読書中 「The Stuff of Thought」 第4章 その15

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature



さてここまでヒトが物事を理解しているフレームについて,そしてそれが言語にどう表れているかを,物質,空間,時間,因果とみてきた.本節はそのまとめになる.


そしてヒトの心はこれらがヒトの目的に沿う形で適用されるようにデザインされている.つまり私達は哲学や理学の世界にいるのではなく,工学の世界にいるのだというのがピンカーの説明だ.そしてその例として取り上げるのは,いかにもピンカーらしくトイレのサイフォンにかかるHow Stuff Worksのウェブサイトの説明だ.


そこには可算名詞,不可算名詞の面白い使用があり,空間は2次元の境界を持つものや,1次元的なものとして捉えられていて,時制の使用もいろいろな技巧がとられている.因果についても直接的に示していたり,させる,許す,阻止するなどの表現がみられる.特に因果については哲学や論理では悩みの種だが,エンジニアの説明としては実にしっくり来ることがわかる文章だ.


面白いのでちょっと訳してみると次のような文章だ.

バケツ一杯の水をボウルに流し込んでみよう.このぐらいの量の水を注ぎ込むとフラッシュが生じることがわかるだろう.フラッシュの際にはすべての水はボウルの外に吸い出され,ボウルははっきりわかるフラッシュ音を立てる.そしてすべての水はパイプを下っていく.
何が起こっているのかについて説明しよう.水はサイフォンチューブを満たすだけ十分に素早くボウルに注ぎ込まれている.そしていったんチューブが満たされるとあとは自動的に進んだのだ.サイフォンは水をボウルの外に吸い出し,下水パイプに流し下した.ボウルが空になるとすぐに空気がサイフォンチューブに入ってきて,例のフラッシュ音を立て,そしてすべての過程を止めたのだ.


時制についてみると以下のようなことになる.
最初に読者を実験に誘う部分は現在形を用いている.次に完了形が来る.「何が起こっているのか」「注ぎ込まれている」はつい先ほど生じ,現在の興味の対象なので現在完了形を用いている.そして読者にゆっくり振り返って考えて欲しいところは過去形を用いている.そして「いったん満たされると」「空になるとすぐ」などの副詞句で完了的な相を表している.日本語の語感だともう少し違う時制の取り方をするかもしれないが,いずれにせよさっと読むだけでは気づかない複雑な技巧がわかる.



上記の例はエンジニアリングだが,ピンカーは社会生活上の問題も同じように扱われているという.因果というとき最初に思い浮かべるのは天気や崖崩れだが,実際には「自由意思」に絡むヒトの行動が重要だ.因果を示す動詞は,もっとも典型的な用法では,主語に人を持ち,目的語には因果の最終的な目的として意図を持っておこなう操作の対象がはいる.


さらにピンカーはここで自由意思の因果について解説している.
私達は自由意思に原因がないと考えているが,しかしそれらに影響を与えようとしているときにはそうは扱わない.私達は,人に対して,彼等が引き起こす結果について責任を持たせる(hold people responsible)ことで,影響を与えることができる.私達が快く思ったりいやな出来事を引き起こす人間に対しては,私達はほめたりけなしたりすることで影響を与えようとする.(さらにこれを聞く第3者に対しても)
このときの因果の概念は責任を持たせることと同じだ.私達は人が意図的に直接,予見しながら行うことと,偶然,あるいは知らずに行うことを区別する.そして罰を明確に定め,それが書かれたものは法律とよばれる.


そして道徳の解説につながる.
直感的な因果の概念が自体にうまくフィットすれば,事件は簡単だ.しかしそれがずれると問題になる.


よく問題になるのは,単純に続いて生じた事件と,因果関係にある事件の区別だ.

次は引き起こすことと容認することの違い( cause と let の違い)だ.
ここではハウザーの暴走列車の例がとられる.5人を救うためにポイントを切り替えて1人を殺すことは是認するが,橋から1人を突き落とすことは是認しない.そしてほとんどの人はその理由を説明できないと言うおなじみの現象だ.(私のハウザーの本への読書ノートは http://d.hatena.ne.jp/shorebird/20070403 あたりを参照のこと)


ピンカーはまずジョシュア・グリーン(哲学者で神経認知科学者)の考えを紹介する.その考えでは,ヒトには進化的に形成された,罪なき人を手荒に扱うことへの強い嫌悪感が備わっており,これがすべての功利的な計算を凌駕するのだろうということだ.

ハウザーの本でも,哲学者の議論としては「この場合の原則は「直接的に人を殺そうとすることは許容できない悪だ.何か別の目的を持った行為の副産物として人が死ぬ場合は(それが予知できても)許容できる」と説明できる.2の場合,列車を支線に切り替えること自体に道徳的な価値はないのだ.逆に1の場合には直接殺害し,臓器を取り出すという行動がネガティブな感情を呼び起こすのだ.これは「ダブルエフェクト原則」と呼ばれる.一般の人は一瞬にこの判断に至るが,この原則を説明できる人はほとんどいない.」とまとめている.


そしてピンカーはこの奥底には動力学的な心の仕組みがあると言っている.
行為者が敵対者で,罪なき人が主人公である通常の「因果を表す」動詞の用法シナリオでは,すべてを凌駕するような感情を生み出す.それに対して単に列車という敵対者を「可能にする」動詞シナリオではそのようなことはないのだ.


ここでピンカーは問いかける.これは心のforce dynamicsが不合理だということだろうか,あるいは言語が道徳観を汚染しているということだろうかと.


ハウザーの本では,過去の進化環境に適応した道徳観は非常にトリッキーなものだとこの不合理性を認めていた,確かに遠く離れた大陸の不幸な人々に対する判断と目の前にいる人に対する判断の差はそうかもしれないが,ここにある「引き起こす」ことと「容認する」ことの違いはこれでは説明できないかもしれない.


そしてピンカーはこの点について必ずしも心が不合理だと考える必要はないという.
私達は,人を,彼等が何をしているかだけでなく,彼等が何であるかでも評価するのだ.列車に向かって人を突き落とせたり,赤ちゃんの口をふさげる人間は,他の場面でも恐ろしいことを平気で行うかもしれない.
そのような冷淡さは別にしても,常にコストとベネフィットを計算して行動する人は,自分に有利なように計算を歪める可能性がある.


つまりその行為を行う人をどう評価するかということと,その行為自体の評価が心の中では混在してしまうからだという説明だ.引き起こすことと容認することについてはこの説明の方が良いかもしれない.
もっともハウザーの例でいうネッド(ポイントを切り替えて太った男に当てて減速させる)やオスカー(ポイントを切り替えて重いものに当てて止めるのだが,その前に痩せた男がいる)のケースでは微妙な善悪切り替えはとてもトリッキーに思える.



ピンカーはこれにも答えを用意している.そもそもの暴走列車の仮想例のようなものは,実社会ではまずあり得ない哲学者のわなだという.
ここでのジョークはパンチが効いていて笑える.
「1つの脳が桶に入って,平行双子地球の暴走列車が近づいている線路上にある.引き込み線上には1人の男がいる.彼はこれから5人の殺人を行おうと考えている.その5人のうち1人はテロリストで30人の学童を乗せたバスが通る橋を爆破しようと考えている.・・・・・」


しかしいずれにせよ微妙な境界事例が実際にあるのも事実だ.ピンカーもそれは認めていていくつかの例を示している.
ニューヨークのベニハナレストランの訴訟例は奇想天外でアメリカらしくて笑えるものだ.(シェフのパフォーマンスで客に向かってエビを投げ,客はそれをよけようとして首を痛め,さらに手術が失敗する)



法律と言語の問題は因果以外にもある.ここでは刑法が例にとられている.


別の人間による自発的行動が中間に入った場合の問題:
ある男はIRAに命じられてガンマンを乗せた車を運転し,殺戮場所に運んだ.この男は謀殺の共犯か?
戦争犯罪人が,私は命じられただけだという言い訳は?洗脳されたという言い訳は?


日本の刑法解釈では,これは責任阻却事由としての「期待可能性」の議論になる.行為の当時,行為者が適法行為を行うことを期待できないものは責任を認めないという考え方だ.自発的行為なら当然共犯を形成するだろう.強迫されたり洗脳されたりした場合にはこれに該当するかどうか個別に判断することになる.脅迫は状況次第で認められるだろうが,洗脳はなかなか認定が難しいかもしれない.実際には境界事例はなかなか難しいだろう.



不作為犯の問題:
子供を殴る夫を止めなかった妻の責任は?
ホームレスが凍死するところを通り過ぎた通行人は?
正当防衛で襲ってきた男の足を撃ったあとで,救急車をすぐに呼ばないで出血多量死させた場合は?


不作為犯は日本刑法の解釈でも議論が多いところだ.多数説は不作為を広く認めずに,作為義務が存在すること,作為の可能性があること,作為の場合との構成要件的同価値性があること,などの付加的な条件を解釈として要求するようだ.
上の例でいえば,夫を止めなかった妻には作為の可能性があったかが問題になるだろうし,ただの通行人には作為義務はないと解釈されるだろう.最後の例はわざと殺そうとして呼ばなかったのであれば不作為犯が認められるだろう.



意図と結果が食い違った場合の問題:
他人のものと思って傘を盗んだが,実は自分のものだったら?
男が自分の実の娘だと思って,義理の娘と同意によるセックスをした場合は?(実の娘なら犯罪,義理ならそうでない)
ヴードゥーの信者が,妻の人形に呪いのピンを刺して殺そうとするのは?


日本の刑法解釈では,構成要件錯誤の問題として様々な議論があるところだ.
傘の例では(そして仮にそういう犯罪が規定されていたとして2番目の例も)おそらくそもそも構成要件を満たしていないので犯罪を構成しない.
ピンカーは例を挙げていないが,問題があるのは,犯罪Aの意図を持って犯罪Bを引き起こしたときだ.法定的符合説と具体的符合説で論争になっている.
最後の例はいわゆる「不能犯」として犯罪を構成されないと解釈されるケースだ.しかし不能犯はどこで未遂犯と区別するかが難しく,これまた客観説,具体的危険説,主観説などのあいだで論争がある.



ピンカーは本章を次のようにまとめている.

カントが「私達の心は大気を切り裂いている」といったとき,それは物質や空間,時間,因果について正しかった.それらは私達の意識的な経験の基質なのだ.それらは統語論の要素(名詞,前置詞,時制,動詞)の意味的なコンテンツなのだ.それらは語彙を与え,それにより私達は物理的,社会的現象を理解できる.
それらは実際の事実の側面ではなく,脳内にあるガジェットなので,哲学,科学,法律にかかる謎を生み出すのだ.それでもよく見ていくと,これらは無限の水族館や永遠の時計やプレイオーバーボタンではない.(カントの時代にはそう考えられていたが)それらは,世界がアナログなのに対してデジタルだし,世界の豊かさに対して簡素でスキマティックであり,正確さを切望しても曖昧で,私達が客観的な観点を欲しても,人の目的や興味に偏狭なのだ.


常識の基礎が単に1つの臓器のデザインスペックの上に乗っているというのは,高慢の鼻を折られるような気もするだろう.それでも私達の科学と論理は物質や宇宙や時間や因果について直感には反するが真実に違いないと思われる様々なことを解明してきたのだ.

第4章 大気を切り裂く


(5)純粋と応用