「進化医学からわかる肥満・糖尿病・寿命」

進化医学からわかる肥満・糖尿病・寿命

進化医学からわかる肥満・糖尿病・寿命



医学者の著者による進化医学的観点から見た肥満・糖尿病・寿命についての一般向けの本である.

医学は人の病気を治すためのものであるから,当然その主たる関心は病気の至近的メカニズムと,それ知識を利用した治療方法に向かうことになる.本書はそこに進化医学的視点を入れて書かれていると唱われているが,私のような進化生物学に興味のある読者から見ると実はやや物足りない著述ぶりである.

結局著者の関心はあくまで至近的なメカニズムにあって,それを解説するためにゲノム的な知見や分子進化的な観点が少し加えられている程度のような印象を持ってしまう.そういうわけで本書は進化生物学的にはやや期待はずれだ.もっともこれは医学者としては至極まっとうな姿勢なのだろう.


話の切り口としてはダーウィン自体が苦しんでいた持病が取り上げられていて,いくつかの説を見たあと,その候補の一つパニック障害は捕食者に対する適応で,ラクトース不耐症(これは伝記等を読む限りちょっと無理のある仮説のような気もするが)について牧畜に伴う進化であると説明があり,導入としてはちょっと工夫がある.
もっとも続く進化についての導入部分で.進化論から進化学になったのは分子生物学の進歩によるところが大きいという認識を披露し,適応にかかる問題よりゲノム進化やその系統的な道筋についての関心が著者の関心の主なものであることが明らかになる.またなんと有性生殖の進化について「種を存続させるために有利」であるからという完全にずれてしまった記述も見られ,大変残念な部分だ.


おそらく著者はゲノムや分子進化についてはいろいろ聞き知っているのだが,集団遺伝学や行動生態学についてはほとんどきちんとした知識がないようだし,適応を巡るその学問領域について関心もないのだろう.


もっともこの部分をいったん受け入れれば,なかなか真摯に書かれた肥満と糖尿病の分子メカニズムに関する解説書だと思う.特にわかっていないところをわかっていないとはっきり断っている部分は好感が持てる.


内容としてはまず糖尿病について解説がある.肥満と糖尿病が全世界で増え続けている現状が紹介される.そして答えられるべき疑問として,1.なぜ糖尿病が淘汰されずに発病が増えているのか,2.野生動物と違って人が肥満するのはなぜか,3.なぜ肥満すると糖尿病になるのかの3点が挙げられている.

続いて糖尿病になる至近的メカニズムが詳しく紹介される.また肥満のメカニズム,肥満と糖尿病の関連も説明される.
またインスリンの分子構造が解説され,その系統樹的な進化の軌跡が探られる.インスリン系が代謝の中で多用な作用を行っていること,脊椎動物になってから代謝と成長が分離し,循環糖質がトレハロースからグルコースに代わり,より正確な血糖調整が必要になったことが示される.
さらに脂肪について単なるエネルギー貯蔵期間ではなく内分泌系の役割があること,そのフィードバックにより野生動物は特殊な例外を除いて肥満にならないことが紹介される.ここでヒトはエネルギーコストの高い脳を進化させたことが脂肪蓄積を重要なものにし,トレードオフとして肥満しやすくなったのではと推論される.
糖尿病が血液をより不凍液に近くするための寒冷適応とのトレードオフの一種ではないかという仮説については結局本書ではまったく取り上げられていない.著者の興味が適応にないことがここでもよくわかる.


ここでは話は一転して肥満の遺伝要因と環境要因の問題になる.胎児期,幼児期に低栄養にさらされた場合の影響を調べた事例とともに,倹約型遺伝子仮説,倹約表現型仮説などが紹介される.著者としては受精卵発生の過程での栄養状態により,肥満しやすさのプログラムのスイッチが変更されるために,出生前後低栄養で長じて富栄養環境下におかれた場合に肥満になりやすくなるのではないかと述べられている.


次に寿命について.著者はどちらかといえば,哺乳動物は代謝に関して決められた寿命があるという説で説明しようとしていて,コウモリの例外をあまり真剣に考えていないようだ.むしろ分子的なメカニズムの説明とカロリー制限の謎がかなりの量を占めている.ここも多面発現やトレードオフ仮説についての言及があまりないのが残念なところだ.


最後の章はヒトの過去の進化環境から考えた健康へのアドバイスが述べられていて,当たり前だが,適度な食事内容と食習慣,適度の運動が勧められている.


私の評価としては,本書は真摯な本ではあるが,進化医学と名打つには進化についての理解の浅さが気になる書物と言うことになる.ちょうどランドルフ・ネシーがジョージ・ウィリアムズと共著したような形で誰か進化生物学系の人と共著という取り組みがなされればより深い本になったのではないかと思われ残念だ.



関連書籍


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人はなぜ病気になるのか―進化医学の視点

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この本も実際にはあまり適応的な観点の話はなく,免疫の細かいメカニズムが中心になっている.