- 作者: Lisa Zunshine
- 出版社/メーカー: Ohio State Univ Pr
- 発売日: 2006/04/30
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これは英米文学の専門家であり,認知科学を文芸批評に応用しようとする分野の研究者である著者による,進化心理学的な視点もふまえた上での「何故ヒトは小説を読むのか」という本である.
認知科学を応用した文芸批評という概念自体,私にとっては新鮮な響きだ.まず私は文芸批評全般についてまったく無知である.また認知科学を応用した文芸批評が今日どのような状況下についてもまったくよく知らない.アメリカではそれなりに1つの動きになっているようだが日本ではどうなのだろうか.しかし認知科学や進化心理学をふまえているというのはとても面白そうだ.進化心理学者が小説について解説している本はかつて読んだことがあるが,文学者が著者であれば,歯ごたえは相当異なるだろうと思って入手した次第である.
さて本書は認知科学応用文芸批評そのものの本ではなく,スティーヴン・ピンカーの現代文学批判に対する文学者からの回答がその本筋にある.ピンカーはThe Blank Slate(邦題「人間の本性を考える」)という本において現代芸術をこてんぱんに批判している.映画や本やポピュラーミュージックのかつて無いほどの興盛の中で,何故現代音楽と現代文学が不調なのか.ピンカーはそれは現代のエリート芸術家が,ヒトの進化した適応心理の1つである普遍的な美的感覚を否定できるとするモダニズムやポストモダニズムという誤った理論にとらわれているからだと指摘している.
最初に私がこれを読んだときには膝を打ったものだが,文学関係者はきっとそうではなかっただろう.認知科学応用文芸批評はむしろ人間の認知,心理をきちんと考えようというピンカーの主張に近いものだが,文学者にとっては現代文学を丸ごと否定されてしまうのではたまらないだろう.
著者は基本的には進化心理学的な物事のとらえ方に賛成している立場からこの本を書いている.しかしバージニア・ウルフやナボコフの小説は単にヒトの認知を無視した誤った理論だけの小説ではないことを,認知科学の知見を通して主張していくのだ.冒頭にはいきなりウルフの「ダロウェイ夫人」の込み入った心理描写から始まって,小説を「心の理論」「メタ表現への適応」として解釈していくことを宣言している.
第一部「心の理論」での,著者の主張は,難解な小説を読む進化的な説明だ.それによると,物語は人の心についての読者の認知プロセスを誤らせたり混乱させたりするが,読者はそれを自覚することで自分の認知能力,特に心の理論がきちんとしていることを知り,いわば自分の心が健全であることをチェックできるためのテストとして好まれるのだという.最初に読んだときにはちょっと凝りすぎの解釈かなという感じだが,よく考えてみると結構面白い解釈かもしれないと思うようになった.確かに込み入ったプロットに自分がついていけていると知ることは楽しいものだ.バージニア・ウルフの小説が特に読者にとってチャレンジングなのは5次以上の高い志向次元が用いられているからだとして「ダロウェイ夫人」の場面の分析もある.
さらに感情を直接説明しないという小説の手法については,より読者の「心の理論」に対してのテスト負荷が高くなるという効用があるのだという.さらに典型的な文芸批評のスタイルは行動から心を探るというパラダイムに多くをよっているとする.実際に小説の中の主人公の心に関係のない風景描写は驚くほど少ないし,非常に退屈な部分になるというのは面白い.
ピンカーに対しては,モダニズムの作家は人生の複雑さをとらえようとしたのであり,空虚な理論にのみよっているのではないとし,実際に難しい複雑な小説を読む喜びはあるのだと反論している.そして文学者はピンカーを軽蔑すべきではない,ピンカーは文学者が答えるべき問いを先に見つけたのだと解説している.
第2部の「メタ表現」については,冒頭にコスミデスとトゥービイの論文が引かれている.(これも入手して読んでみた.レビューはまた別途行うことにしよう)コスミデスたちの「メタ表現」の主張は簡単に言うと,人はある表現に対して,それを誰がどのようにしていったのか,その真実確率はどのぐらいであるかなどの「タグ」をつけて記憶,解釈している(そしてその進化的な説明)というものだ.そして(ちょうど心の理論の欠如が自閉症ではないかという仮説と同様に)メタ表現能力の欠如は統合失調症として現れるのではないかと示唆されている.
そしてこの認知的な特徴は,文学において様々に利用されているというのが本書の主張だ.真実とされることをどう表現しているか,誰が何を言っているのかをうまくプロットに組み合わせている例としてはオースティンの「プライドと偏見」が取り上げられている.さらに「信用できない語り手」という手法について詳しく解説がある.そもそも「神の視点」で真実のみが地の文で語られるのか,ある主人公の目から見た真実なのか,さらにそれに信用できない部分が混じっているのかについて作家と読者のゲームがあるのだという.
これについてはサミュエル・リチャードソンの「クラリッサ」とウラジーミル・ナボコフの「ロリータ」が題材にとられて深く分析されている.「クラリッサ」では主人公の1人語りで物語は進むのだが,500ページを越えてから,読者はこの語りが信用できないのではないかということに気づく.読者は不安的な語りにより,メタ表現を極限まで駆使することを強いられ,さらにその心の理論を試されるのだ.「ロリータ」は主人公の死後発見された告白書という体裁をとり,さらに信頼できないナレーターのテクニックが駆使されている.他人の心の邪推,時制の駆使,「知っている」などの単語の力,語り手が読者に向けて心情吐露する部分により,読者からの信頼を得ようとするテクニックなどが解説されている.読者はいろいろな形で語られる多くの心をトレースしなければならないのだ.
第3部では推理小説についての解説が収められている.推理小説は非常に奇妙なジャンルであり,読者は自分がだまされることを予期し,知りたいことをじらされることを楽しむ.著者によるとこれはウェイトリフティングのようなもので,実生活に役には立たないが,心のある部分のトレーニングとして中毒的な快感が得られるものだという.これは文章表現を「すべてを疑え」というアドバイスのもと,新たな事実がでるたびにすべてを再評価するという試みなのだという.
そして推理小説のお約束はこの認知タスクの難しさから理解できると解説されている.まずすべてを疑うのは非常に難しいので焦点を絞る必要がある.だから誰が殺人の真犯人かという一点に焦点が絞られているのだ.そして推理小説の基本的なプロットは犯人の心を読むことにある.これは心の理論のトレーニングだからだ.さらに探偵の心は通常開示されないが,これはどんどん崩されつつある.これは推理小説の歴史は作者が誰の心を疑わせるかという実験を繰り返していると解釈できる.そして最後のお約束は,探偵は恋をしない.なぜならロマンス小説において要求される心の理論と推理小説のそれとはかけ離れていてまとめるのは困難だからだ.しかしこれも近時面白い試みがなされているという.この推理小説の解説(特に探偵は何故独身主義か幸せな結婚をしているかのどちらかなのかという解題)はなかなか面白かった.
本書を通じて著者は,小説は心の理論やメタ表現にかかる適応に対応したものだ,そしてそれは自分の心の理論能力を確かめたい読者に受けるのだ,そして人により確かめたいことには個人差があり,だから特定読者は特定のジャンルを好むのだと主張している.またそれは書き手にとっても真実であり,このような創作能力は楽しいのだと主張している.
認知科学を利用した文学の読み解きは私には初めての体験だったが,なかなか面白かった.何故ヒトは難解な小説や推理小説のような奇妙なものに愛着を抱くのかという点では,なかなか面白い仮説になっていると思う.今後小説を読んだり映画を見たりするときにはより楽しめるような気がする.
関連書籍
進化心理学者バラシュとその娘さんによる進化心理学から見た物語の解説.最初は娘さんの宿題を手伝っているうちに親父さんがはまってしまったという顛末が楽しい.
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その邦訳,上中下三巻セットだ.
人間の本性を考える ~心は「空白の石版」か (上) (NHKブックス)
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本書で深く解題されるバージニア・ウルフの小説,「ダロウェイ夫人」 英文のフルテキストがネットで入手できるようだ.また映画化されていてDVDもでている.日本では難解な前衛性よりも,第一次世界大戦の影を引きずる2番目の主人公のトラウマやその思想的背景としての反戦性がよく取り上げられるようだ.
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その邦訳.
- 作者: ヴァージニアウルフ,Virginia Woolf,富田彬
- 出版社/メーカー: 角川書店
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Lolita (Penguin Modern Classics)
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ロリータについては最近新しい邦訳がでている.
- 作者: ウラジーミルナボコフ,Vladimir Nabokov,若島正
- 出版社/メーカー: 新潮社
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認知科学を利用した文芸批評についてはシリーズ(theory and interpretation of narrative)になって何冊も出版されているようだ.実は本書のそのうちの一冊である.シリーズは10冊以上あるようで,すべてが認知科学関連ということでもないようだが,そのうちいくつかを紹介しておこう.
- 作者: George Butte
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- 出版社/メーカー: Ohio State Univ Pr
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