「分子進化と分子系統学」


分子進化と分子系統学

分子進化と分子系統学


三中信宏先生の「系統樹思考の世界」「生物系統学」を読了してちょっと系統樹に目覚めたこのごろ,次はこの本しかないという感じで手に取ったのが本書である.上記両書ともHenningの系譜を引き最節約法を主体に書かれている.しかし現代の生物系統学は分子のデータと最尤法を抜きにしては語れまい.その意味では「生物系統学」は分子データを主戦場にした部分は割とさらっと流してあり,ややものたりない.本書は評判も高いようだし,期待十分だ.


読んでみて一言で言うと,本書は非常にプラグマティックな視点で書かれている.研究者向けに分子データを用いて系統樹を作るときの注意点を丁寧に解説するというのが基本のスタンスだ.特に最近は優れたソフトウェアによっていろいろな系統樹をその信頼度の数値とともに作ることが簡単になっており,是非その背景の考え方と問題点を理解してもらいたいという願いが込められている.また手法解説のあと実際のデータを使った場合の例が示されており,大変分かりやすいと同時にその内容も興味が持たれるものが多く楽しい.問題意識としては系統樹作成とともに,ある変異について中立説が成り立っているかどうかにも大きな関心がさかれているところに,木村先生の系譜を引く著者の世界がみえる.

「生物系統学」と比較すると,三中先生のドイツ風,Heninngの系譜を引く深い深い森のような世界と,分子データとアメリカ風の乾いたプラグマティズムの世界との対比もあり,読書感覚もずいぶん異なる.ある意味で新鮮だ.背後の数学も記号論理学とブール代数と形態測定の世界から,ひたすらデジタルデータと突然変異率の中立説の世界になる.

いずれにせよ分子データにはどのような特徴があり,それを用いて何を知ることができるのかについて,実務から見た視点でに明快に書かれた本だといえる.系統樹の作成と自然淘汰と中立変異の検出という問題意識が横軸にあり,実際の分析例も添えられてわかりやすさにも十分配慮がされている.じっくり読んだ読者には分子系統の世界がよりクリアーに見えてくるだろう.


内容についても簡単にまとめておこう.


まずは第1章で遺伝と進化について簡単にまとめた上で,第2,3章で分子配列と分子配列の距離についてが説明される.

塩基の置換比率pが議論のスタート.比率を時間距離にするためにポアソン補正を行う.さらに置換確率がサイトごとに異なる場合の補正としてガンマ関数を用いた補正,転位と転換の置換確率が異なることのを補正,そしてGC比率の頻度の補正と続く.(これは本書の最後まで続く特徴だが)なかなか実務的でてきぱきと説明される.GC比率が種やゲノム中の場所によっていろいろ異なっていることの進化的な意味はなかなか難しいようだ.
さらにコドン中の何番目かによる置換確率の差,またアミノ酸置換データの場合の考え方が述べられる.

次の第4章で,コドンの同義的な置換と非同義的置換(アミノ酸の種類が変わる)の置換速度を別に推定する問題が取り上げられる.ここは淘汰か適応かにこだわる中立説からの問題意識が見えるところだ.



第5章は系統樹について

いろいろな概念が整理される.有根・無根,種系統樹・遺伝子系統樹,モデル系統樹・実現系統樹など.そして作成法として距離法と最節約法と最尤法の3つがあり,この作成法を巡って大きな論争があることが説明される.この論争の背景として研究者が受けた教育(形態測定の系統分類学者としての教育を受けたか,遺伝学者や分子生物学者として教育を受けたか,あるいは数学者・統計学者として教育を受けたか),興味のある進化のタイムスケールの違い(短期的進化に興味があるのか,長期的進化に興味があるのか),そしてどの作成法も完璧ではないことがあるとする指摘は興味深かった.
また歴史的な背景や哲学的な背景についてもふれられている.割と中立的な記述だが,中に「分岐分類派は非常に排他的で最節約法以外を認めなかった」とか,「今では最節約法が必ずしもよい系統樹を与えないことがわかっているが信奉者は依然として最節約法の優秀性を主張している」等の記述があり,厳しかった論争の名残が見える.


実務的なところではモデル系統樹を仮定して,そこから一定の置換確率前提を置いて非常に多くの塩基配列を作成し,このデータからそれぞれの作成法でどの様な系統樹があるかを調べるという方法があり,それぞれの主張者がそれぞれシミュレーションを繰り広げているらしい.
基本的に著者たちの立場は特にこれが正しいという一般的な方法はないというもの.上記コンピューターによるシミュレーションの優劣判定は,通常の生物学問題ではあまり現れないような実務的にあまり意味のないデータにおいてのみ差が現れる.塩基サイト数が少ないと真の系統樹よりパラメーターがよい系統樹が探し出される確率が生じるので,逆に徹底的に探索すること自体に意味が無くなる.通常のデータではどの方法をとってもほぼ同じ系統樹が得られる.
大規模データでは計算時間まで考えると近隣結合法によりブートストラップコンセンサス樹を表示するのが現実的だと主張しているようだ.


第6章は距離法

いったん何らかの方法で配列間の距離が得られたところで,この距離を使ってどのように系統樹を推定するか.非加重平均的合法(UPGMA),最小二乗法,近隣結合法,最小進化法がそれぞれ説明される.UPGMAは樹長がすべて一定という前提があり特殊な方法.残った方法のうち近隣結合法はパラメーターの最適化を行わない手法で,アルゴリズムが速い.パラメーター最適化法の樹形探索はNP完全問題となるのでどのように探索するのかが問題になる.ここで近隣結合法は他のパラメーター最適化法の樹形探索の土台を作るのに用いられるようだ.
本章で繰り返し強調されるのは,パラメーターを最適化させることの意味で,樹形自体を統計量としたときにこれは一致統計量を与えない,つまり理論的には最適化と樹形の良さについての根拠が曖昧だということだ.(そしてこれは最節約法にも最尤法にも当てはまる)


第7章は最節約法

もともと形態的測定値を用いた方法を分子データに応用しようというもの.手法の説明のあと樹形探索のための手法解説がある.この樹形探索手法が距離法とまったく異なるのが面白い.距離法におけるd2d4法などと,最節約法の最小枝交換法,単枝付け替え法,切断・再接合法が本質的に手法と関連しているのか,単に歴史的にそうなのかは解説が無く,読者としてはちょっとわからないところだ.
また最節約法では同等の節約樹が複数生じやすいことが取り上げられ,ブートストラップによるコンセンサス樹形が説明される.続いて樹長の推定と祖先形質推定においては,最節約法ではどこで置換が起こったかにより複数の祖先推定が生じる問題(アクトランとデルトラン)が示される.
次に置換確率で重み付けした加重節約法が紹介される.最節約法と最尤法の合成のような気もするが,考え方の基本は置換速度の遅い枝を重視することにより平行置換問題を避けるための工夫という説明のされ方だった.どのように重みを与えるかという点にはいろいろ複雑な問題もあるようだ.「生物系統学」ではこの重み付けにより最節約法は非常に強力になったとあるが,本書ではそこまでの評価ではなかった.
次に分子の世界で,戻り置換や平行置換が起きにくい現象があれば,そもそもの系統分岐学で考えられていた共有派生形質に近いものになる.そのような現象を取り上げれば最節約法はきわめて有効な方法になる.ということで,トランスポゾンのSINE,LINE,そしてイントロンなどの方法が採り上げられる.SINEを用いた方法は岡田先生の一連の研究で使われたもので,本書でもその方法論が5000万年程度までなら非常に有用だと認められているということのようだ.実例としてもクジラの起源が取り上げられている.


第8章は最尤法

尤度関数と,どのような計算をするのか,そして樹形探索まで丁寧に解説がある.(ここでは樹形探索アルゴリズムは最小進化法や最節約法と同じとある.ということは先ほどの違いは歴史的なものということか)尤度を考えるわけだから,置換確率の前提がきわめて重要になる.ここに何種類もの塩基置換モデルがあるわけだ.モデル選択に関して赤池情報基準も登場する.系統樹を求める計算自体も読んだだけで気が遠くなるような量だ.もっとも理屈的にはなかなか美しい気がする.
最後に最近流行の繰り返し計算でマルコフ連鎖を生じさせて解くベイズ法を利用した系統樹作製法が紹介され,どうも繰り返して定常状態を得ようとしている部分に問題があるようだと締めくくっている.


第9章はこのようにして得られた系統樹の検定について

内部枝長がゼロでないことを検定する方法と,使用されたパラメーターが樹形間で差があることを検定する2方法が説明される.パラメトリック検定で統計量の分散を出すためのブートストラップ法と,そもそも樹形選択にかかるブートストラップ法についても説明がある.どうもブートストラップ法は分子データの様なデータを扱うには非常に強力な手法のようだ.


第10-11章は分子時計,分岐年代,祖先アミノ酸の推定について

減数分裂時のエラーとそれ以外の(世代に関わらない)エラー.ゲノムの中にも様々な置換確率が生じていること,そしてエラー修復機構の進化の可能性まであることを考えるとこの問題が非常に複雑で一筋縄ではいかないことがよくわかる.
その後分岐年代の推定(置換速度が異常値を示すデータをのぞいて分岐年代を推定する),祖先アミノ酸の推定(分子生物学の進化により中間タンパク質の機能推定ができることが新しい研究分野をひろげている)また自然選択がきいているのかどうかの(中立説からの)問題にも触れられる.


第12-13章で種内多型,遺伝子頻度データからの系統樹作成について.

ここでは遺伝子型が多型であることと,そこから生まれる様々な問題について.分析の基本はハーディワインベルグ平衡と自然選択が与えるそこからのずれの検出(ずれは集団の構造,インブリーディング,自然淘汰によって生じる)が関心事だ.またそのような多型データから系統樹を作成することができる.これは人種の系統樹のような比較的短い種内変異を含む分析に適している.さらにPCRから得られるデータ,制限酵素により得られるデータの分析法にふれる.


最後の第14章でまとめとして研究者へのメッセージが告げられて終わりになる.もう一度系統樹作成の際にはその背後の理屈を知っていてほしいこと,ゲノムプロジェクトによりこれから従前にましてデータが増えてくる.これを利用した各種研究プログラムで必要になる検定方法の開発が今後の課題であることを強調している.



関連書籍

生物系統学 (Natural History)

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系統樹思考の世界 (講談社現代新書)

系統樹思考の世界 (講談社現代新書)


さらに系統樹つながりで


三中先生のdagboekで初めて知った英国版のみThe Ancestor's Taleの図版がカラーであるとの情報.
これは衝撃だ.あわてて購入してそのまま積んであった翻訳本と,手元の米国版,さらにamazon.co.jp, amazom.co.uk, amazon.comを巡って自分でも確認.追加してわかったのは米国版では単にモノクロになっているだけではなく,そもそも掲載されていない図版が相当あることだ.これはひどい.とりあえず翻訳本にはすべて掲載されているからよいとして,確かにあんまりだ.Houghton Mifflin社.これまでcenterのつづりがcentreになるのはどうもひっかかると米国版を優先して入手してきたが,(それにカバーデザインは米国版の方があか抜けていることが多い,本書もカバーデザインだけは米国版の勝ちだ)これからは考え直さないと.
カラー図版がはっきり確認できるのは英国版のハードカバーのみで,これはすでにamazon.co.jp, amazon.comでは新刊入手はできなくなっている.amazon.co.ukでもいつまで入手可能なのかはよくわからない.うーん翻訳本だけですでに7000円の追加出費で,さらにもう7000円を英国版に費やすのか,すでに米国版で予約注文しているThe God Delusionも英国版で発注し直すべきか(これもカバーデザインは米国版の方がおしゃれなのだ),少し頭を冷やしてよく考えよう.



米国版のカバーデザイン

Ancestor's Tale: A Pilgrimage to the Dawn of Evolution

Ancestor's Tale: A Pilgrimage to the Dawn of Evolution



英国版,ペーパーバックのカバーデザイン,amazon.co.ukで中身検索しようとしてものぞけるのはハードカバーのみ
ハードカバーのデザインは”はまぞう”では得られなかった.

The Ancestor's Tale: A Pilgrimage to the Dawn of Life

The Ancestor's Tale: A Pilgrimage to the Dawn of Life



ついでにThe God Delusion
米国版のカバーデザイン

The God Delusion

The God Delusion



同じく英国版

The God Delusion

The God Delusion




(9/20追記)


当初10月発売予定だったこのThe God Delusion,上記のごとく取り消して英国版にしようかと悩んでいたら,昨日発送通知が舞い込み,本日配送されてきた.箱を開けてみて驚愕.この上にあるカバーデザインはモノクロのグレーの中にThe God Delusionを表象しているような上品な白い影が見える美しいカバーに見えるが,実はこれ,異常に下品にぎらぎらする銀色の単色カバーなのだ.げっそり.これでは本当に英国版の方がよかったかも.
ぱらぱらめくってみたところさすがに内容が内容なので図版は全く収録されていないようだ.(実は英国版のみ図版があるとかいう話でないことを祈る・・・もはやHoughton Mifflin社については何も信用できない気分だ)

( 9/24追記
結局amazon.co.ukでカラー図版収録の the Ancestor's Tale 発注してしまいました. 何とか5000円程度の追加出費ですみそうです.発注してしまうと手元にくるのがひたすら楽しみだ)
(さらに10/1追記
先日三省堂本店で英国版のペーパーバックを見かけた.領布価格1995円.図版はモノクロのものとカラーのものがあり,カラー図版は縮小されて,何カ所かにまとめられてカラー口絵になっている.ペーパーバックだと紙質も悪いせいか図も安っぽく見えてしまう.ハードカバーの発注で正解だった)




中立説関連書籍


中立説といえば,なんといってもこの本.
もう読んでから10年以上たってしまっている.また読み直したいものだ.

分子進化の中立説

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木村資生先生のこの本は,新書としては素晴らしく濃い内容のいい本だと思う.

生物進化を考える (岩波新書)

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