「数学する遺伝子」


数学する遺伝子―あなたが数を使いこなし、論理的に考えられるわけ

数学する遺伝子―あなたが数を使いこなし、論理的に考えられるわけ




本の題名からは,数学に関する遺伝子が見つかったみたいな話を連想しがちだが,この本の主題はそうではない.私たちの数学を行う能力が進化的にはどう説明できるのかということを扱っている.そもそも数学の発展はせいぜい数千年で,しかも最近の300年ぐらいに特に大きく展開しているものだ.また狩猟採集の世界で数学ができることはあまり大きな優位性を持たなかっただろう.だから数学できる能力自体が進化的な淘汰圧であったはずはない.ということは私たちに数学する能力があること自体が説明を要することになる.さらに,多くの人が数学を苦手にしている中で一部の人が数学が得意であるのは何故なのだろう.本書はこのような疑問に対して数学者である著者が仮説を提示するものである.


著者の仮説の核心は,人には未来の成り行きを何通りか想定してあらかじめプランを立てる能力がプロト能力として進化し,その能力が外適応として言語能力と数学能力が生じたというものである.



本書ではまず数の感覚について面白い指摘が次々になされる.ここは本書の読みどころの一つだ.
数の感覚自体は動物にも見られるし,ヒトの幼児にも1-3の数の感覚は生得的にあるようだ.しかしそれ以上の数の感覚は(一部の訓練した類人猿について10程度までという例外を別にして)ヒトに特異的だ.それは数詞を持ち,数えるという習慣に大きく関係していると主張している.その証拠としては指を使って数えることから10進法が普遍的であることをあげている.またヒトの持つ数の感覚は対数的な数直線的であり,パターンとして感じている.九九が覚えにくいのはパターンが干渉するからだ.また計算能力は言語能力に大きく関連していて,整然とした十進法を使っている中国人(そしてそれをそのまま使っている日本人)はヨーロッパ言語を使っている欧米人より有利だという.


続いて数学者である著者は数学についてこれは計算する学問ではなく,パターンの科学だと説明する.そしてそれは普通は見えないものを見えるようにするのだという.その例として,平面を埋め尽くす壁紙のパターンの限定性,動物の体表の模様が拡散反応系で説明できること,花の形とフラクタル,そして対称性と群論を次々と鮮やかに説明してくれる.この辺もなかなか読み応えがある.


さらに自分自身の経験から数学をどのように脳で処理しているのかを説明しようとしている.デブリンはある分野での数学の実践について家を建てて家具を入れていくという比喩を用いている.抽象化のレベルを上げることによって数学が脳で処理できるようになっているのだと説明したいようだ.しかし抽象化の難しさの説明にコスミデスの提示した4枚カード問題を取り上げているのだが,抽象化された問題が難しいという説明に止まっており,だまし検知モジュールというコスミデスの主張のポイントとずれてしまっている.



このあとデブリンは言語の仮説の提示にはいる.言語が進化してきた過程において抽象概念と統語法が非常に重要であり,統語法の説明はチョムスキーの深層構造によっている.


ここからデブリンはグールドワールドに入っていく.偶然と副産物を強調する説明が幾層にも組み立てられている.まず脳の増大自体は賢い振る舞い(=パターンを認識し,それにあわせて行動する能力)を行う能力として自然淘汰されて進化した.そしてその物理的社会的環境を理解するための能力から,(脳内の突然の構造変化によりツリーが再帰性を持つようになり)オフライン思考能力(パターンについての思考を外側から把握することができる能力=未来の成り行きを何通りか想定してあらかじめプランを立てる能力)が生まれ,統語法が,そしておそらく言語自体が,その能力を外適応とする副産物として生まれた.(深層構造がユニバーサルである理由として単一の祖先系統での進化という説以外にアトラクター的に同じ状況に陥った可能性があるとも示唆している)また直立したことが子音の発音にとっての外適応だ.

言語自体副産物と考えるのはかなりグールド的だ.言語のような複雑なものが副産物として生じる可能性がきわめて小さいというピンカーらの主張に対して,デブリンは言語自体を説明しようとするのは言語を持つ人間にしかできないわけだから,これは「人間原理」が適用になる局面であり,可能性が小さいといって副産物説を否定できないはずだと反論している.ここに人間原理を持ち出すのはデブリンの独創だし,ロジックとしては正しいが,何故適応説が間違いだと思うのかについて説得力はないと思う.


さて本書の中心議論である数学する能力についてデブリンの説明は以下のようなものだ.
再帰性のツリー構造からもたらされるオフライン思考能力から,数学する能力は自動的にもたらされた.そして社会の組織化とともに数千年前からその能力が開花したのだ.
ここでデブリンは突然生じた言語能力はゴシップという形で社会関係を円滑にする用途を見いだし使われるようになった.そして数学者が数学をしているときにはまさにいろいろな数や関数についてのゴシップを考えているのと同じだと説明している.言語のゴシップ用途を認めながらその用途に対する自然淘汰適応形質であることを認めないというのはかなり強引な解釈といわざるを得ないだろう.しかし逆にそれが数学をする能力としてまさに偶然可能になったと考えるのは筋が通っている.


最後に何故数学が苦手な人が多いのかについて,デブリンは抽象化のレベルが高いことと厳密さが必要になることを理由にしている.そして言語がちゃんと使える人にはすべて数学をする潜在能力があることを強調し,今後の数学教育についての提言を行っている.



数学する能力についての進化的な説明を行うという点で本書はきわめてユニークだし,それが別の認知的能力を外適応としてできるようになったとする説明はなかなか興味深いし説得力もある.言語についての説明はあまりにもグールド的になりすぎていて私には買えない.しかし言語の本質論には面白い観点を含んでいるし,十分読むに足る興味深い書物だと思う.