From Darwin to Derrida その77

 

第8章 自身とは何か その17

 
ヘイグは2人称「sympathy」と3人称「sympathy」間の緊張,つまりあなたにとって望ましい私の態度が世間一般からも望ましいと受け取られるは限らないという問題を指摘したあと,ちょっと面白い随想をおいている.
 

レトリックと美しい手紙についての追想

 

  • このエッセイの初期原稿の唯一の読者は著者自身だ.(著者である)彼の最初の試みはうまくいかず改訂を迫られた.彼の言葉を読み,説得しようとする努力を観察し,(読者である)私のアイデアは形成され,読者と著者の反響の中で,私は自分自身の心を知る.著者である私は心のなかに2人称を持つ.それはこれを読んでいるあなただ.もし私があなたの視点から読むことに成功しているなら,あなたは私の視点から読めるだろう.ちょうど私がスミスの考えについての「sympathy」に入り込んだように,あなたは私の考えについての「sympathy」に入り込む.
  • 現代のアカデミアの書き手はさらに第3者を想定しなければならない.その第3者は著者と読者の2人称のやりとりを観察する.そしてその観察は,著者の意図した意味を直接得ることはできず,著者が使った道具やトリックを通じて意味を探るというものだ.著者の熱烈な2人称的読者との結びつきは,そのような理性的な判断を行うテキストの第3者的読者を満足させるとは限らないのだ.

 
再帰的な要素を持つイメージの反響について考え,執筆しているとこのような思いに捕らわれるということだろう.想定読者をある程度特定して書いていると内容がそれに引きずられ,そしてふとそれが第三者的にどうかが気になる.そしてそれは読者も同じかもしれないというわけだ.
 
ここからアダム・スミスの本の本来のテーマ「道徳」に話が進むことになる.
 

道徳

 

したがって,すべての人が心のなかで,人類全体より自分自身の方を優先しているというのは正しいかもしれないが,それでも彼はあえて人類を真正面から見ず,この原則に従うことを誓う.

アダム・スミス 「道徳感情論」

  • 道徳とは単一のものではなく,本能,理性,文化要素の不完全な混ざり物だ.そしてすべての進化するものと同じく,これらの要素間の関係は再帰的だ.文化は本能により形作られ,本能は文化により影響を受ける.理性的な選択は生得的な行動の進化を促し,その行動は理性なしで同じ目的を得る*1.理性は私たちの目的に最も役に立つ文化的アイテムを選択し,それにより文化は変容する.その一方で理性的な選択は文化的規範により制限される.道徳は深く個人的であるとともに強く社会的であり,内側から湧き上がるものであるとともに外側から強制されるものになる.

 
道徳が本能と理性と文化による混合物で,再帰的な相互関係を持っているというのはなかなか面白い捉え方だ.直感的な道徳と熟考による道徳という捉え方は多いが,さらに文化を含めたその要素間に再帰的な関係があるというのがここからの指摘になる.

*1:ここでボールドウィンが参照されている.

書評 「アメリカン・ベースボール革命」

 
本書は「マネー・ボール」に始まるメジャーリーグにおける数理統計やデータサイエンスの応用の最新動向を扱った本になる.著者はベン・リンドバーグとトラビス・ソーチック.いずれもジャーナリストで,ソーチックは「ビッグデータ・ベースボール」の著者でもある.

メジャーリーグにおける本格的な数理統計の応用は「マネー・ボール」で紹介されたセイバーメトリクスの利用から始まる.これは選手の能力や貢献を測るためには伝統的な成績指標(打率,打点など)よりも有効な指標(長打率,出塁率など)があることを理解し,フリーエージェント市場で割安に選手を調達し,強いチームをつくることを目指したものだ.しかしこの手法の有効性が多くの球団に認められると優位性はなくなる.次に現れたのは「ビッグデータ・ベースボール」で紹介された投球や打球のデータを利用して試合においてこれまで見つかっていなかった評価指標(フレーミングの巧拙)を利用したり,試合において有効な戦術(極端な守備シフト,ゴロを打たせやすい球種の多用など)を探るというものだ.そしてこれらもやはり多くの球団が採用することとなり,優位性は大きく下がった.そしてその後に何が起こっているかが本書の内容になる.原題は「The MVP Machine」
 
セイバーメトリクスで選手の評価にアノマリーを見つけることが難しくなったあと,同じ予算で良い選手を集めるためには「育成」が鍵になる.そして育成のために投球や打球のデータを活用するのが2014年〜2018年(本書が書かれた時点の直前シーズン)の最先端球団の戦略になった.本書ではそのデータ活用育成物語を,自分自身の能力を高めることに執念を燃やす孤高の理論派投手トレバー・バウアーとボールの物理学と運動理論から革新的能力向上手法を編み出したトレーニング施設「ドライブライン」経営者カイル・ボディを中心とした人間ドラマ,そしてこの面での最先端球団アストロズの逸話を交えて描いていく.
人間ドラマは手練れのジャーナリストたちの手になるだけあったなかなか読ませる.ここではデータ利用のところを中心に紹介しよう.
 

  • バウアーは伝統にとらわれず周囲との摩擦を恐れずに,可能性のあるありとあらゆる技術向上手法を試して自分の投手としての価値を高めることに成功した.彼やそれに続く成功例を見ると,上達のためには成長マインドセットとやり抜く力(グリット)が重要であるように思われる.
  • 球団におけるデータ利用においてはかつてはたたき上げの現場と統計オタクの対立という問題があったが,統計数理マインドを持つ選手がどんどん増えてきて,引退後そのままスタッフに残るようなケースも見られるようになってきた.また代理人ビジネスもそのようなマインドを持つものが求められるようになりつつある.

 

  • ピッチャーの球種は球速とスピン軸の方向とスピン角速度で記述できる.メジャーリーグではそれまでの光学カメラによる追跡システムPITCHf/xに替わり,ドップラーレーダー式測定機器トラックマンと光学カメラを組み合わせたデータ解析システムであるスタットキャストシステムが2015年に全球場で導入された*1.さらにリリースの瞬間の握りとボールの高解像度高速度の動画データがエッジャートロニック製のカメラにより得られるようになった.
  • 球速は筋力トレーニングとウェイティッドボールを用いた遠投と全力投球で改善できることがわかってきた.(伝統的にそういうトレーニングが行われてこなかったのは遠投の制限や球数の制限で肘の故障が防げるという信念が根強いためだが,それには根拠がない.*2)特に見逃されていたポイントは無意識になされる腕の振りからのブレーキング能力だ.
  • 良い変化球を習得するためにはエッジャートロニックスカメラが捉える動画が役に立つ.投手は握りとボールの相互関係と投球データを確認しながら練習でき,より効果の高い球種を習得できる.ボールを握る手の形,それぞれの指のどの部分がボールのどの部分にふれているかを記述する試みも始まっている.
  • どのような変化球が有効かについては,投げられた球種とその結果(打球や空振り率など)の関連分析(球速,投げられたコース,回転軸と回転数ごとの要因分析を含む),そしてその投手が持っているほかの球種と合わせたピッチトンネル*3の分析により調べることができる.分析の結果,球速よりも回転数が重要だという認識が広がった.またこの分析は配球戦術(特にあまり有効でない変化球を捨て,有効な変化球を増やすこと)にも使われるようになった.このような進展によりメジャーリーグでは全体的に変化球の割合が増加し,さらにその中でシンカーよりスライダーとフォーシームを,フォーシームは高めになどの変化が生じている.
  • (「ビッグデータ・ベースボール」で紹介された守備側のゴロを打たせることの有効性への対抗として)打撃側はフライを打ち上げてより多くのホームランを目指すようになった.データはメジャーリーグの平均的な投球は下向き6度の角度で入ってくることを示しており,バットの軌道はアッパースイングで上向き6度にしてベースのはるか手前でボールを捉えることが推奨されるようになった.これはフライボール革命として知られる.スタットキャストのデータは打球角度が30度前後のフライ(バレルと呼ばれる)が最も良い打球であることを示している.ただしどのようにすれば良い打者を育成できるかについてはなお未知の部分が大きい(このような打球を生むには引っ張るのが有効だが,うまく引っ張ることができる選手は少ない).
  • リハビリやトレーニングマシンも進歩している.3次元の抵抗を与えられるボストン・バイオモーション社によるプロテウスシステム,バットスピードや軌跡と身体の動きを関連付けて分析できるKベストバイオフィードバック装置などが開発されている.

 
またこれらの革命はメジャーリーグの野球競技の質に影響を与えており,最終章とエピローグでそのことが解説されている.私的にはここが一番興味深かった.
 

  • 球団が育成に力を入れるようになり,野球選手の質が全般的に向上した.その結果選手の若返り現象が生じた.球団は高いフリーエージェントを獲得するより報酬の安い若手を育てる方がコストパフォーマンスがいいとわかったからだ.そしてこれは1970年代から続いてきた報酬体系を不安定化させた.以前なら高い報酬を得られたはずのフリーエージェントはオファーを得にくくなり,(かつての)相場以下の契約を結ぶことが増えた.選手会はこれに合わせた戦略を考えざるを得なくなっているが,オーナーサイドも簡単に譲歩はしないだろう.
  • 突如選手育成の方法を知っているアナリストや球団幹部の価値が上昇し,引き抜きが横行している.
  • 一連の知見により四球とフライボールの価値は高く評価されるようになり,また三振はほかのアウトより悪いものではないと考えられるようになった.そして三振率の高い打者は四球やホームランも多い傾向があるのでコンタクトの上手な打者より高く評価されるようになった.この結果プレーに占める三振,四球,ホームラン(つまり野手のところに打球が飛ばず,打者が一塁に全力疾走しないプレー)の比率が上がった.これはスリリングなプレーを求めるファンの期待とは合致していない.
  • 現時点ではこの革命は投手により多くのメリットを与えている.打者は上向き角度6度のアッパースイングを会得したが,(角度4度の高めのフォーシームや角度8度の変化球で)そこから外そうとする投球術に対応できている打者は少ない.その要因の一つは試合で出合うのと全く同じ球種で練習できないことにある.現在の打者のスカウティングは球種の判断力の高い打者を見つけることにシフトしつつある.
  • この育成の技術革新により,最高のトレーニングには時間と高額な費用が不可欠になった.金銭的余裕がないプロを目指す若い選手は以前よりさらに不利になるだろう.
  • アストロズはこの革命の先駆者利益を得たが,今やその知見と技術は陳腐化しつつある.かつて最も保守的と見做されたオリオールズすらこの革命に取り組み始めており,ヤンキース,レイズ,レッドソックス,パイレーツ,ツインズも積極的に取り組んでいる.現在先行球団と遅れた球団に差があるためリーグの成績(勝敗)のチーム格差は著しく大きくなっているが,今後数年で平均化が起こると思われる.
  • 育成手法の革命により,球団はより少数精鋭で育成が可能になる.これは参加マイナーリーグ球団数の削減として現れている.

 
また本書の巻末には統計学者鳥越規央による「解説」がおかれている.これは大変ありがたい部分だ.そこでは本書内の議論がよりクリアーに整理され,さらに2019年以降の状況や日本での状況も解説されている.
 
以上が本書の内容になる.競争の激しいスポーツの世界では,いったん数理統計利用が有効とわかり,そのようなマインドが現場に浸透すると,変革が一気に加速するということがよくわかる.そして最近の具体的なトリビアがいろいろと紹介されていて大変興味深く読める.この本を読んだ後にメジャーリーグを実際に観戦するとまた楽しい.(配球の変革などのところにはなかなか気づきにくいが)今シーズン大活躍のエンジェルズの大谷翔平のホームラン動画などを見ると,フライボール革命の威力がまざまざと実感される.
数理統計やビッグデータの応用に興味がある野球ファンには「マネー・ボール」,「ビッグデータ・ベースボール」に続くぜひ読みたい一冊ということになるだろう.
 
 
関連書籍

原書

 
本書の著者の一人ソーチックによる「ビッグデータ・ベースボール」.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20160414/1460587238
 
同原書


マイケル・ルイスの描くセイバーメトリクスとアスレチックスGMビリー・ビーンの物語.今やこの分野の古典とも言うべき本.

 
同原書

映画化されたもの.

マネーボール [Blu-ray]

マネーボール [Blu-ray]

  • ブラッド・ピット
Amazon

*1:このシステムは投球だけでなく打球や選手の動きも解析する

*2:アメリカンフットボールのQBは野球のボールよりずっと重いボールを投手より多い回数投げているがあまり肘の故障を起こさないということも傍証とされている

*3:異なる球種のリリースポイントやホームベースまでの軌道が(打者から見分けにくくなるように)ぎりぎりまで一致していること

From Darwin to Derrida その76

 

第8章 自身とは何か その16

 
3人称「sympathy」を説明したところで,2人称「sympathy」と3人称「sympathy」間にある緊張関係が議論される.
 
 

2人称「sympathy」と3人称「sympathy」間の緊張

 

  • 2人称「sympathy」はある特定の他者の視点からのものだ.これに対して3人称「sympathy」は一般的他者の視点からのものになる.そしてこの2種類の他者は,ある特定状況で私がいかに振る舞うべきかについて異なる見解を持つかもしれない.そして同じ行動に対して私の異なる反射イメージを持つだろう.

 
なかなか難解な言い回しだが,要するにある特定の他者が「私」に期待する行動は,客観的第3者(あるいは社会全体)のそれとは異なっていることがあるということで,その特定の他者と一般的社会の利害が一致していない場合には当然そうなるだろう.
 

  • ヴァージニア・ヘルドは,(著書「The Ethics of Care」において)道徳哲学は3人称的超然(third-person detachment)を過剰強調し,特定他者との2人称関係におけるケアの倫理を擁護していると指摘している.ヴァシュデヴィ・レディは,(著書「How Infants Know Minds」において)幼児の他者の心の推論における3人称的推論と2人称的関係の間の似たような不均衡をうまく整合的に扱える道を探している.

 
ここも難解だ.哲学的な素養がないので「third-person detachment」が何を意味するのか私の手に余るところだが,文脈からいってケアの倫理は2人称的なものと捉えられるものであって,3人称的な(つまり功利的な)倫理と相克関係にあることが前提になっているのだろう.

How Infants Know Minds

How Infants Know Minds

Amazon
 

  • 友人というのは,親密な2人称的「sympathy」を育みあった人のことであり,私たちは友人との関係においては3人称的視点を部分的に排除しようとする.
  • 友人の1人が私に尋ねもせずに公共の害になる陰謀に私を取り込んだ場合,私はどのように友人に対しての道徳的義務と社会に対しての道徳的義務を折り合わせればいいのだろうか.どこまで行ったら,私の友人といい関係でいようとする欲望が,社会的な立場を失う恐れにとって変わるのだろう.そして私のジレンマは私の友人について何を語るのだろうか.彼が私を(陰謀に)巻き込んだのは間違った私の2人称イメージ(私の良心についての「sympathy」の欠如)を持っていたからなのか.あるいは彼のイメージは正しく,私が折れることをことを知っていたのか.私の友人は相利的な状況の可能性を見て,その機会を私に呈示し,友情の価値を示し,それを深める手段を提供したのか.彼の視点から見ると私の良心の呵責は,私が彼よりも一般的他者や抽象的な原理を優先するサインなのかもしれない.
  • いつも肩越しの視点をとり,自分の行動が世界にとってどう見えるかを考慮しているような人物は冷たく超然としているようにみえるだろう.私たちは,自分と最も親密な対人関係においては,自分以外の人類全体ではなく自分に気を配ってくれるようなパートナーを望む.苦境において,私は,私を愛してくれて他者よりも私を優先してくれる人物を望むだろう.

 
このあたりはなかなか深い.「公共の害になる陰謀(a conspiracy against the common good)」という言い回しを使っているが,これはたとえば「互いの利益になるちょっとした抜け駆け」のようなことに「当然参加するよね」という感じで取り込まれることを指しているのだろう.友人は私の利益にもなるからと誘ってくれているが,私はその反道徳的な行為を行いたくない,しかし誘ってくれた彼とのいい関係を続けたいというジレンマ,そしてなぜ彼は私の苦境を理解しないのか,私とは道徳的な基準が異なっているとしてそれは友情にどんな意味を持つのか.そしてそれは私がどのような自分のイメージを友人,そして客観的第3者に投影したいかという問題に関連するのだ.そしてヘイグは常に客観的第3者イメージを追求するような人間は友人を作りにくいかもしれない(普通の人は,自分が本当に困っているときには社会全体の利益なんかおいといて自分を助けてくれるような友人を好ましく思うだろう)と示唆している.

From Darwin to Derrida その75

 

第8章 自身とは何か その15

 
少し間が開いたが,ヘイグに戻ろう.第8章はヘイグによるアダム・スミス読解.ここまで道徳感情論のキーになる「sympathy」について,1人称,2人称,その反射が議論された.そしてここから第3者からの視点,3人称「sympathy」が取り扱われる.
 
 

3人称「sympathy」と間接互恵

 

これらの相反する利益主体についての適切な比較ができるようになる前に,私たちは自分たちのポジションを変えなければならない.私たちはこれらについて,自分の地点からでも彼の地点からでもなく,自分の視点からでも彼の視点からでもなく,第3者の地点と視点から見なければならない.そしてその第3者は私たちのどちらとも関連がなく,偏りなく判断できるものでなくてはならない.

アダム・スミス 「道徳感情論」

 

  • 私たちの他者についての2人称イメージの特に重要な機能については,少し前にほのめかされている.あなたと私は,私たちの相互作用において,互いの2人称イメージを持ち込む.その2人称イメージは過去の第3者との相互作用についての観察や伝聞から作られている.さらに現在の私たちの相互作用を観察してる第3者は私の2人称イメージを作り,それにより将来の彼の私に対する対応が変わってくる.そして彼はそれは私の知らない誰かと共有するだろう.

 
相手についてのイメージは自分と相手の相互作用だけでなく,第3者との相互作用の影響を受ける.言い回しは難しいが,これは噂や伝聞のことを考えると当然ということになろう.だからこの節題には「間接互恵」と書かれているのだ.
 

  • だから私はあなたと相互作用するに際して,第3者が形成するであろう2人称イメージ(そしてそれには私の2人称イメージが含まれる)をメンテナンスおよびモニターしなければならない.私は彼の目を通して自分を観察し,彼の私に対する賛否に対して「sympathize」しなければならない.私は彼の判断に合わせた私の公開セルフを作らなければならない.そしてこの場合の第3者は誰か特定人物ではなく,一般的な観察者になる.この場合の最も顕著な特徴は,観察者に呈示するのが反射的イメージ(reflected image)であることだ.

 
ここは誰かと相互作用するときには,それを観察している第3者の眼からどう見えるかを気にする方がいい(そしてそのためには第3者の意見に「sympathize」したほうがうまくいく)ということをいっている.それは評判のことを考えるとよくわかる.
 

  • 私たちは異なる観察者に向けて異なる3人称イメージを構築する.オバマの就任式で涙を流す年取った黒人女性は,オバマが国家から受け入れられていることを感じ,そして彼女も国家から受け入れられている気配を感じている.彼女は過去の不当な仕打ちを再び感じ,おそらく彼女の反射的イメージを白人観察者に向けて調整している.あるいは,彼女の構築した私のような観察者の3人称イメージに対する彼女の1人称的反応について,私の白人観察者の2人称イメージはそう判断されたということかもしれない.

 
オバマ大統領の就任式のスピーチには「60年前にはレストランに入ることもできなかった黒人の息子が大統領になった」というフレーズがあり,テレビの中継画面ではそのフレーズと同時に涙を拭っている黒人女性が大写しになったということがあったようだ.これはアメリカ人にとってはかなり印象的な一場面だったのだろう.そして(大写しになることを事前に知っていたわけではないだろうから)ここで彼女が行っているイメージの調整は無意識的になされている.私たちは無意識的に自分のイメージを再帰的な相互作用の中で調整しているだろうとヘイグは示唆しているのだろう.
 

  • ヒトは社会の中で生きるように作られている.彼は仲間との相互作用から多大な利益を得ることができる.だから仲間はずれにならないためには大きなコストも支払うだろう.
  • 彼は仲間を搾取して短期的な利益を得ることもできるが,誰も見てないことを滅多に確信できない.評判が傷つくことの将来的なダメージは目先の利益を非常に小さいものにする.だからヒトの第3者的観察者の判断に対するメンタルモデルは,アダム・スミスのいう「心のなかの自分」,つまり自分自身を公正に判断する観察者に非常に近いものになるだろう.直接互恵性はここで間接互恵性にステージアップする.
  • スミスはこう書いている.「自然はヒトに社会を与え,喜びへの欲望と仲間を傷つけることへの忌避を植え付けた」

 
このヘイグの説明に従えば間接互恵性の至近的な心理メカニズムの1つには第3者的視点から見える(つまり公正な判断としての)自分のイメージのメンタルモデルがあるということになる.自分の評判を保つためには自分勝手な理屈だけではダメで,公正な第3者的判断が不可欠ということになる.ある意味当然だがなかなか難しいところで,それに失敗している例はよく見かけるというところだろうか.
 

  • 本章では私は「Man(ヒト)」と「He(彼)」を両性を表す用語として用いた.それはスミスの時代の慣習だ.これは女性読者への「sympathy」の欠如のように感じられる.私はスミスへの敬意からこの用語を用いたが,それが読者の私への2人称イメージにどう影響を与えるかについて不安を感じてもいる.

 
このコメントはキャンセルカルチャーにいるアカデミアの1員としての不安ということになるだろう.単にそういう意図はないと書かずに回りくどい言い方をしているのがいかにもヘイグらしい.
 

  • 最後に,スミスは3人称イメージが腐敗しないものだとは考えていなかったことを指摘しておこう.「彼がそこにいるとき,自分の利己的な動機に基づく暴力や不正についての心のなかの自分の判断は,真実を元にした公正な判断とは大きく異なることがある」

 
この最後のコメントは自己欺瞞にかかるものということになるだろう.

書評 「ダーウィンが愛した犬たち」

 
本書は「イヌとのかかわり」という視点にフォーカスして書かれたダーウィンの伝記になる.原書の出版は2009年で,生誕200周年,「種の起源」出版150周年に合わせた企画ものの1つだったようだ.
ダーウィンは大の愛犬家であったし,「種の起源」「人間の由来」「人間と動物の感情表現」「飼育栽培下における動植物の変異」という進化を正面から扱った主要著書にはいずれもイヌが数多く登場する.「人間と動物の感情表現」の挿し絵に多くのイヌの姿が描かれているのは特に印象的だ.だからそこからダーウィンの人生を眺めて見るのも面白いだろうという企画の上で書かれた本なのだろう.著者はサイエンスライターのエマ・タウンゼント*1.原題は「Darwin's Dogs: How Darwin's Pets Helped Form a World-Changing Theory of Evolution」.
 

はじめに

タウンゼントはイントロダクションをイヌと一緒に写ったダーウィン家の写真と「人間と動物の感情表現」に登場するダーウィンの愛犬ボブの「温室顔*2」の話から始めている.そしてダーウィンが最も長く観察した動物がイヌであり,その研究もさまざまな面でイヌに刺激を受けていたのだと指摘する.
 

第1章 はじまり

第1章から伝記となり,ダーウィンの人生がたどられていく.1809年の生誕,家系図,と示したあと,シュルーズベリで暖かな家庭に育ち医学のためにエジンバラへ移ったあとの家族(特に姉たち)との手紙のやり取りの中心がイヌの話題だったことが語られる.この個別のやり取りも詳しく紹介されていてイヌ好きにはたまらないエピソードが並んでいる.
ここで当時の英国社会の動物愛護精神の高まりつつある様子*3や農業分野における育種改良熱,そしてもちろんイヌについての育種熱*4も紹介されている.
ダーウィンはエジンバラ,そしてケンブリッジで狩猟に熱中することになる.ダーウィンにとってイヌとその育種はきわめて身近にあったのだ.
 

第2章 仕組み

ダーウィンはビーグル号で世界に旅立つ.ビーグル号航海中の5年間は愛犬とあうことはできなかったので物語は英国への帰還後に進む.この部分の面白いエピソードはダーウィンは愛犬が5年の後自分を覚えているかどうかに興味を持ち調べようとしたというところだ(ちゃんと覚えていたようだ).
航海から戻ったダーウィンは進化学説を考察していく.タウンゼントは,ここでイヌと人間に(感情表現を始めとした)多くの共通点があること,ダーウィンフィンチの共通祖先からの多様化とイヌの品種の多様化が本質的に同一であることの認識がダーウィンにとって重要だったと指摘している.そしてダーウィンはさまざまなイヌや家畜の育種についての情報を集める(ダーウィンに情報提供した育種家たちのエピソードが数多く収録されている).そしてライエルとマルサスのヒントにより進化のメカニズムについての考察が進み,自然淘汰説が生まれる.
 

第3章 起源

1842年ごろ自説をいったんまとめたあと,ダーウィンはその公表を見送り(タウンゼントは信心深い妻エマを慮ったことが理由として大きいとしている),ダウンハウスに引きこもる.そしてフジツボの研究が一段落した1954年ごろからまた進化の大きなテーマに戻って「種の大著」の執筆にかかる.そして有名なウォレスからの手紙,リンネ協会での共同発表,(「種の大著」の簡略版としての)「種の起源」の執筆と話が進む.
「種の起源」が家畜と栽培植物の話から始まっていることは有名だ.タウンゼントは,ダーウィンがなぜそういう構成を採ったのか,何を訴えようとしたのかについて詳しく語っている.このあたりは第1章「飼育栽培下における変異」の重要性にフォーカスしたユニークな「種の起源」の解説になっている.
 

第4章 類似性

「種の起源」の執筆後,ダーウィンは論争の表に立たずに植物の研究に引きこもる.そしてしばらくして1868年に「飼育栽培下における動植物の変異」1871年に「人間の由来」を発表する.
前者は「種の大著」の構想の一部でもあり,集めていた進化の裏付けとなる事実が盛り込まれている.この第1章は「家畜化されたイヌとネコ」だ.
後者は「種の起源」では避けていた「人間」を扱うもので,人種,心,倫理,性的魅力にまで踏み込んでいる.「人間の由来」のいくつかある大きなテーマ*5の1つは「ヒトは特別な存在か,それとも単なる動物の1種か」だった.ダーウィンはヒトとその他の動物の連続性を強く主張し,そしてそれを裏付けるためにさまざまな例を引いている.イヌとの関連では,(一部の)ヒトも耳を動かせること,イヌには明らかに忠誠心があること,イヌがヒトの言葉を理解して対応すること,イヌの遠吠えは原始的な宗教心の発露ともとれること*6,風で揺れ動く日傘に向かって吠えるイヌは「原因がなさそうな動きは何かのエージェントによるもの」と推測しているのでありこれは迷信につながりうること,イヌは時に異なる本能の間で葛藤することなどが書き込まれている.タウンゼントはダーウィンは動物にも(道徳を含む)抽象的な思考と自意識があると考えていたのだと指摘し,「人間の由来」の前半部分は「この本は人間はペットよりことさら優れているわけではないと論じた本だ」という印象を抱かせるものだと評している.
 

第5章 答

「人間の由来」出版後のダーウィンは平穏に暮らし,最後には庭のミミズを研究し,1882年に逝去する(愛犬ポリーはダーウィンの死の翌日に亡くなったそうだ).
タウンゼントはきっとダーウィンが知りたかっただろうと,イヌについての最新の知見をここにおいている.ダーウィンはイヌはオオカミだけでなくコヨーテやジャッカルなどの複数の種の交雑を起源とすると考えていたが,現在ではオオカミの単一起源であることがはっきりしている.タウンゼントは「オオカミに似た祖先」から家畜化されたという言い方をし,家畜化の過程の推測(ヴィレッジドッグからの2段階説),ベリヤエフのキツネ実験,純血種と遺伝病,イヌの認知心理学などの最新の知見を紹介して本書を終えている.
 
本書はダーウィンの伝記としても(ビーグル号航海の時期を除いたものとして)コンパクトにまとまっており,その上にダーウィンやその家族とイヌたちとのかかわり,ダーウィンとイヌの育種家たちの情報交換の様子,ダーウィンの学説の中の特にイヌがからむ部分の詳細が付け加わった面白い書物だ.イヌ好きのダーウィンファンには楽しい贈り物というべきだろう.
 
 

関連書籍
 
原書

 
ダーウィンの「飼育栽培下における動植物の変異」.私が知る限り邦訳はない.一度通読したがなかなか面白い.ダーウィンは(誤って)イヌはオオカミからの単一起源ではないと考えていたが,ハトはカワラバトからの単一起源と(正しく)推測していたので,特にハトについて非常に丁寧に扱っている.そして隔世遺伝などの現象から遺伝が粒子的であると(正しく)推測した経緯や「獲得形質が遺伝されることがある」という報告を(誤って)信じてしまったことから,苦労してパンジェネシス理論を構築したことがよくわかる.

*1:ケンブリッジで歴史を学び,科学史の博士課程まで進んだが,音楽活動のため中退し,一時シンガーソングライターをやっていたそうだ.本書が初の著作ということらしい

*2:ダーウィンが散歩に行くルートと研究のために温室に向かうルートは家から温室まで共通しているため,散歩かと思って喜んでついてきたイヌが,実は温室ルートかと悟ってがっかりする様子の顔

*3:当時「人間の子どもを救助するイヌ」というのは絵画の人気のテーマの1つだったそうだ.

*4:19世紀半ばまでよく知られた犬種は数種類だけだったそうだ.そこから爆発的に犬種が増える

*5:このほかの特に大きなテーマは性淘汰であり,そして人種に見られる違いは性淘汰産物であり表面的だというものだが,タウンゼントは(執筆動機に奴隷廃止があるとだけコメントしているが)そこは扱っていない.

*6:これは初版にはなく第二版から収録されたもので,ベルギーのウーゾーの説だそうだ.