書評 「なぜヒトだけが言語を話せるのか」

 

本書は認知と文化が専門の認知科学者,心理学者であるトム・スコット=フィリップス*1によるヒトの言語の進化と起源に関する一冊.ヒトの言語の進化的起源については,霊長類などの信号システムとの連続性を前提に,再帰的構造を重視する議論*2が主流だが,本書においては,ヒトの言語と霊長類の信号システムとの非連続性を強調し,語用論の重要性を正面から採り上げる独自の議論が説得的に主張されていて,とても興味深い書物になっている.原題は「Speaking Our Minds: Why human communication is different, and how language evolved to make it special」
 

第1章 コミュニケーションへの2つのアプローチ

 
冒頭で,言語の持つ決定不十分性の問題(コンテキストにより様々な意味になる)を採り上げ,これは言語がそれまでの動物の信号システムと全く異なるコミュニケーション様式の上に乗っていることからくるのだと主張する.最初からなかなかスリリングだ.

  • コミュニケーションについては,コードモデルと意図明示・推論モデルを立てることができる.ヒト以外の動物の信号システムはコードモデルに乗っているが,このモデルではヒト言語の決定不十分性を説明できない.
  • コードモデルとは通信(コミュニケーション)についての導管モデルとシャノンの情報理論と整合的な考え方だ.信号は経路(導管)を伝わる情報であり,送信側でエンコードされ,受信側でデコードされる.そのポイントは世界のある状態が特定の信号と連合(association)しているというメカニズムにある.この連合は決定論的である必要はなく確率論的なものでもよい.動物の信号システム,ヒトのコミュニケーションのうち化学的刺激(乳輪から出る化学物質が乳児に乳首の位置を教えるなど)や不随意の感情表現(デュシェンヌ型笑いなど)を用いるものはこのモデルで説明できる.
  • しかしほとんどのヒトのコミュニケーションはコードモデルでは説明できない.そこでは情報意図(受信者の行動を変容させたいという送信者の意図),伝達意図(自分が情報意図を持っていることを受信者にわからせようとする意図)が問題になる.伝達意図を持つ信号は意図明示的信号となる.そして受信者はこれらの意図を推論する.この様な情報意図,伝達意図を表出し認識するコミュニケーションモデルをコードモデルの代替案として意図明示・推論モデルと呼ぶ.
  • 意図明示・推論モデルは本質的にメタ心理的であり,連合よりはるかに複雑で,認知的に高度なものになる.
  • これまでのヒトの言語についてのアプローチはコードモデルに基づくものだった.言語の体系には明らかに連合があるし,ヒト言語は(コードモデルである)動物の信号システムから漸進的に進化したと考えることが自然に思えるからだ.そしてそういう立場からは,言語はコードモデルにより構成され,そうして生じたコミュニケーションが意図明示,推論を用いることでより強力になったと考えることになる.
  • 私は,事実は全く逆で,そもそもヒトのコミュニケーションは意図明示・推論モデルで可能になったのであり,その後連合が広く生じて言語になったと主張したい.それは決定不十分性を深く考えると理解できる.言語はコードとしてはひどい欠陥を持ち,ヒトのコミュニケーションは意図明示,推論により始めて可能になっているのだ.いったんこれを理解すると曖昧性などの決定不十分性が逆にコミュニケーション上の大きな利点になっていることがわかる.
  • ここでコードを自然コード(コードモデルのみで機能しているコード)と慣習コード(コードに先立って存在した意図明示・推論モデルを強化するコード)に分けて考えることは有用だ.慣習コードはヒトの言語のあらゆるレベルに観察できる.私は言語を「意図明示・推論コミュニケーションを増強する慣習コードが多数集まってできた構造体」と定義する.ヒトの言語の起源や進化を理解するには,自然コードではなく慣習コードを考察することが重要になる.
  • 「意味」という概念もコードモデルと意図明示・推論モデルでは異なることになる.意図明示・推論モデルで用いられる「意味」には語用論がフィットする.ポール・グライスは自然的意味と非自然的意味を区別し,送信者の意図,受信者の送信者の意図の認識,そして受信者の認識が送信者の意図通りで受信者がそう認識する理由が送信者の意図の認識にあること,という3段階に分けて意味を分析した(3段階目が非自然的意味になる).この3段階目ではまさに意図明示・推論モデルコミュニケーションが想定されている.

 

第2章 コミュニケーションシステムの出現

 
第2章ではヒトの言語の特徴である「組み合わせにより表現範囲が無制限になっていること」は意図明示・推論モデルでのみ説明できることが主張される.

  • ヒトの言語は組み合わせにより表現範囲が無制限になっている.これは意図明示・推論モデルからのみ説明できる.
  • 動物の信号のようなコードモデルにおいては,信号と応答が進化するにはそれが互いに適応価が高いという互いの存在に依存して決まるしかない.そしてそれは契機: cue から始まる儀式化か,強要: coercionから始まる感覚操作しかない*3.おそらく大半の動物の信号は契機からの儀式化により信号となっているのだろう*4.だとすると信号の形式は現存する契機と強要の集合によって制約されていることになる.
  • そしてコードモデルにおいて組み合わせ信号が進化するのは,(1)信号Aと信号Bが偶然一緒に産出され,それが(A,Bの個別の状況を越えた)何らかの事実を知らせる契機になり,それを他個体が利用するようになり,(2)発信者にとってもそれを産出することが有利になる場合でなければならない.これは極めて生じにくい状況であり,合成的な信号は極めて稀にしか観察できないはずということになる.そして実際に動物の信号では組み合わせ信号は稀だ.*5
  • これに対して意図明示・推論モデルにおいては,そもそもコミュニケーションを試みていること自体が相手に伝わっていることが前提にあるため,(儀式化や感覚操作にたよることなく)相互に依存する適応価のある行動(送信と反応)を同時に発生させることが可能になる(直接経路による信号進化).そしてこの場合には信号の形式にも信号の意味にも制約がない.現実世界では,健常者の親と聾唖者の子どものいる家庭で生じるホームサインにこの例を見ることができる.(具体的に組み合わせ信号を用いた柔軟なコミュニケーションが可能になることが示されている)
  • 以上の議論はヒトの言語が動物の信号システムと連続的だとする従来説に大きな疑問を投げかけるものだ.(連続性がないと考えるべきいくつかの傍証も提示されている)
  • 連続性の想定を捨てれば言語へ至る別の道が現れる.まず認知機能が十分に進化し,その結果意図明示・推論コミュニケーションが可能になり,その後,この新種のコミュニケーションの表現力を強化する方法として慣習コードが創設されたという道筋だ.
  • 旧来説の誤りは,進化が漸進的だというダーウィンの生物の形態についての議論にとらわれ過ぎたこと*6,言語コミュニケーションはコードの存在によって可能になり,語用論はそれを増強するものだと考えたことだ.

 

第3章 認知とコミュニケーション

 
第3章では,意図明示・推論コミュニケーションではどのような原理が働いているかが考察される.

  • 意図明示・推論コミュニケーションの大きな特徴は同じ言葉がコンテキストにより幅広い意味を持つことができる点だ.ではこれはいかにして可能になっているのだろうか.
  • 相手が推論可能になる言葉を選び,選ばれた言葉にある意図を推論する能力をここでは語用論能力と呼ぼう.意図明示・推論コミュニケーションは語用論能力があってはじめて可能になる.これはいかなる認知メカニズムであるかが問題になる.

 

  • ポール・グライスはこの議論の出発点となる研究を行った.彼は協調の原理を打ち出し,それは会話が質の格率,量の格率,関係の格率,様態の格率に従うことだと説明した.(簡単な説明がある) この基本的な全体像に対しては数多くの反論が提起され,それを改善しようとする様々な試みが蓄積した.この結果,新・グライス派語用論は用法の原則の乱雑な寄せ集めのようになった.しかしこれらの原則の寄せ集めがどのような認知メカニズムに基づいているかは全く明らかではなかったし,そのアプローチには明らかに心理学的・経験的に妥当でない部分が含まれていた(具体的な説明がある).
  • これに対し,ダン・スペルベルとディアドリ・ウィルソンは代替案となるポスト・グライス派語用論アプローチを構築し,関連性理論を提示した.関連性理論は,ヒトのコミュニケーションに意図の表出と認識が必要だとするグライスの観察は受け継ぐが,協調の原理の必要性を否定するものだ.
  • 関連性理論においては,「関連性」をプラスの認知効果と処理コストのトレードオフとして定義する.意図明示的刺激の関連性は常に個別の事情に依存することになる.
  • そしてコミュニケーションにおいて2つの関連性原理があると主張する.1つは「認知的原理」であり,「ヒトの認知は関連性の最大化に向けて働く」と考える.これはヒとの心には効率性があると主張していることになる.
  • もう1つは「伝達的原理」であり,「あらゆる意図明示的刺激はそれ自体に最適な関連性が見込めることを伝える」というものだ.これは発信者は受信者にとっての関連性が最大になるような信号を産出するという意味だ.これにより受信者はその刺激を解釈しようとする動機を持ち,推論することが容易になることになる.(これは意図明示・推論コミュニケーションにおいて,信号を発信することそのものが,受信者に「これはあなたのための信号であり,あなたはこれに価値を見いだすだろう」といっていることになる)
  • 認知的原理と伝達的原理は互いに作用しあって意図明示・推論コミュニケーションを可能にする.
  • この関連性理論が代替的な語用論理論よりも優れていると考えるべき根拠は4つある.(1)関連性理論の予測は統制実験を含む相当量の経験的精査に堪えている(2)関連性理論は発達心理学や言語習得研究において応用され,そこから生まれた予測が検証されている(3)関連性理論は認知人類学,心理言語学,進化生物学などの隣接領域の理論的枠組みと整合的である(4)新・グライス派の説明は話し手の目標の事後的な記述に過ぎないが,関連性理論は意図明示・推論コミュニケーションを動かす原理を説明している.

 

  • 意図明示・推論コミュニケーションにおいて特に重要なのが再帰的読心能力になる.まず出発点になるのは「心の理論」だ.しばしば相手の心について何かを知っていることは相手の意図する意味を理解したり,自分の発話を相手に合わせるために重要だという分析がなされるが,語用論にとって心の理論が正確にどのように寄与するかまで詳述されることはめったにない.
  • そして心の理論が意図明示・推論コミュニケーションにとって重要であることについては,上述した理由よりもずっと根源的で基礎的な理由がある.意図明示・推論コミュニケーションという行為自体が,他者の心を読む行為であり,伝達意図と情報意図を細かく分析すると高次の再帰的読心能力が必要になることがわかる(具体的なシナリオに沿って分析があり,最低でも5次の再帰的読心が必須であることが解説されている).
  • この意図明示・推論コミュニケーションには高次の再帰的読心能力が必須であるという主張にはしばしば「そこまで必要とは思えない」という懐疑をぶつけられる.その根拠とされるのは有名なサリーとアンの誤信念課題実験において,4歳未満児はこの課題をクリアできないが,意図明示・推論コミュニケーションはできるという事実だ.私は3歳児はこの課題をクリアできなくとも高次の再帰的読心能力をもっていると主張したい.「サリーはどこにボールがあると思っているでしょうか」と尋ねるかわりに,行動から推測するように実験デザインを変えると1歳半で誤信念課題がクリアできるようになる.再帰的読心能力にもシステム1的なものとシステム2的なものがあり,1歳半で前者が機能し始めるが,後者は4歳頃まで難しいと考えられる.システム1的な再帰的読心能力はシステム2的な高度の認知的な発達なしでも機能することが可能なのだろう.*7

 

  • トマセロは意図明示・推論コミュニケーションについて,意図性の共有という観点から考察し,「協調的コミュニケーション」という議論を行っている.その主張を単純化すると,「意図明示・推論コミュニケーションとは,私があなたに話しあなたが私に話す出来事というよりも,我々が互いにコミュニケートするという出来事であり,それが成り立つには意図性の共有が必要だ」というものになる.
  • この主張を考察する際に重要なのはどのレベルの協調を問題にするのかということだ.協調には(言語コードを慣習通りに使う)伝達的協調,(騙すつもりがあるかという)情報的協調,(コミュニケーションの中身が向社会的かどうかという)具体的協調がある.そしてトマセロのいう協調は伝達的協調だ.
  • 私はトマセロの主張に納得していない.「意図性の共有」は意図明示・推論コミュニケーションが今あるような形になっているのはなぜかは説明できるかもしれないが,話し手と聞き手が理解しあうために自分たちを「我々」として心的に表示しなければならないとは思えないからだ.
  • しかしトマセロの主張には重要な部分がある.それは「意図性の共有」には能力だけでなく「意欲」の側面もあるというところだ.ヒトはコミュニケーションしたがるが,これは動物界においては異常だ.これについては進化的な考察が必要だ.

 

第4章 意図明示コミュニケーションの起源

 
第4章では意図明示・推論コミュニケーションの起源と進化が考察される.

  • 1960年代以降,大型類人猿に言語を習得させようとする実験が数多くなされてきた.その結果は「少なくとも類人猿の何匹かは人間の自然言語の特徴の(全てではなく)一部を備えたコミュニケーション能力を発達させた」というものだ.これらの研究は,(1)信号と応答の相互依存性が信号形式に与える制約(2)言語と他の動物のコミュニケーションが全く異なるシステムである可能性,の2つをあまり考慮していないものだと評価せざるを得ない.
  • 問われるべきなのは意図明示・推論コミュニケーションについての問題であり,比較研究においては大型類人猿のコミュニケーションは意図明示・推論的かどうか,大型類人猿はそれを可能にする認知メカニズムを持っているかということだ.
  • トマセロは「大型類人猿の身振りによるコミュニケーションは意図的だが,発声によるコミュニケーションは意図的ではない」と主張し,主流の考え方になっている.これには批判もあって論争になっているが,いずれにしても問題になるのは「意図的コミュニケーション」と「意図明示・推論コミュニケーション」の関係だ.ここでいう意図的コミュニケーションは「どのように信号が使われているか,制御されているか」にかかわっているのに対して,意図明示・推論コミュニケーションのポイントは「信号が何を表しているか,特に伝達意図を表しているか」であり,両者は(関係はあるが)異なる概念になる.
  • 意図明示・推論コミュニケーションの4つの側面(情報意図の表現,情報意図の認識,伝達意図の表現,伝達意図の認識)についてのこれまでの大型類人猿の研究を詳細に分析してみると,決定的に重要と思われる実験がなされていないことがわかる.私はそれは研究者がそういう課題について大型類人猿がしくじるだろうと暗黙的に考えていることを示しているのだと思う.私は大型類人猿のコミュニケーションは意図明示・推論的ではないと考えている*8
  • 大型類人猿の身振りによる意図的コミュニケーションは,連合のメカニズムによる自然コードによるものだが,メタ心理学的な能力の存在によって表現力が強化され,自然コードを柔軟に使えるようになっているものだと考えるべきだ(そう考える根拠がいくつか議論されている).
  • 大型類人猿の読心能力の研究は数多くなされている.チンパンジーは古典的な誤信念課題をクリアできない.他者の意図を理解しているように見える結果もいくつか報告されているが,いずれにしてもヒトと同じレベルではないことは明らかだ.いまのところ大型類人猿が意図明示・推論コミュニケーションに必要な高次の再帰的読心能力を示す証拠はない.大型類人猿が意図明示・推論コミュニケーションを行う能力があると主張するなら,この高次の再帰的読心能力があることを示し,かつなぜ類人猿が(少なくとも初歩的なレベルの)言語を持たないかを説明する必要があるだろう.
  • 大型類人猿の認知能力が高いことは社会脳仮説で説明される.ヒトは特に大きく複雑な社会を形成するので,この中でも高い認知能力を進化させたことが説明できる.そしてこの高度の社会認知能力が意図明示・推論コミュニケーションを可能にしたと論じることができる.スペルベルは高次の読心能力がどのように意図明示・推論コミュニケーションを可能にするのかの具体的シナリオを提示している.逆に(第2章で示したように)意図明示・推論コミュニケーションなしに言語が出現することはできない.
  • まとめると,意図明示・推論コミュニケーションの進化,言語の進化についての一貫した説明は1つしかない.社会的知能の二次的な適応として意図明示・推論コミュニケーションが可能になり,それが言語につながったのだ.そしてこのシナリオは次に意図明示・推論コミュニケーションがより円滑かつ効果的になるような適応,伝達上の慣習が生じることを説明できることになる.

 

第5章 個々の言語を組み立てる

 
第5章と第6章は言語の進化について考察される.第5章では文化進化としての個別の言語の進化,第6章では生物進化としての言語能力の進化が取り扱われる.

  • 言語の進化という現象はコミュニケーションの意図明示的な性格の帰結として生じることは重要である.言語の変化は,話し手の言語形式の用い方の変化(メタファーなど),聞き手の解釈の変化の2通りで生じうる.意図明示・推論コミュニケーションにおいては話し手の自分が伝達しようとしていることを示す手がかりを提供し,聞き手は最善の推論をする.だから言語の変化の最善の方法は既存の慣習をメタファーとして使うことになる.意図明示・推論コミュニケーションがあれば,その表現力を強化する慣習コードが次々に生み出されることになる.
  • 初期の言語を考える上で重要なのは,アイコン,インデックス,シンボルだ.最も初期に新しい信号として使われたのはアイコンやインデックスだっただろう.それが音声だったのかジェスチャーだったのかという論争があるが,あまり意味はないと考える.その時点で有用なものが適宜使われた(ジェスチャーの方が柔軟だが,発声には素早さと相手の視線の確保が不要という利点がある)と考えておけばいい.
  • その後アイコンやインデックスが成立しにくい抽象的,あるいは複雑な概念を表すためにシンボルが慣習コードとして使われるようになっただろう.進化言語学の実験はそれを示唆している(実験の詳細について解説がある).意図明示・推論コミュニケーションの決定不十分性は,慣習コードの広がりにとって利点だったと考えられる.
  • 次の段階は文法の成立になる.言語学では文法の起源,プロト言語の進化については,統合説(要素の統合を重視する)と合成説(要素の組み合わせを重視する)が主流の議論になっている.これらに対する代替説には分析説(原初の一語文が文法構成要素に分解していくと考える)がある.激しい論争があるが,私はこの2つの立場が排他的だとは考えていない.語用論的に考えると原初の言語は一語文的だったと想定されるが,(意図明示・推論コミュニケーションの)決定不十分性を考えると全面的な分析説は成り立たないだろう.当初限られた数の慣習が成立し,意図明示・推論コミュニケーションによって慣習が多様化し,それを組み合わせることで表現できる範囲が広がったのだろう.
  • 言語においてはしばしば「文法化」現象(一部の語が豊かな内容を表現することを離れて文法機能を担う方向に変化すること)が観察される.この現象が生じる理由は意図明示・推論コミュニケーションで説明できる.内容語が文法機能の証拠とをして使える可能性の方が,文法的な語が内容に対する証拠として使える可能性よりはるかに高いからだ.
  • 言語進化の最後のピースは文化的牽引(コミュニケーションの様式,認知メカニズムが文化要素に収斂を引き起こすこと)だ.(色彩語の発展,言語の声調の有無と脳で働く2つの遺伝子の頻度に相関があることについての文化的牽引からの説明がある) これにより言語はヒとの心の自然な直感と傾向,ヒトの行動の目標に合致するような形になっていく.
  • 特に重要なのは言語において文化的牽引は意図明示・推論コミュニケーションを強化するように働くことだ.言語は習得容易性と表現の有用性に向けて,構造化が進み,同音異義語を減らし,最も覚えやすい形に引きつけられる.(関連する進化言語学の実験が解説される) そして意図明示・推論コミュニケーションにとっては曖昧性は有用であるので,(コンテキストにより解消される限りにおいて)曖昧性がなくなるようには引きつけられない.言語のコードに曖昧性があるとしても人々の日常会話においては曖昧性はほとんど解消されているのだ.
  • 以上の議論から浮かび上がるのは,言語形式が全て何らかの文化的牽引の帰結である可能性だ.この「言語形式は文化的牽引の結果である」とするテーゼは,チョムスキーの「言語が今ある形式であるのは普遍文法の結果である」というテーゼへの反論となる.

 

第6章 進化的適応

 
最終第6章は言語能力の進化について.冒頭で進化,および適応主義についての簡単な解説があり,そこから議論が始まっている.ここは特に私の興味関心があるところなのでやや詳しく紹介しよう.

  • 言語進化研究の世界では,通時的な進化史の問題に興味が集中し,適応主義的観点からの分析にはあまり関心が払われていなかった.
  • 言語能力の進化における古典的な論文にピンカーとブルームによる「自然言語と自然淘汰」がある.これはチョムスキーなどの当時の言語学の主流がいかなる種類の進化的考えにも反発を示していた中で,適応主義を言語に応用することを宣言したものだ.
  • 彼等の結論「言語能力は適応形質である」を導いた論理は完璧だが,2つの前提がある.それは「自然界の(精妙な)デザインの唯一の自然主義的説明は自然淘汰だ」というものと「ヒトには本当に言語能力がある」というものだ.この後者の前提は彼等がチョムスキー的な言語観を持ち,言語能力が「個別言語の獲得と処理を可能にしている生得的な認知メカニズム」(普遍文法)だと考えていることを示している.
  • この普遍文法の存在については議論が続いている.チョムスキーは刺激の不足で普遍文法の存在を論証したとするが,これに対しては異論もある(議論の詳細には立ち入らないと断りがある).普遍文法が存在するならピンカーとブルームの主張は極めて説得的なものになる.
  • 文化的牽引は文化的牽引によって諸言語が似通ったものになること(統計的な普遍性を持つこと)を説明できるので(ピンカーたちの第2の前提である)普遍文法への代案となる.ただし文化的牽引が(ピンカーたちの第1の前提である)生物の(この場合は文化的牽引の基盤となる)設計の適応説の代案になるわけではない*9.言語進化は自然淘汰と文化的牽引により異なるレベルで影響を受けると考えるべきだ.

 

  • 言語進化についての自然淘汰の役割について,言語学者や認知科学者は内的・認知的なメカニズムを問題にする傾向があり,進化生物学者は社会的コミュニケーションを問題にする傾向がある.ここでは後者を扱う.
  • 問題となるのは意図明示と推論だ.この2つはコミュニケーションにおいて相互に依存しているためにどのような行動が適応的かが見えにくくなっている.優れたコミュニケーションデザイン特性がどういうものかを理解するには話し手と聞き手のそれぞれの利害関心がどう相互作用するのかが重要になる.これを詰めて考えると認知的関連性原理と伝達的関連性原理になる.そして実際に意図明示・推論コミュニケーションはこの原理に沿っている.ヒトは伝達意図と情報意図を表明・認識することに適応しており,それにより複雑な社会生活の中でうまく生きていけるようになっている.
  • 大型類人猿との連続性の問題については,コミュニケーションの面では断絶があるが,複雑な社会生活への適応という面では連続していると考えることができる.彼等は(コミュニケーションなしでも機能する)読心と心理操作能力を進化させ,ヒトははるかに有効に読心と心理操作が可能になる意図明示・推論コミュニケーションという新しい他者とのかかわり方を進化させたと考えられる.
  • 言語の進化的機能については様々な憶測が発表されている.うわさ話,配偶者の誘引,性的競争,狩猟の計略,投擲の始まり,政事の始まり,生活史の進化などのタスクに有用だという議論だ.このアプローチには問題がある.まずこのようなタスクは他の多くの動物にもあるはずで,なぜヒトだけなのかを説明できていないこと,そして本来的機能と派生的機能を区別していないことだ.
  • 本来的機能にフォーカスするなら,意図明示の本来的機能は他者の心の操作で,推論の本来的機能は他者の心の読解ということになるだろう.

 

  • コミュニケーションは相互行為であるので,その進化を考える上では,話し手と聞き手の利害のコンフリクトをよく考察する必要がある.言語においてはどのような仕組みで嘘やごまかしの頻度がコミュニケーションを崩壊させるようなレベルにならないのかが説明されなければならない.
  • 聞き手は明らかに悪意のある話し手や関連のない話をチェックする「認識的警戒」を行っている(これはコードモデルでは不要なものだ).この認識的警戒が効果的かどうかについてはほとんど調べられていない.
  • 話し手はこの聞き手の認識的警戒に対して「説得」を行う.相手の説得のために論理的思考能力が進化したというのが論理的思考の論証説になる.確証バイアスの存在はこの傍証となる.

 

  • 信号の進化的安定性については,ハンディキャップがよく取りざたされるが,これにはコスト以外の前提条件があり,必要不可欠なものでもない(相互利益がある場合は不要.インデックスやバッジでも良い.ハンディキャップはインデックスの特殊なケースと考えられる)ことに注意が必要だ.ヒトのコミュニケーションにかかる信号の安定性については,ハンディキャップ原理を不適切に用いている例がしばしば見られる*10
  • ヒトの言語の進化的安定性についてハンディキャップで説明しようとする説もいくつかあるが,どれもハンディキャップ原理の基本的条件を無視したものだ.言語も意図明示コミュニケーションもハンディキャップで安定性が保たれているわけではない.ヒトの言語はその言葉が本当だろうと嘘だろうとそれにかかるコストは変わらない.言語にハンディキャップ原理が効いているかどうかを考える上では,特に正直者と嘘つきでコストに格差が必要なこと,コスト負担能力にかかわらない内容にはハンディキャップが効かないことは重要だ.
  • ヒトの言語コミュニケーションが安定している理由は種々の抑止力であり,特に世間の評判であると考えることができる.実際に自分の評判を落とさずに(有利に)嘘をつけると思い込んでいると嘘をつきやすくなることを示した実験がある.

 

  • 最後にメイナード=スミスとサトマーリの「進化する階層」で議論された進化史の大転換に「言語の始まり」が含まれていることについてコメントしよう.この本の他の大転換が,ユニットが融合して上位化し,集中制御や分業を可能にしていることを採り上げているのに対して言語は単に新しい情報伝達法の出現として採り上げられている.あるいはそれほど深い意味はないのかもしれない.しかしもし大転換として採り上げるなら,それは「言語の始まり」ではなく,「意図明示・推論コミュニケーションの始まり」とすべきだというのが私の意見だ.

 
 
以上が本書の内容になる.私の感想をまとめておこう.
 

  • 著者の「ヒトの言語がコードモデルとは異なる意図明示・推論モデルの上にある」という主張は説得的だ.それは会話において言語を使っているときに常に語用論的な意味がまとわりついていることや言語には決定不十分性がありながら実際のコミュニケーションにはほとんど不自由さがないことをうまく説明できる.そしてこの語用論的な意図明示・推論コミュニケーションが先に成立したのちに,様々な慣習コードが積み重なり,言語になったという仮説はとても斬新で興味深い.またコードモデルでは組み合わせ信号が成立しにくいが,意図明示・推論モデルでは成立しやすいという議論にも説得力があるように感じる.
  • 意図明示・推論コミュニケーションには高次の再帰的読心能力が必要だという主張も興味深い.これらを幼児の誤信念課題実験の結果をどう整合させるかという問題を,システム1的読心能力とシステム2的読心能力を区別するという離れ業で解消しており,スリリングだ.また大型類人猿にはそもそもこの能力がないことを,研究者がそれを確かめようともしないことで補強するというという構成には笑ってしまった.
  • ただし最終2章の進化的な議論についてはいくつかの違和感がある.
  • まず著者の文化的牽引と言語能力の関係についてのコメントはわかりにくい.どうやら「進化で獲得した言語能力はほとんどが意図明示・推論コミュニケーションを可能にする能力として説明できるとし,普遍文法は否定する.そして言語間に共通の形式や法則があるのは文化的牽引で説明する」という立場のようだ.
  • すると著者は意図明示・推論コミュニケーションのみが相同的な形質で,それを持つ様々な集団で個別に独立に言語が成立し,それらが共通の基本原則を持っているのは文化的牽引で(文化進化の収斂形質として)説明できると考えていることになる.
  • これは極めてありそうもないシナリオに感じられる.まず,普遍文法の形式が全て文化的牽引で本当に説明できるのだろうか.述部と様々な格マーカーを持つ句という構造,動詞によりどのような格がとれるかが決まる制約などが例外なく牽引で決まるとは思えない.次に普遍文法的な生得的言語能力がないとするなら,なぜ言語習得には幼児期の臨界期があるのかをどう説明するのだろうか.この点についてチョムスキーの刺激の不足論証をどう反駁するのかについても明らかではない.また言語の比較から言語が系統樹的に分岐していることは少なくとも数千年の単位で確かめられている.これが(変わりすぎて比較が難しい)過去に延びていってどこかで単一起源があるという方が,過去において個別独立に言語が文化進化して似通ってきたというよりよほどありそうに感じられる.
  • 以上の点を考え合わせると,普遍文法を認めた上で「祖先集団で意図明示・推論コミュニケーションが成立し,その後プロト言語と生得的普遍文法言語能力が進化し,さらにその後集団の分岐拡散に応じて言語が分岐していった.ただし色彩語の発展過程などの一部の特徴については言語間で収斂的な文化的牽引事例も見られる」というシナリオの方がはるかにありそうだろう.
  • また細かな点になるが,著者のハンディキャップ原理の捉え方には同意できない.著者はコストはシグナルを発する際にかかるものでなければならないと考えているが,グラフェンの定式化にはそのような制限はない.だから特定の信号を発するための身体の発生や成長にかかるコストや,特定の信号を発した後の同種個体からのハラスメントコストもハンディキャップとなることができる.そう考えればインデックスも(例えば大きな身体でなければ低い声が出せないとしても,そのような大きな身体を作るためのコストまで考えると)ハンディキャップシグナルと捉えられるし,ハラスメントを生じさせるバッジもハンディキャップシグナルと考えることができる*11.つまりコードモデルで利害相反的な状況で信号が正直になる原理はハンディキャップしかないと考えるべきなのだ.ここは理論的に残念な部分だ.
  • とはいえ言語が崩壊しない理由をハンディキャップでは説明できないという著者の議論は正しいと思う.特に重要なのはハンディキャップシグナルはそのコスト負担力にかかる内容の正直さしか説明できないが,言語の内容はそれよりはるかに広いということだ.この点を特に強調し,正直者と嘘つきでコスト負担能力が異なる構造でもないことを付け加えれば十分ではなかったかと思う.そして著者は言語の信号システムが崩壊しない理由として社会的評判のみを挙げているが,ここはやや考察が雑に感じられる.社会的評判は大きなファクターになるだろうが,それ以外にも相手との直接互恵的関係(たとえば友人との信頼)の維持,相利的状況の頻度,(著者が挙げている)認知的警戒の効率性なども考察すべきだろう.

 
いくつか批判的なコメントも書いたが,全体として言語進化について主流ではないが極めて興味深い考えが説得力を持って論じられている啓発的な書物だ.言語進化について興味がある人にはとても刺激的な一冊だと思う.
 
 
関連書籍
 
原書

 

*1:学問的にはダン・スペルベルとトマセロの影響を大きく受けているようだ

*2:ハウザー,チョムスキー,フィッチの論文がきっかけになっていると思われる

*3:コミュニケーションが成立するのは送信者の信号が受信者に反応を引き起こし,これが双方の目的に沿ってデザインされている場合となる.そして送信者の信号のみがデザインされている場合には強要になり,受信者の反応のみがデザインされている場合には契機になる.

*4:契機からの儀式化の例としてイヌがナワバリの境界で恐怖感から排尿していたことが,他のイヌにとってはナワバリの情報をもたらし,それがナワバリにシグナルになったという仮想例が示されている.また強要からの感覚操作の例としてはメスに餌を与えて,メスが餌を食べている間に交尾を試みるというオスの行動があり,メスは(十分大きな)餌の提示を交尾のサインとして受け取るようになったという婚姻贈呈の仮想例が挙げられている

*5:ここでは旧来の論者は動物の信号に組み合わせ信号が稀であることを,信号総数が小さいなら組み合わせ信号の方が効率が悪いという数理モデルで説明しようとしてきたが,それが妥当でないことについての説明がなされている.

*6:著者は機能の変化は不連続的に生じることがあるとしているが,やや勇み足的な議論だと思う.漸進的な道筋がいくつもありうる中で一つに絞ってしまった問題という扱いをすべきだっただろう

*7:このほかここでは成人に対する高次の再帰的読心能力テストの結果との整合性,ASD患者についてどう考えるべきかなども詳細に論じられている

*8:4つの側面を調べるために具体的にどのような課題をクリアすべきかの詳細が説明されている.それを見るとチンパンジーがこれら全てをクリアすることは難しいという著者の感覚がわかる.なおここではイヌが理解できる指さしによる指示をチンパンジーが理解できないという話も紹介されている.ただし著者の見解によるとイヌによる指さし理解は情報意図の理解ではなく命令の理解であり,自然コードによるものだとされている

*9:著者によると言語学者や認知科学者の中には文化的牽引で言語にかかわる自然淘汰を全て否定しようとする論者がいるそうだ.そしてその主張は成り立たないということがここでのポイントになる

*10:献血についてのライルの議論,コストを払う謝罪についての大坪の議論,デュシェンヌ型笑いについてのシュミットたちの議論,囚人の自傷行為についてのギャンベッタの議論がやり玉に挙げられている.これらの議論には正直者と嘘つきでコスト負担能力に差があるという条件を無視していると批判している.献血や自傷行為についての議論についてはよく承知していないが,大坪のコストをかけた謝罪については著者に誤解があるのではないかと思う.相手のとの関係が謝罪にコストをかけてでも引きあうかどうかが問題になっていて,これは正直者と嘘つきでコスト負担能力に差があることを意味している.基本的に大坪の議論はグラフェンの条件を満たしていると思う.これに対してデュシェンヌ型笑いなどのフェイクしにくい感情表現は(著者のいう通り)ハンディキャップではないだろう.なぜ一部の感情表現が(フェイクできれば他者操作上極めて有利になりそうなのに)フェイクしにくいのか,そして(いかにも自然な感情表現で観客を魅了する女優のように)極く一部にそれが得意な人がいるのはなぜか(なぜそれが淘汰により広がらないのか)は大いなる謎だと思う.

*11:ただしこの部分については進化生物学者たちの間にも意見の相違がある.例えばメイナード=スミスはインデックスとハンディキャップを峻別する立場に立っている.

From Darwin to Derrida その152

 

第12章 意味をなすこと(Making Sense) その17

 
ヘイグは「意味は解釈過程の出力だ」という独自の見方を提示したのち,情報理論を取り上げる.通信(communication)には技術的,意味論的,影響的の側面があるが,シャノンはその技術的側面にフォーカスし,ウィーバーは意味論的,影響的側面について考察し,そしてウィーバーはそこでデネットの志向的スタンスをとったと開設される.
 

情報理論と意味 その2

   

  • シャノンの理論では,実現したメッセージは,可能性のあるメッセージ群から選択されたものだ.彼は情報量の測度に(そのメッセージが別の態様でありえた数を示す)対数表記のエントロピーを用いた,

Wikipediaを参照すると以下のように説明されている.

\mathbb {M} を確率変数  M の発するメッセージ m の集合とし,p(m)=Pr(M=m) としたとき,M のエントロピーは次のようになる(単位はビット).
 
https://latex.codecogs.com/svg.image?H(M)=\mathbb&space;{E}&space;_{M}(-\log&space;p(m))=-\sum&space;_{m\in&space;\mathbb&space;{M}&space;}p(m)\log&space;p(m)


関数 H を確率変数で表すと次のようになる.
https://latex.codecogs.com/svg.image?H(p)=-\sum&space;_{i=1}^{k}p(i)\log&space;p(i)

 

  • ウィーバーにとっては,この考え方は情報量は「情報量はあなたが何を言ったかではなく,何を言えたかで決まる」ことを意味していた.情報は選択の自由度を表しているのだ.このような情報量は意味とは無関係だ.
  • シャノンにとっては,メッセージは特定の物理的あるいは概念的なエンティティに参照されているか,何らかのシステムに沿って相関を持っているなら意味を持つのだった.この概念化には2つの要素がある.それはメッセージと物の相関と,相関を生み出す「システム」だ.

 

  • ここに掲げたのはシャノンの1948年の論文にある有名な図だ.

  • この図はメッセージが情報源から選ばれ,送信機に送られ,シグナルに変換され,受信機に送られ,メーッセージに再変換され,目的地に届く様を示している.送信されるシグナルと受信されるシグナルはノイズのために異なるものになる.中心にある黒い四角は送信機と受信機の間のチャネル(経路)だ.送信前のメッセージと受信後のメッセージをできる限り一致させることが技術的なチャレンジになる.
  • ウィーバーはこう例示している:「私があなたにしゃべるとき,私の脳が情報源で,あなたの脳は目的地だ.私の音声システムは送信機で,あなたの耳と聴覚神経は受信機だ.」
  • ウィーバーもシャノンも,どのように情報源からメッセージを選ぶのか,目的地がどう解釈するのかについてはあまり詳しく語っていない.(そして送信機や受信機の内部メカニズムの働きについてもあまり語っていない)

 
ウィーバーがデネットの志向的スタンスをとったとあるので,その部分が解説されるかと思いきや,「あまり詳しく語っていない」で済まされているの,読んでいる方としてはちょっとずっこけるところだ.
 

  • 私の意味の解釈の立場から見れば,情報源,送信機,受信機,目的地は皆解釈者ということになる.
  • ウィーバーとシャノンは「情報の解釈」が重要な問題であることを認識していた.しかし彼等の注意は情報の伝達のところの集中していた.
  • 本章は,どのように伝達されるかではなく,どのように情報が使われるかを扱っており,解釈(情報の使用)の一般的な問題(通信つまりテキストの生成と解釈はその特殊ケースということになる)に関心を持っている.解釈のドメインには,環境からの意図せざる情報の使用も含まれる.

 
ともあれシャノンの図によってヘイグが何を取り扱っているのは少しわかりやすくなっている.

From Darwin to Derrida その151

 

第12章 意味をなすこと(Making Sense) その16

 
ヘイグは「意味は解釈過程の出力だ」という独自の見方を提示して,これにより意味をめぐる難解な哲学的議論が明解に整理されることを示した.ここから情報理論とのかかわりが解説される.
 

情報理論と意味
  • 通信(communication)の基本的な問題は,ある時点で正確にあるいはおおまかに複製された情報が別の時点で選択を受けるということだ.メッセージにはしばしば意味がある.つまりそれは特定の物理的あるいは概念的なエンティティに参照されているか,何らかのシステムに沿って相関を持っている.これらのコミュニケーションの意味論的な様相はエンジニアリングの問題とはまた別のものだ.

クロード・シャノン

 

これはシャノンの1948年の「通信の数学的理論」にある一節のようだ.掲載誌は「Bell System Technical Journal」とされている.有名なベル研究所のジャーナルのようだ.ちょっと調べてみるとベル研究所は現在も存続しているが,ATTとの繋がりは切れ,紆余曲折の結果ノキアの子会社になっているようだ.
https://people.math.harvard.edu/~ctm/home/text/others/shannon/entropy/entropy.pdf

 

  • クロード・シャノンとウォーレン・ウィーバーはより広い通信理論の一部として情報理論を構築した.
  • ウィーバーは通信(communication)を「ある心が別の心に影響を与える全ての仮定を含む非常に広いセンス」で概念化した.彼は通信の技術的,意味論的,影響的な問題がわかっていた.技術的問題は送信者から受信者への移転の正確性に関連し,意味論的問題は送信者の意図した意味と受信者による解釈の比較に関連し,影響的問題は受信者に送られた意味が望まれた結果を生んだかという問題に関連する.これにより,ウィーバーは「情報」を技術的な問題の場合に,「意味」を意味論的問題と影響的問題の場合にと使い分けた.
  • シャノンの「通信の基本的問題」は技術的問題だった.彼はこの技術的問題に対してデザインスタンスをとり,その数学理論は意図の問題を無視した.
  • ウィーバーは,意味論的問題と影響的問題に対してインテンショナルスタンスをとった(意図された意味,望まれた結果).しかしこれらの問題は数学的には取り扱われなかった.

 
このデザインスタンスとインテンショナルスタンスはデネットの用語だ.ここではデネットの「The Intentional Stance」が参照されている.

書評 「博士の愛したジミな昆虫」

 
本書は岩波ジュニア新書の一冊で,10人の昆虫博士たちがジミな昆虫についての自分の研究を中高校生向けに語るアンソロジー.内容もかなり高度なものまでわかりやすく語られていて,なかなか面白い.テーマごとに5章に分けられており,2人ずつ博士が登場する構成になっている.
 

第1章 棲み分け,食べ分け,サバイバル!

 
第1章は種間競争と繁殖干渉.
冒頭は鈴木紀之で「すごい進化」でも詳説されていたナミテントウとクリサキテントウの繁殖干渉の物語.ここで繁殖干渉のモデルケースが解説された後に,大崎直太によるモンシロチョウ(モンシロ),エゾスジグロシロチョウ(エゾ),スジグロシロチョウ(スジグロ)の3種間の競争物語が解説される.複雑で面白いので詳しく紹介しよう.

  • この3種は食草を異にしている(モンシロはキャベツ,エゾは野草のハタザオ属の植物,スジグロはダイコン,コマツナなどの農作物や園芸作物で日陰にあるものを好む)が,実はどの食草でも成育でき,どの幼虫にとっても農作物園芸作物>野草であった.エゾがわざわざ条件の悪い野草を利用するには理由があるはずだ.
  • モンシロ属の幼虫にはコマユバチとヤドリバエ類が寄生する.モンシロは両種に寄生され,野外での寄生率は90%になっている.スジグロは体内でコマユバチの卵を血球包囲作用で殺すことができるが,ヤドリバエには60%以上寄生される.しかしエゾはどちらからもほとんど寄生されていない.調べた結果エゾは他の植物に覆われたハタザオ属の野草を食することで,食痕が寄生者から見つかりにくくなっていることがわかった.エゾは寄生から逃れるために栄養的に不利な食草を選択しているようだ.
  • モンシロの好む日向にあるキャベツは栄養も温度も高く,卵数も世代数も多くなっている.さらにモンシロは羽化後の分散距離が大きく(キャベツ畑は収穫されるといったん消滅することへの適応と思われる),また寄生者に目をつけられていない天敵不在の新天地にたどり着くチャンス(新天地では寄生率は25%まで下がる)がある.これらが寄生されやすいことの不利を補っていると考えられる.
  • スジグロはコマユバチからは生理的に逃れられるが,分散距離は大きくない.またエゾからは繁殖干渉を受ける(北海道への帰化植物の侵入と食草転換の歴史からの謎解きが解説されている).おそらく,エゾの食草を避け,現在の食草に落ち着いているのだろう.

 

第2章 共進化が生んだ「オンリー・ユー」

 
第2章のテーマは共進化.
まず東樹宏和からヤブツバキとツバキシギゾウムシの果皮の厚さと口吻の長さの軍拡競争の話が解説される.この共進化事例は大変有名だが,東樹自身が一般向けの書物に書くのはこれがはじめてではないかと思われる.果皮の厚さと口吻の長さのマトリクスと攻撃成功確率,地域差,共進化の帰結が地域によって差があることについての数理的モデル,九州南部より南ではツバキ側の勝利になっている可能性などが解説されている.研究物語としても,ツバキの果皮は九州南部で非常に厚くなっており,これに対応した口吻の長いゾウムシがいるはずだという予測(いかにもダーウィンのランとスズメガの話を思い起こさせる)をもとに九州南部に調査に行くが,なかなか見つからず,しかしついに見つけたという劇的な展開が読みどころになっている.
続いて村瀬香によるアリ植物の話.東南アジアではオオバギ属の植物と植物アリが種特異的な共生関係を構築している.そしてこの種特異的な関係がどのように成り立っているか(アリ側の植物選択だけでなく,オオバギ側の非共生アリの排除の仕組みがある),アリ防御をかいくぐって葉を食べるシジミチョウ,茎内でのカイガラムシの飼育などの話が語られている.
 

第3章 敵か,味方か? 関係はフクザツなのだ

 
第3章では3種以上の生物の相互作用がテーマになる.
まず塩尻かおりによる植物と食草者と寄生蜂の関係の話.コナガに食害を受けたキャベツは特別なブレンドの化学物質を出し,それを感知して寄生蜂(コナガサムライコマユバチ)が誘引されるが,モンシロに食害を受けたキャベツは異なるブレンドの化学物質を出し,コマユバチは誘引されないという話が解説される.これはコマユバチが間違ってモンシロ幼虫に産卵することを避けるための適応と考えられるそうだ.
次は金子修治によるアリとアブラムシとその天敵たちの複雑な種間関係の話.ここも少し詳しく紹介しよう.

  • アリとアブラムシの共生系はよく知られているが,これに加えてアブラムシへの寄生蜂,二次寄生蜂,さらにアブラムシと寄生蜂ををともに捕食するギルド内捕食者も絡んだ種間関係が見られることがある.
  • 二ホンアブラバチはアブラムシの寄生蜂であり,アリに攻撃される.アブラバチはアリの防御をかいくぐるために,アリの行動を正確に捉え,遭遇を回避,攻撃をかわし,アリの背後からアブラムシにすばやく産卵する.片方でアリはアブラバチの二次寄生蜂も攻撃する.つまりアブラバチにとっては攻撃を受ける敵である一方,天敵を攻撃してくれる味方でもあることになる.実験によると味方要因の方が大きいようだ.
  • また同じくアブラムシの天敵であるコクロヒメテントウもアリの存在により利益を得ている(ナミテントウなどの競争者が排除され,コクロヒメ自体は化学擬態でアリの攻撃から逃れる).
  • そしてコクロヒメとアブラバチの間には,コクロヒメはアブラバチの幼虫がいるアブラムシを捕食してアブラバチを減らす一方,いったんアブラバチが蛹になるとアブラムシの表面が硬くなり捕食できなくなり飢えるという複雑な関係がある.
  • 近年は外来種であるモンクチビルテントウもアブラムシを捕食することが観察されている.モンクチビルの幼虫は体の表面を樹皮に擬態しており,さらに化学擬態も行いアリの攻撃を逃れている.成虫は非常に早く走ることができ,高速でアリの攻撃をかわしている.

 

第4章 外来種がやってきた


第4章のテーマは外来種.
最初は辻和希による外来アリの話.外来種が定着する可能性は一般的には低いが,一部のものは大成功して生態系に害を与える侵略的外来種になることをまず説明し,そこから侵略的外来種となるアリの話に移る.ここも少し詳しく紹介しよう.

  • 外来種が侵略的外来種になる場合には個体密度が増加するという特徴がある.これは進化的軍拡競争を繰り広げてきた天敵などのしがらみから解放されることによると考えられる.アリはジェネラリスト的捕食者なので他種のアリとの競争が主なしがらみになる.
  • 南米原産のヒアリはアルカロイド毒を他種アリとのナワバリ争いに用いることで(そのような敵と相対したことのないアリしかいない)北米で大成功した.しかし最近(過去のヒアリとの共進化史から)それを中和できるタウニーアメイロアリが南米から北米に侵入し,テキサスではヒアリを駆逐しつつある*1
  • 日本原産の(毒針を持つ)オオハリアリは北米に侵入し,そこで侵略的外来種となっている.日本ではシロアリ専門食だったのが,北米では他種アリを食べるジェネラリストになり個体密度を上げている.日本在来アリはオオハリアリから瞬時に逃走する形質を獲得しているが,そのような性質のない北米のアリはオオハリアリにとって格好の獲物になるようだ.
  • アルゼンチンアリは侵入先で(遺伝的ボトルネックを経るために)体表炭化水素ブレンド比の多様性が低くなり,コロニー間での排他行動が無くなり,融合したスーパーコロニーを作る.これによりコロニー間の闘争にかかるエネルギーやリソースを節約できて,他種アリとの種間競争で有利になると考えられる.

次は田中幸一によるブタクサハムシの日本侵入後の適応進化についての話.休眠に入る日長時間が適応進化することを,観察,実験により確かめる研究物語になっている.侵入時期が遅い苫小牧近辺での謎解きがスリリングに語られているところが読みどころだ.
 

第5章 多様なムシの集まり,食うか食われるか

 
最終章は,研究者人生を振り返るようなエッセイが2つ収められている.
まず総合的害虫管理という概念を打ち立てて実践した桐谷圭治の物語.農業害虫は大発生するから大害虫になるのであって,数を抑えられればただのムシになるということを強調し,害虫防除の歴史(神頼み→手作業での駆除→BHCの大量散布)を振り返り,農薬大量散布の問題は耐性だけでなく,クモなどの天敵をより効率的に殺すためにただのムシが大害虫になってしまうこと,そして残留化学物質の人への悪影響だとする.そして1964年に高知*2の農業試験場に着任した桐谷は農薬一辺倒から脱却し総合管理への大転換を主導する*3.総合管理では費用と増収の経済的視点が重視され,害虫を経済的被害許容水準以下に抑えることを目標にする.桐谷は今後は生物多様性も考慮した総合的生物多様性管理に発展させることが望まれるとしている.
最後は安田弘法の研究人生物語.もともとはのんびり世界をめぐりたいと商船士官志望だったが,商船士官は厳しい経済合理性追求の仕事と知り,大学で応用昆虫学に進む.博士課程で伊藤嘉昭に師事し,糞虫の研究を行う.ここからカドマルエンマコガネとツノコガネの種間競争の研究*4,カの捕食者であるオオカの研究*5,ナミテントウとナナホシテントウの(さらにヒメクロテントウやヒラタアブを加えた)種間関係の研究*6などが楽しそうに語られている.
 
以上が本書の内容になる.この他いくつかのコラムもあって充実している.昆虫や生態学が好きな人には楽しい読み物として推薦できる一冊だ.



関連書籍
 
鈴木紀之によるナミテントウとクリサキテントウの繁殖干渉についてはこの本で詳しく語られている.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/20170622/1498135500

植物と食草者と寄生蜂の話を寄稿した塩尻かおりの本.


本書の執筆者ではないが,アルゼンチンアリやヒアリについてはこの本が詳しい.私の書評はhttps://shorebird.hatenablog.com/entry/2021/01/28/101354


桐谷にはこのような著書があるようだ.

*1:このタウニーアメイロアリは人を刺さないだけましという見方もあるが,ヒアリより遥かに高密度になり,ほとんどのアリ種を駆逐する侵略的外来種となると説明されている.なおタウニーアメイロアリの北米在来アリに対する優位性がどこからもたらされているのかについては説明がない

*2:高知は南国で気温が高く,さらに当時は米の二期作も盛んで害虫が大発生しやすく,ある意味害虫駆除の先進県だったそうだ

*3:農薬を作る化学業界とそれと癒着した農林省本省から目の敵にされ,14年間転勤できなくされたという経緯も書かれている.中高生向けの岩波ジュニア文庫としてはかなり異色な内容だが,これでもかなり抑えて書きましたということなのだろう

*4:トラップで捉えたカドマルの大群を冷蔵庫で死なせてしまい,意図せずに優占種取り除きの操作実験になった経緯などは楽しい

*5:オオカがなかなか見つからず,三宅島で苦労の末にようやく見つける話も楽しい

*6:アブラムシが少ないと4齢以上のナミはナナホシを捕食することがある.ナナホシは危険になるとさっさとそこから移出する.ヒラタアブのメスは兵隊アブラムシがいる集団を避けて産卵するなどの詳細が興味深い

From Darwin to Derrida その150

 

第12章 意味をなすこと(Making Sense) その15

 

相互的情報と意味 その2

 
ヘイグは意味は解釈に先立って情報の中にあるという伝統的な考えに対して,「意味は解釈過程の出力だ」という独自の見方を提示した.これによると意味についての様々な問題は解釈メカニズムと解釈能力だけを考察すればよくなり,意味論にゴーストが残らないことになる.
 

  • 世界にはあるものの価値と別のものの価値の間のまだ認識されていない連合が数多くある.これらの連合は,いったん解釈者があるものの観察を別のものへの有用な行動に結びつけるメカニズムを作り出したらな「認識」される.このようなメカニズムは観察から意味を「読む」ことを可能にするコードブックとして概念化可能だ.コードブックは相互的情報を有用な形態に記述する.

 
言い回しは難しいが,あるテキストがあり,それを観察した解釈者の出力(行動)を生むメカニズムがあると,そこには単なる統計的な相関関係だけでなく(解釈者の)価値が示されることになる.そのメカニズムはある種の「コードブック」ということになるということを言っているのだろう.
 

  • 上の段落にある「コードブック」の意図的な拡張には効果的なアクションで明らかになる知識が実現される全ての形態が含まれる.「遺伝コード」の物理的な実装を考えて見よう.そのコードが(最近の生物学のテキストは例外だが)表形式で記述されていることはない) この様な一般的定義のもとでは「コードブック」と「解釈者」は同義語になる.

 
この拡張された「コードブック」は非常に幅広いものを含むので,いわゆるコードブックのように何らかのテキスト情報になっているものでなくとも何らかの物理的実装があればいいということになる.そしてDNAを複製子たり,タンパク質に翻訳するような場合は,それは解釈者の物理的実体として存在するので,コードブックは解釈者そのものということになる.
 

  • コードブックを手に入れるには2つの方法がある.簡単な方の方法はコピーを入手する(あるいは盗み出す)ものだ.コードブック7500のコピーはベルリンのドイツ外務省とワシントンのドイツ大使館との秘密の通信を可能にした.別な方法は観察と統計的推測に基づいてコードブックを復元するものだ.これはより難しいが,英国情報部はこれに成功した.そして子どもが言語を習得するのもこの方法だ.

 
そしてここからヘイグの定義の有用性(意味論にゴーストが残らない)の具体例が語られる.
 

  • 解釈としての意味の定義は多くの意味論的問題を単純にする.これらの問題には多義性(どのようにして同じ観察が異なる解釈者によって異なる意味を持つのか),語形成(どのようにして複数のソースからの情報が組み合わされて新しい意味を持つことができるのか),状況の混迷ぶりと誠実な解釈者の問題などが含まれる.
  • 茶の葉占い(divination by tea leaves)を考えてみよう.占い師はカップの底の紅茶の葉の配置を観察し,顧客の質問に答える.もし異なる配置で異なる答えになるのなら,葉の配置は占いの答えの情報を持つことになる.全ての可能な解釈は葉の配置の中に「意味論的情報」として存在するのだろうか.それとも占い師はそもそも存在しない「意味論的情報」を見分けられたと勘違いしているだけなのか.
  • 出力としての意味の再定義を用いれば,このジレンマや「真の」意味と「偽の」意味の区別の必要性から逃れることができる.もし異なる占い師が(あるいは同じ占い師が異なる時に)似たようなパターンを似たような運命と占うのであれば,茶の葉の配置と占いの内容には相互的情報が存在する(統計的依存性がある)ことになる.しかしその意味は占い師の意味に過ぎず,茶の葉の意味ではないのだ.

 
この意味論問題の裁き方は見事だ.茶の葉占いというのはハリー・ポッターにも出てくる(トレローニー先生のティーカップ占い)ので英国ではある程度ポピュラーなのだろうか.ちょっと調べるとこれはスラブ民族やオスマントルコにも見られる古い占いが起源で,コーヒーかす占いとあわせてTasseographyとよばれるようだ.当然ながら検索すると占い本がいくつもヒットする.