブッシュ,トランプの当選に影響を与えた.
  • またこの暴力犯罪には謎が多い.多くの(社会科学者による)根本原因の指摘は間違っている.
  • 格差も不況も犯罪の増減を説明できないのだ.そして対策プログラムはしばしば何の影響も与えないか,逆効果を生む.

 

  • 今日は「社会科学の王族(royalty)」とでも形容すべき社会科学者アブトに話してもらう.アブトは最近アメリカの都市犯罪にエビデンスベースでどう対処すべきかを極めて合理的に解説した「Bleeding Out」を出版している.

 

 

アブトの講義「犯罪」

 

  • まずエビデンスインフォームドポリシーについて説明しよう.これはデータ収集,リサーチ,プログラムを良く受け入れられている科学的手法に基づいて行うものだ.医療面ではブラインドテストなどの手続で知られる.これには客観性,正確性,一貫性,透明性のメリットがあるが,多くの分野では不十分で,すべての状況で使えるわけではない,コロナ問題のようにエビデンスがほとんどない場合もある.
  • 私はこのエビデンスインフォームドポリシーという手法をチャーチルにちなんで「最悪の手法だ,ただしこれまでのすべての手法を除けばだが」と表現したい.

 

  • さてでは都市犯罪にどう対処すべきか.本では私はこの問題をERにたとえている.脚を銃で撃たれた貧しくてギャングらしいアフリカ系アメリカ人がERに担ぎ込まれたとする.出血多量で既に失神している.どう対処すべきか. マイノリティに教育と職を与える運動を始めるべきか.犯罪を疑って警察に通報すべきか.
  • しかしまずすべきは出血を止めることだ.物事の対処には順番があるのだ.私はトリアージ,診断,対処,展望というステージで説明したい.

 

<トリアージ>
  • 殺人はアメリカに極めて高いコストを課している.これはあまり意識されていない.
  • まずほかの先進国の7倍の殺人被害者(2018年で16000人超)がいて,銃で撃たれた者は25倍だ.
  • 直接コスト(司法や医療)だけでなく間接コスト(被害者の家族や社会に与える影響,不動産価格の低下など)を含めると殺人1件あたりのコストは10~19百万ドルになる.そしてそれは銃,ギャング,ドラッグ,若者の都市犯罪が大半だ.
  • 911以降のテロ被害者は400人程度,銃乱射事件の被害者は500人程度だが,殺人被害者は類型10万人以上なのだ.そしてこのコストは特にアフリカ系の貧困層を直撃している.アフリカ系はアメリカ人の13%だが犯罪被害者の50%を占める
  • そしてコミュニティへの影響も甚大だ.これは貧しいアフリカ系の子どもにとっては人生のチャンスの大幅な低下になっており,影響はシビアだ.
  • よくある説明は人種差別→住居地域分断→貧困の集中→犯罪多発だが.逆方向の因果もある.
  • だからまずこの都市犯罪に対処すべきなのだ.これは最重要ということではなく,まずとにかく取り組むべき課題だということだ.

 

<診断>
  • 都市犯罪はどのようなもので,どのような対策が有効なのか,私は1400以上のスタディをメタ分析した.その結果は3つにまとめられる
  1. 集中:都市犯罪はホットな人々,ホットな地区,ホットな行為態様に集中している.半数の都市犯罪は人口の0.06%の人々が引き起こし,4%の面積の場所で生じる.そして態様も違法銃所持,ギャング,ドラッグがらみに集中している.
  2. バランス:ヒトは報酬にも罰にも反応する.犯罪も同じで予防対策も厳罰対策もどちらも効果がある.しかし重要なのはどちらも用いることだ.片方で成功した都市はない.
  3. フェアネス:都市犯罪への対処の有効性には正統性が重要になる.それは手続の公平性,市民やコミュニティと当局の間の信頼,そして対策の有効性が要素になる.手続が不公正では信頼が生まれず,遵法意識もなくなり犯罪が多発する.そして犯罪が多くなると扱いがぞんざいになり有害なサイクルが生じる.このサイクルを逆転させる必要がある.それは手続の公平性から始めることができる.

 

<対処>

本では10の戦略を提示した.今日は2つだけ話そう.

  1. フォーカスした抑止戦術:ハイリスクの個人やグループを特定し,(癒着を避けるために)担当人事を流動化させ,報償と罰について直接コミュニケートし,実績をフォローする.対策の効果量は大きく,分析では0.383(特にグループ犯罪では0.657)ある.
  2. ホットスポットポリシング:多発地域について重点的にパトロール,身体検査を行う.効果量は0.184だ.

 

<展望>
  • これらを組み合わせて対処していくことが望ましい.私の提案は現行法のままで対処でき,特になんらかの行政組織を作ることも必要ない.コストも小さい.フォーカス,バランス.フェアにやっていくだけだ.
  • 私の試算では9億ドル程度をかけて40都市で展開すれば殺人を年間12000人程度減らすことができる.これはコストを1200億ドル節約できることになるのだ.都市犯罪は最も重大な問題で,解決可能なのだ.やるべきだ.

 

ピンカーとの質疑
  • ピンカー:アメリカで1960年代から犯罪率が上昇しているが,原因についてはどう考えているか
  • アブト:これは多くの学者が検討して結論が出ていない.私に何か特別なアイデアがあるわけでもない.おそらく多くの要因が絡んでいるのだろう.私としては地方政府のガバナンスの要因に注目している.

 

  • ピンカー:1990年代の減少についてはどう考えるか
  • アブト:これも多要因だろう.私はドラッグマーケットの構造変化という説明に注目している.またデモグラフィック,年齢構成,経済状況も関係しているだろう.ただ収監率だけはほとんど影響がないようだ.

 

  • ピンカー:殺人の多さの先進国内でのアメリカの異常性についてはどう思うか.アメリカのガバナンスがエリート偏重だからだという説もあるがどうか
  • アブト:そこもおそらく複雑に要因が絡んでいるだろう.ガバナンスの影響についてはラテンアメリカとの比較が役に立つ.確かに政府組織が弱いと犯罪は多い.アメリカについては,諸先進国と比べて特に暴力的ということはないと思う.しかし致死率が高い,それは銃の問題が関係している.銃についていえば,現在の政治状況では減らす方向に向かわせるのは難しい.そして今提案されているような銃規制は都市犯罪にはあまり影響を与えないだろう.ほとんどの犯罪は既に彼等が大量に持っている違法な銃で行われているからだ .

 

  • ピンカー:今日の話は都市のギャング間抗争のような犯罪に集中している.駐車スペースをめぐる殺人とか,家族間の殺人は介入効果が低いということか
  • アブト:殺人の分類としてはコミュニティの殺人と家族,パートナー間の殺人という分類がいいと思う.駐車スペースなどをめぐる若い男性間の殺人はコミュニティの方に入るだろう.家族間やパートナー間の殺人は確かに安定している.しかしアメリカで圧倒的に多いのは都市犯罪を含むコミュニティのものだ.

 

  • ピンカー:米国内の地域差,年齢差,性別差についてはどうか
  • アブト:リージョナルな差についてはあまり詳しくない.ただ都市犯罪に限っていうと地域間の差はあまりない.年齢性別についていうと若い男性が多いのは確かだ.しかしそれより重要なのは人種差別や貧困との絡みだろう

 

  • ピンカー:南部の名誉の文化との関連についてはどうか
  • アブト:これは面白い問題だと思っている.しかし都市犯罪に限っていうと,(北部の都市でも)トリビアな侮蔑はしばしば殺人に発展する.彼等にとって侮蔑を許さないことは非常に重要なのだ.これにも介入が可能だ.コロンビアはかつてこの側面が非常に強かったが,政府がきちんと機能するようになって緩和している.

 
最後にアブトはピンカーの本のファンであり,ヒトの進歩に向かう能力を信じていること,重大な問題へのチープで効果的な解決策があるのだから,是非実現させるべきだと思っていることを述べて終了した.

ピンカーのハーバード講義「合理性」 その7

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合理性講義,一旦応用編に入っていたが,第13回はヒトの非合理性が社会的動機,特に部族主義的動機からも来ているという記述モデル的なピンカーによる講義が1回挟まる形になっている.第14回は応用編に戻り,双曲割引問題を扱う.
 

第13回「社会的,政治的バイアス」

 
いよいよCOVID19によるパンデミックの影響が出始め,講義参加者が大きく減り,教室では社会的ディスタンスをとるように教示がある.その中でピンカーの講義が始まる.
 

  • これまでヒトの意思決定のいくつかの非合理性を見てきた.コストや計算リソースの限界,それを解決するためのヒューリスティックス,フレーム,用語,会話文脈の影響などだ.今回はまた別の非合理性のソースを考えよう,それは社会性の影響だ

 

  • メルシエはヒトの合理性は議論で相手を説得するための適応だと論じた.では何故そもそも他人を説得しようと思うのか.1つには他人と議論することで自分の誤謬に気づけるし,グループでの議論は真実に近づく1つの方法だということがある

 

  • しかしでは何故ヒトは(真実を追求するより)議論に勝とうとするのか.1つは訴訟など真実追究のための合理的な方法だというものがある,しかしそこには(真実追究からみると)非合理的な理由もある.それは「社会的地位獲得の動機」だ.議論に勝つことは友人,同盟,配偶の相手(潜在的相手を含む)に「自分が善良で有能である」こと印象づけるのに役立つのだ.古典的なバイアスで地位が絡むものにはいくつかある.
  1. 自信過剰バイアス:これは自己宣伝に有利だ.(ハーバードの学生に自分が様々な能力でクラス内で上位何%に入っているかのアンケート結果は面白い.運転や身体能力ではやや高め程度だが,正直,見た目の良さ,知性では凄く高い評価になる)
  2. 自己奉仕バイアスとしての本質的帰属誤謬:他人の行動や態度はその人のキャラクターのせいにして状況要因を無視する.自分についてはネガティブな問題では状況に,ポジティブな問題ではキャラクターに帰する
  3. バイアスの盲点:他人はバイアスを持っているが自分は客観的でバイアスフリーだと感じる
  • さらに興味深いのが,グループ間で見られるバイアスだ.ヒトは基本的になんらかのグループに属していると感じて生きている.それは部族,宗教,人種,国家,民族,スポーツチームなどだ.実験では単純な絵の好みで分けたグループでもこの帰属感が生じる
  • そしてグループ間競争は自律的な動機となる.そこでは自分の自己概念はグループの幸運とマージする.そして自分のグループメンバーには利他的に,そうでないグループメンバーにはより罰を与えるように振る舞うようになる.

 

  • このような部族主義が自己奉仕バイアスと組み合わさるとマイサイドバイアス(自分のグループは正しく相手のグループは邪悪で間違っている)となる.さらに政治的イデオロギーと組み合わさるとイデオロギーバイアスになる.このイデオロギーバイアスはとりわけ悪質だ.これは動機のある理論構築を生み,より知性やエキスパート性があるとよりバイアスが強くなるからだ.

 

  • このバイアスのサブセットにはバイアスのある証拠探し,バイアスのある証拠評価がある.同じデータセットでもイデオロギーにより目がくらむ.(イントロダクションでも紹介された実例がもう一度紹介されている)
  • このようなバイアスは,なぜヒトは時に奇妙な信念を信じるのかを説明できる.世の中には確立した科学知識と矛盾した信念を持つ人達がいる.創造論者,フラットアース信者,陰謀論,怪しい健康食品など. 標準的な説明はこのような人々は科学的に無知だというものだ.しかし実際に調べるとそうではないことがわかる.(創造論や気候変動についてのリサーチが説明される) 創造論を信じるかという質問は彼等の宗教とだけ相関している.気候変動については彼等の政治的方向性や政治イデオロギーが相関するのだ.狼男やユニコーンの実在性などほとんどの事柄については科学的知識が皆に受け入れられている.ごく一部の政治的感情的問題だけが例外になる.
  • ダニエル・カハンは科学的知識の否定は特定の社会グループへの忠誠の表現だと論じた.科学的知識を問う質問は,個人にとっては真実を聞かれているのではなく,自分が何者かを聞かれていることになる.
  • ではそもそも政治的イデオロギーとは何か.リサーチによるとそれは「自然な権威を認めるか,強制的平等主義か」「個人主義か,団結主義か」という2軸平面上のクラスターとして現れる.では現実の政治イデオロギーはそのような一貫性のあるものと恣意的な部族のどちらに近いのだろうか.
  • 実際に調べてみるとすべての意見に一貫性があるわけではない.ロシアに親近感を持つかどうかについて保守派は(トランプの態度に影響され)変化している.これは最近のコロナウイルスをめぐる意見にも見られる.多くの右派コメンテイターはトランプの意見に迎合してコロナの脅威をダウングレードし,ある有名な右派のパンディットはコロナ騒ぎをフェイクニュースと断じた.
  • このような部族主義的な非合理性は,個人にとって社会的視点から見て合理的だ.真実を支持しても個人にメリットはほとんどないが,自分の属するグループから疎外されるとその影響は大きい.だからグループの意見を受けいれた方が得なのだ.しかもコストリーシグナルの理論からは,馬鹿げた信念ほど信頼性があることになる.つまり社会的地位は信念の途方もなさを強化する.しかし(気候変動やパンデミックを考えると)これは国家や世界には災いだ.これは信念共同体の悲劇なのだ.

 

  • では科学やアカデミアや政治エリートはどうなのだろうか.我々は真理の探究者なのか,それとも単なる部族なのか.主流の意見は「すべてを自分で理解することはできないから,アカデミアのエリートを真理探究者として信頼しよう」というものだ.しかし反ワクチン主義者,ニューエイジ理論家,陰謀論者などは「あいつらも別の部族に過ぎない」というだろう.
  • 本当はどちらなのか.アカデミアも1つの部族なのか
  • 答えは「えーと,そうだとはほぼいえないのではないか,あるいはまだそうはなっていないと思うが,しかし・・・」となる
  • 心配の種(1)アカデミアの視点の多様性は失われつつある.ここ20年間でアカデミア,特に人文科学と社会科学において左派,リベラルが圧倒的多数派になっている.
  • 心配の種(2)左派のそれと異なる意見についての弾圧や粛正の動きがある.特に性差,人種差,セクハラ,IQの遺伝性などのトピックについてそうなりつつある.

 

  • これはどう考えるべきか.
  • 左派は正しいからいいのか,そうはいえない.
  • では左派は歴史的に正しかったとはいえるか.確かに女性やマイノリティの権利擁護,環境保護,労働環境の改善,平和主義などでは正しかったといえるかもしれない.しかし共産主義のジェノサイドの否定,貧困の減少についての資本主義や市場やグローバル化の役割の否定,アメリカの犯罪減少についての考察など左派の誤りも多い.

 

  • デュアルテは「政治的多様性が社会心理学をより良くする.政治的モノカルチャーは社会心理学を悪い科学にするだろう」と言っている.例えばステレオタイプが間違っていない場合(ある意味事前確率の1つでもある)を認識し損ねる.また保守派がより偏見を持つと間違って認識しやすい.確かにアフリカ系アメリカ人に対しての偏見は保守派の方が大きいが,ファンダメンタルクリスチャンへの偏見はリベラルの方が大きいのだ.
  • アカデミアが政治的なモノカルチャーになると,科学が誰の利益代表でもない真理追究者だという信頼が損なわれる.そして結局科学も1つの部族だという認識が増えてしまうだろう.

 

  • ではイデオロギーバイアスから逃れるにはどうすればいいだろうか.それはまずオープンな議論だ.また科学にはいくつかのセーフガードがある(ピアレビュー,オープンな批判と議論,テニュア制,引用などの慣習など)
  • ほかにもデバイアシングトレーニング,バイアスの自覚,視点の多様性の確保,対立する学者間でのコラボレーション,アクティブなオープンマインドネスの尊重(反対証拠を見る,意見の変更を厭わないなど)などの方法があるだろう.

 
ピンカーはこの非合理的な部族主義ディスプレイについて「21世紀の啓蒙」の第21章で詳しく解説している.そこではアカデミアの左傾化と政治の二極化が相互に補強し合うようになることが懸念されている.保守がレーガン,ブッシュ,トランプとどんどん非知性的になっていく中で政治的保守は知性的でありつづけることが難しくなっていき,リベラルの政治家はしばしば安易にポリコレ警察に堕していくのだ.
これに関してはルキアノフとハイトの本が面白かった.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2019/04/04/172150

 
またこのトピックに関してはこの本も必読だろう.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2020/04/29/093951
 
 

第14回 「将来のためのプランニング」.

 
ここまでは大教室での講義だったがいよいよこの第14回からリモート講義になっている.テーマは将来価値の割引に絡む非合理性(双曲割引問題).ゲストはビナ・ヴェンカタラマンとアダム・ブレイになる.動画は最初の部分が収録されてないらしくヴェンカタラマンの紹介がないが,彼女はカナダ出身で現在はボストン在住.ジャーナリストのキャリアが長く,NYT,ボストングローブで活躍,現在はMITで科学技術と社会の関係を教えている.最近「The Optimist's Telescope」という本を書き,将来を見通して意思決定を行うことを世間に訴えている.そういうことで今回のゲストレクチャーになったようだ.スライドなしの早口でややわかりにくい
 

 

ヴェンカタラマンによるコメント

ピンカーから将来の割引について話してほしいと導入があり,スライドなしで始まる.
 

  • 将来の価値を割り引いて考えることにはどこにもおかしいことはない.しかしヒトは(本来数学的に正しい指数的割引ではなく)双曲的に割り引く.これには将来が不確定だからという正当化要因はある.しかし明確な信頼すべき予測があってもヒトの行動はあまり変わらない.将来を予測できるのはヒトの大きな才能だが不完全なのだ

 

  • しかしヒトはこれに気づけないわけではない.VR的に昔の自分と会話させてみるとそれがわかる.また正しい将来割引が成績を左右するシミュレーションゲームでもそれがわかる.
  • それでもヒトには今を過大評価するバイアスがあるようだ.今回のパンデミックでももう少し早めに手を打っておけばここまでの経済的影響は避けられただろう.

 
ここからピンカーとの対談になる.

  • (ピンカー)それ(双曲割引)は将来が不確定だった進化環境でヒトに備わった本能がデータや予測ツールのある現代環境にミスマッチということかもしれない.これとは別に政治家や政策決定者に合理的に割り引くことへのディスインセンティブがあると思うか
  • (ヴェンカタラマン)9.11の後でグラウンドゼロに立ったジュリアーニ知事には大きな支持が集まった.つまり前もって事故を防ぐより,事故が起こってから対処する方が政治家には有利なのだ.前もって防ぐことに成功しても過剰反応をしたように見られてしまう.もう1つ政治家の支持が投票直前の経済状況に左右されるのもおかしなインセンティブになっているだろう.その基礎を作った政治家こそが評価されるべきだ.この点ではアフリカの某国で面白い提案がなされている.大統領には,退職するときに,国をどう導いたか,腐敗に陥らなかったかなどで評価して褒賞を出すべきだというのだ.再選されるかどうかだけということよりも良い仕組みだろう.
  • (ピンカー)アメリカも取り入れるべきかもしれませんね.ところでこれについてメディアの役割があるのではないか.メディアは常に恐ろしい出来事だけを取り上げ,地道に世界が良くなったことを報道しない.
  • (ヴェンカタラマン)できることはあると思う.まず世界をよくしたことについてもそれを推進した人のプロフィールを報道すれば世間は興味を持つだろう.また振り返りの記事ももっと出すべきだろう.
  • (ピンカー)恐ろしい予測を出して,今行動しなければと訴える方法もあるが,やり過ぎるとどうせダメだと何もしなくなるだろう.片方で楽観的なことばかり報道しても人々は安心して何もしなくなる.このトレードオフについてはどう思うか.
  • (ヴェンカタラマン)私のリサーチによると,差し迫ったリアルな危機には恐ろしい予測を行って人々を促す方がいいが,気候変動のような長期的に取り組まなければならない問題には,ポジティブに「問題は解決できる」と訴えるのが効くようだ

 
 

ここから2人目のゲストレクチャラーの登場になる.

  • (ピンカー)ここからは2人目のレクチャラー.アダム・ブレイに登場してもらう.彼はシドニー出身のハーバードの認知科学のポスドクで,今日はオーストラリアから「プロスペクション」についてレクチャーしてもらうことにした.ここでのプロスペクションとは将来の状況をビジュアライズする認知プロセスを指す.

 

ブレイの講義

  • 将来の状況を予測するのはヒト特有の認知能力のようだ.これはかなり古くから行われている.考古資料によると古代ギリシアで日食を予測するための精密な機器が開発されていたことがわかっている.またエレクトゥス時代のハンドアックスを見ると,これを作るには全体的プランとコンティンジェンシープランが必要なことがわかる
  • 予測の基礎は何か.それは排他的な複数の確率事象への準備ということになる.1本のチューブが二股に分かれていて上からお菓子を落とすとする.4歳児は両方の出口に手を出す.彼女はどちらに来るかわからないことが理解できている.しかし2~3歳児は片方の出口にしか手を出さない.チンパンジーもそうだ.もちろん訓練すれば両方に手を出すようになるが,それは予測とは別の話だ.

 

  • では脳内ではどうなっているか.調べると将来予測と過去の想起では同じ脳内コアネットワークが活性化している.その部分に損傷を受け,記憶障害を起こすと,将来のことを聞かれても何も浮かばなくなる.つまり記憶は将来のためにあるのだ.
  • ではどのように将来を扱うのか.今すぐの小さい報酬か後の大きい報酬かという場面は多い.これは行動経済学的に説明できるだろうか.
  • そしてリサーチによるとヒトは将来価値の割引を双曲的に行うことがわかっている. 割引の傾きは個人や状況により変わるが指数的ではない.ここで面白いのは,ヒトは自分の割引が双曲的であることをわかっていて,自分の選好が将来に逆転すること自体を予測できると言うことだ.つまり状況の予測だけでなく自分の認知状態も予測できるのだ.これがヒトがプリコミット戦略をとれる理由になる.

 

  • そしてこれは行動経済学的な「奇妙な現象」を生む.
  • ヒトはとびきりのワインを今すぐ飲まずに大事にとっておく,つまり楽しみを将来にとっておくことがある.これは楽しみを予測すること自体を楽しんでいるからだ.また歯医者に行くようにもっとひどいことになる前に嫌なことをさっさと済ませることもできる.これは将来のひどい痛みを予測するからで,その予測自体を怖がっているのだ.これは双曲カーブの傾きを下げる効果がある.
  • そしてこれはいわゆる「自制」と同じではない.それは状況により変化することからわかる.例えばマシュマロテストでは子どもは実験者の(約束を守る)信頼性に応じて待つ時間を変える.また世界各国のマシュマロテスト自制時間はその国の平均寿命と強く相関している.これも状況の不確実性に応じて双曲割引の傾きを変えているからだ.

 

  • 予測自体の価値が絡む現象はほかにもある.例えばヒトは(あのとき刹那的に楽しんでおけばよかったと)自分が後悔すること自体を予測する.これは,今すぐ消費することへの正当化理由になる.そして意図的な見せびらかしを生むだろう
  • つまりこれまで短慮で衝動的と思われていたことも,実は非常に熟慮の上の「衝動性」かもしれないのだ.

 

  • もう1つ,この熟慮は報酬の大小によって双曲割引の傾きが変わることを説明する.実際の意思決定には大きなペイオフがかかる.これまで科学者は少額の報酬でこの割引現象を測ってきたが,非合理性を過大評価してきたのかもしれない.

 
ブレイの話は面白かった.ただ「後になって後悔するのがいや」というのは,だから今お菓子という方向にも,将来のスリムさという方向にも,どっちにも働くだろう.なかなか複雑な話だ.
 
双曲割引についてはこの本が面白かった.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20071123/1195786689

 
双曲割引についての私のノートはhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20071123/1195786690

書評 「花と昆虫のしたたかで素敵な関係」

 
本書は生態学者石井博による送粉生態学の解説書である.まえがきでこの本の性格について説明がある.それによると花や送粉者について書かれたこれまでの本は(一部のトピックのみを扱った本を除いて)専門家を対象にしたとても難しいものか,小さな子ども向けに書かれたものしかないので,その間を埋めるべく,トピックを網羅的に取り上げ,それなりに踏み込んだことも扱い,専門的な知識がなくとも理解できる本を書いたということになる.(なお題としては「花と昆虫」となっているが,昆虫だけでなく鳥やコウモリを含む送粉者全般を扱っている)
 
本書の構成としてはまず動物を送粉者として用いることについての進化的な説明があり,そこから様々な送粉者の特徴が送粉シンドロームとともに紹介される.そして興味深い絶対送粉共生をまず解説したあと,訪花者の花選択,送粉をめぐる植物や訪花者の戦略という行動生態的なトピックが取り上げられる(ここが本書の中心部分になる).そして群集生態学のトピックとして送粉系群集を扱い,最後に人為的な影響がまとめられている.記述としては教科書的な記述だけでなく,そこに興味深い事象や最近のトピックが加えられていて読者を飽きさせない工夫となっている.
 
というわけでこれ1冊で送粉に関して一通り興味深いトピックがわかるようになっている.ここでは私的に興味深かったところを紹介しておこう.

  • 風媒に比べた動物媒のメリットで最も重要なものは,送粉者が種や個体ごとに同種の花を訪れる傾向があるため近縁種の繁殖干渉を受けにくいということだ.
  • 送粉者で最も重要なのは膜翅目昆虫(ハチ)であり,次は双翅目昆虫(ハエ)だとされている.
  • 膜翅目昆虫のなかでハナバチ類は最も重要な送粉者になる.それは彼等が種数や個体数で多いこと,幼虫養育用の花粉と花蜜を巣に持ち帰るために精力的に花と花の間を飛び回ることによる.その中で真社会性のハナバチが特に重要だと考えられ,多くのリサーチがなされてきた.しかし実際には(高山帯やツンドラを除くと)単独性のハナバチの方が個体数が多いことも多く,特に花資源が安定的でない地域では単独性ハナバチの方が重要になっている.
  • シタバチ(中南米に分布するハナバチ)に送粉してもらうランは花蜜の代わりに芳香物質を報酬としてオスバチを誘引し,オスバチはそれをメスの誘引やレック形成に用いる.
  • ハエを送粉者に持つマムシグサは雌雄異株であり,雌株の花の仏炎苞には受粉したあとのハエが逃れられる出口がなく(その方がより受粉確率が上がるからそうなっていると考えられる),入り込んだハエはそのまま死んでしまう.
  • チョウが蜜泥棒なのか送粉者なのかについては議論がある.蜜泥棒説は典型的な吸蜜行動では葯や柱頭にあまり触れる機会が少ないと主張するが,チョウが訪花する花には「チョウ媒」として括ることができる共通特徴があり,このような花はチョウを送粉者として積極的に利用しているのではないかと考えられる.
  • 基部被子植物(モクレンやセンリョウなど)には送粉者への報酬として花粉だけを提供するものが多く,それらは甲虫媒であることが多い.これはジュラ紀から白亜紀にかけてまだチョウやハチの多様化が進む前には鞘翅目昆虫が重要な送粉者であったことを示唆している.
  • アザミウマは世代が短く,短期間で急速に増殖することができる.このため豊凶現象のある熱帯雨林の一斉開花期において重要な送粉者であると考えられていた.しかしアザミウマは同じ花にとどまって花粉を食べていることが多く,さらにフタバガキ類のリサーチではアザミウマ食のカメムシ類の方が送粉者として重要であるという結果が得られており,そうだとするとフタバガキにとってのアザミウマは送粉者を呼び寄せるための餌ということになる.
  • (ハチドリのような花蜜食に特化したクチバシを持つ鳥のいない)日本では鳥媒花の多くは冬から早春にかけて咲く.それは細長くないクチバシで花蜜が得られるような花は昆虫に容易に盗食されるためだと考えられる.
  • 鳥媒花の「赤」はアフリカ,アジア,オセアニア,太平洋の島々,南北アメリカで,様々な系統で何度も独立に進化してきたことがわかっている.
  • 南北アメリカで送粉するコウモリはオオコウモリ類ではなくヘラコウモリ類なので,その地のコウモリ媒花には音を反響する構造や反響音を際立たせる仕組みがある.
  • 海洋島ではしばしばスーパージェネラリスト送粉者が存在し,大陸ではみられないバッタ,トカゲ,ヤモリによる送粉も観察される.またオーストラリアには有袋類による送粉,マダガスカルにはキツネザルによる送粉が報告されている.

 

  • サクラソウ科のクサレダマは花蜜ではなく花油を報酬として分泌し,クサレダマバチはクサレダマばかり訪花してこの花油を集める.花油を分泌する植物は送粉者と1対1の関係になっていることが多い.
  • イチジクとイチジクコバチの関係は有名だが,雌雄同株の場合と雌雄異株の場合では少し異なる生活史になっている.雌雄異株の場合雄花で生まれてそのイチジクから分散したメスバチが雌花に潜り込んでしまった場合にのみ受粉が生じるが,そこでは産卵できずに死んでしまう*1
  • ユッカとユッカガの絶対共生関係ではユッカガはユッカの種子に産卵するために送粉を能動的に行う(別の花から持ってきた花粉塊をおしべの柱頭にこすりつける).またユッカにはすべての種子に産卵された場合にはその果実を落としてしまうという罰が進化し,ユッカには一部の種子には産卵しないで残しておく性質が進化している.
  • 同様の関係はコミカンソウとハナホソガの絶対共生系でも観察される.能動的送粉に関しては,コミカンソウは雌雄同株で(普通雌雄同株の場合には送粉者に雄花にも雌花にも来てもらうために同じ匂いで誘引するが)雄花と雌花で匂いを変えており,ハナホソガは匂いで雄花と雌花を区別し,雄花で花粉を集めてから雌花を訪花するという性質が進化している.

 

  • 花蜜が多い花は黄色や白ではなく赤や青であることが多い.これは鳥やチョウやハチを誘引しつつ,ハエや甲虫類の訪花を避けるためだと考えられる.
  • 送粉者の定花性は植物にとっては都合がいい.しかし何故多くの送粉者は定花性を持つのか(どんな花でも蜜や花粉があれば訪花すればいいのではないか).これについては採餌技術習得コスト仮説,情報収集コスト仮説,採餌技術記憶の干渉仮説,探索イメージ仮説などが提唱されており,それぞれ支持するデータがある.

 

  • 一部の花では送粉者を誘引するための(しばしば鮮やかな黄色の)仮おしべと送粉者に花粉を付けるためのおしべ(しばしば長くあまり目立たない)が分化している.
  • 餌擬態花(報酬を与えずに誘引するだけの花)を持つ植物種には同じ集団のなかで花色の多型がみられることが多い.これは無報酬であることを送粉者が学習するために生じる(頻度の高い色の花の方がより素速く学習されるために負の頻度依存淘汰がかかる).
  • ハチのオスを送粉者として利用する性的擬態花は何故かヨーロッパとオセアニアに多い.(アフリカ・アジア・中南米にはごくわずかに例があるが北米ではまだ1種も知られていない.理由はわかっていない)
  • デンドロビウム・シネンセというランはミツバチの警報フェロモンの成分を放出することでスズメバチを誘引する.シンビジウム属のいくつかのランはトウヨウミツバチの集合フェロモンの成分を放出することで分蜂のために出てきたミツバチの群れを誘引する.
  • ランにこのような無報酬の騙し誘引が多いのは,同じ株の異なる花で自家受粉(隣花受粉)されるのを避けるためだと考えられている.ランは花粉が花粉塊という塊になっていてこのリスクが高い.このためある株のある花で騙されたと感じた送粉者がその株を離れることが有利になる.*2

 

  • 強盗型盗蜜を行うことができる訪花者は限られている.クマバチ,一部の短舌種マルハナバチ,一部の鳥類からしか報告されていない.
  • 花色変化は古い花を維持することで花序や株全体を目立つようにしつつ,古い花に訪花者が行かないようにする戦略だと考えられている.またその花序から早く立ち去らせて隣花受粉を減らす効果,送粉者の再訪花を促す効果なども提唱されている.
  • 大きくて目立つ花序は多くの送粉者を誘引できる.するとそこでの送粉者同士の競争も激しく個々の花の蜜は少なくなり,送粉者は早く株を立ち去るようになる(隣花受粉リスクが減る).
  • 花序の中の個々の花が複雑な仕組みを持つために送粉者の採餌にコストがかかる場合,送粉者は花序の中の一度訪花した花への再訪花のコストが上がるため早く株を立ち去るようになる(隣花受粉リスクが減る).
  • ネジバナの捻れ具合は,強すぎると誘引度が下がり,低すぎるとすべての花を送粉者が訪れて隣花受粉リスクが上がる.捻れ具合は誘引度がそれなりに高く,送粉者が一部の花をスキップして次の花序に向かうように最適化されている.

 

  • 一時騒がれた蜂群崩壊症候群については,ネオニコチノイド系農薬の影響以外にも,その他の農薬.パラサイトやウイルス,花資源の均質化による栄養不良,巣箱の長距離移動ストレス,遺伝子組み換え植物の化学物質などの原因が疑われ議論されているが結論は出ていない.おそらくいくつかの要因が複合的に作用した結果だと思われる.
  • ただネオニコチノイド系農薬が何かしらの関わりを持っているという可能性が高いと考える研究者は多くなっている.しかし規制の是非の判断には,代替使用される農薬(多くはヒトに対しての毒性が強い)の負の影響との比較が必要で,問題は単純ではない.化学農薬全般の使用を今より減らすための政策的な考慮が重要だ.

 
本書は著者の狙い通りに送粉生態学についての一般向けの楽しい入門書に仕上がっている.確かに私がこれまで読んできた送粉に関する本は一部のトピックを扱ったものが多く,ここでこの話題を網羅的に読めるのは大変嬉しかった.花や昆虫,そして進化生態に興味のある多くの人に推薦できる良書だと思う.

*1:メスバチにとっては雄花と雌花を見分ける強い淘汰圧がかかるのでこの関係は進化的に不安定に思えるが,イチジク側の完全勝利が続いている,あるいはメスバチが見分けられるようになったら両種絶滅してしまうためにイチジク完全勝利の共生だけ存続しているということらしい.そうするとイチジクにとっては雌雄同株への淘汰圧がありそうだが,引き続き雌雄異株種がある(つまり異株に強いメリットがあるらしいがそれは何か)というのも興味深い

*2:ではそもそも何故花粉が花粉塊になっているのだろうか.その適応的な利点については解説されていない