「ダーウィンとデザイン」


ダーウィンとデザイン -進化に目的はあるのか?-

ダーウィンとデザイン -進化に目的はあるのか?-



本書「Darwin and Design」は科学哲学者マイケル・ルースによるダーウィニズムと進化に関する3部作の3巻目ということだ.前2作はMonad to man: the concept of progress in evolutionary biology (1996),Mystery of mysteries: is evolution a social construction? (1999)で,いずれも残念ながら翻訳されていない.副題などを見る限り,前者は進化における「進歩」概念を扱ったもので社会科学者が進化を進歩と捉えたことなどを題材にしているようだし,後者は「進化」という概念が社会的な構築物かというポストモダニズム的な議論を扱ったもののようだ.
本書で取り扱われているのは科学と価値の問題だ.西洋文化の起源と目的論的思考から始まる大作であり,進化をめぐる様々なトピックも扱い,さらに目的を与えるのは誰かという問題に絡んで仮想敵は創造論ということになる.ドーキンスの「盲目の時計職人」と重なる領域だ.もっとも本書はテンプルトン財団の援助を受けており,当然ながらドーキンスのような激しい議論とはなっていない.


本書では進化を巡る目的論的な議論を大きく2つに分けて論じている.
1つは「複雑性へ向けた議論」:なぜ自然には組織化された複雑性を持つものが存在するのか,目的があるかのような構造があるのかという議論.
もう1つは「デザインへ向けた議論」:このような目的を持つようなものをデザインしたのは神でしかあり得ないのではないかという議論である.


本書の最初は議論の歴史である.


この議論は古代ギリシアにさかのぼる.プラトンは将来の善のために物事の秩序を作っているのは神だと論じた.アリストテレスプラトンとは異なり複雑性へ向かう議論の方に興味を持ったという.
キリスト教は,当初信仰の基礎はデザインではなく聖書だとした.アキナスは一部デザインへ向かう議論も援用している.キリスト教が神の存在の基礎としてデザインへ向かう議論を行うことは自然神学と呼ばれる.16世紀以降ルターに始まるプロテスタントは聖書を基礎とした.キリスト教には大きく聖書を基礎とする立場とデザインへ向かう議論を使う立場の2つの流れがあったことがわかる.


18世紀以降はヒュームとペイリーとカントが取り上げられる.
ヒュームはキリスト教のデザインへ向かう議論に対して,設計者が多数いる可能性があること,いまあるデザインは多くの試行錯誤の末のものである可能性があること,自然に見られる多くの邪悪を説明できないことから反論した.
ペイリーはドーキンスと同じく好意的に取り上げられている.ルースによれば,自然淘汰が提唱されていない当時,神の議論は最善の仮説であったのであり,ペイリーの議論はその意味でアブダクションだと考えられると言うことだ.
カントは私達の認識は心の産物であることを認めつつもある種の必然と客観を得ようとした.ルースの紹介はやや難解だが,因果と思考を巡る考察の結果,道徳律を導くには神が必要だと論じ,生物学は目的論を含まざるを得ないと主張したということのようだ.


当時の生物学はどうだったのか.エラズマス・ダーウィン,キュビエ,オーウェンの考えをたどりながら,目的論的に進化を考えたいといいながら「相同性」をどう解釈するかが最大の難問であったというのがルースの整理だ.


進化の議論を大きく下がって歴史的に見るようなものは時々読むことがあるが,さすがに古代ギリシアと中世キリスト教神学から説き起こしているものは少ない.18世紀以降の議論の背景を理解するにはここから始める方がよいということだろうが,蘊蓄好きにはなかなか興味深い部分だ.


ここでダーウィンが登場する.自然淘汰は「複雑性へ向かう議論」を肯定し,目的的に見える性質の説明と相同性とうまく説明できる議論であり,「デザインへ向かう議論」を否定するものだったのだ.
そして「適応は絶対的なものでなく,同種個体よりよければいいという相対的なものであることから目的論も相対化している」というのがルースの見立てになる.


種の起源」の出版後の議論を追いながら,ルースはダーウィンの「複雑性へ向かう議論」が科学,「デザインへ向かう議論」が哲学と神学という領域の区別が,ハクスリーにより両方において行われるようになったと解説している.ハクスリーとオーウェンの争いの背景にはオーウェンプラトンイデア論的な観念論(適応にあまり関心がない)とハクスリーの経験論(神の存在については,デザインへ向かう議論はダーウィンにより粉砕され不可知論しかあり得ないという立場)の対立があるのだ.
アメリカのエイサ・グレイはやはり適応には関心がうすく,地理的分布に関心があった.そしてダーウィンと神の存在は両立すると考えた.
ルースの解説は詳細だが,結局「適応」についてどこまで真剣に考えているかが,デザインへ向かう議論についてどう考えるか(つまり神の存在についての考え)に大きく影響を与えるというのがダーウィンが登場して以来の基本構造だということがわかる.


しかしダーウィンの死後いったん適応に関する考察は影が薄くなる.それはダーウィン自然淘汰とメンデルの遺伝についての総合を待たなければならなかったのだ.この部分についての本書の記述は,ダーウィンの研究を受け継ぐものとしてベイツによる擬態の議論,そしてメンデルの再発見後,いったん自然淘汰とメンデル遺伝は矛盾すると考えられたのを統合したものとして,特にフィッシャーを取り上げている.フィッシャーは適応至上主義者であり,生物は環境に敏感に反応するものと考えた.これに対してアメリカのライトは,理論的にはフィッシャーと等価なものを主張したが,実際の生物進化観としてはランダムなものを重視し,小集団への隔離,浮動を強調した.
このあたりはイギリスによる適応重視ナチュラリスト,大陸における観念派,アメリカにおけるランダム重視派という流れを見ているようだ.(この流れを強調した書物としてはマレク・コーンによる「A Reason for Everything」がある.)
本書ではこの後ライトの後継者であるドブジャンスキーが両者の中庸に立ち,マイヤー,シンプソンにつながっていき,第二次世界大戦後,適応を重視する考えが復活しダーウィン革命が成就したと捉えている.(マレク・コーンは引き続きグールドの考えの中に米国のランダム重視派の伝統が残存していると捉えている)


このダーウィン革命後の世界についてはルースは順番にいろいろ紹介している.
最初に取り上げられるのはDNAにかかる研究の進展が与えた影響だ.ルウォンティンによって膨大な変異が集団内にあることがわかり,それが進化適応を生じさせていることの例としてショウジョウバエのアルコール耐性遺伝子の研究が示される.
また行動特性の進化についてウィリアムズ,ハミルトンの役割にふれ,例としてはニック・デイビスのヨーロッパカヤクグリの研究が示される.古生物学への影響についてはステゴザウルスの背版についての解釈が紹介される.
ヒトについての研究は,ダーウィンから始まり,ドブジャンスキー,ハミルトン,E. O. ウィルソンにふれる.もっともここでは文化についての考え方にまで踏み込んで,性比理論を例にして研究の進展を説明しようとしているが,状況や理論がうまく整理して紹介されて無く,説明としては失敗しているように思う.
いずれにせよルースの言いたいのは,大戦後のダーウィン革命により「複雑性へ向かう議論」についてはダーウィン自然淘汰ははっきり成功しているということだ.


このあたりから本書は現在いろいろ議論されている各論についてのさばきにはいる.


まず現在生物にみられる様々な形質はどこまで適応していると考えるべきかという議論.あるいは適応に制限はあるのかという議論だ.


適応が完全ではないことがあることはダーウィン主義者も明快に肯定している.時間的にな制約,材料としての変異がないことによる制約,浮動によるものなど様々な原因で完全な適応からずれることは誰しも認めているところだ.だからこの点からダーウィニズムを否定することはできない.
これに関連にして,最適性を前提としたモデルにかかる実証データをとるという形の研究方法については,局所配偶競争にかかる研究を紹介しながら,そのプログラムが,自然を理解する上で有益であることを説明している.


次は大進化に関する議論.生物の大進化に傾向はあるのか.


明確に大きくなるとか,明確に進歩すると言うことは誰も主張していないし,誤りだ.それでもなお一般的な傾向はあるのかが議論される.グールドによるほとんど偶然だけで決まっているという主張とドーキンスによる軍拡競争を通じた傾向があるという主張がよく対比される.ルースはこれについては「進歩」という言葉の定義の問題だとさばきながら,グールドの壁のある拡散状況という「フルハウス」における主張に共感しているようだ.


次は「選択のレベル」の議論.


ここのルースのさばきは満足できるものではない.ステレルニーのように集団淘汰理論と包括適応度が等価であるというような一刀両断のさばきをしていないのは少し残念なところだ.
ルースは集団遺伝学の理論が遺伝子中心であることがすべての基本にあるのだが,集団が単位になる議論も誰も否定していないという.しかしそこでD. S. ウィルソンを取り上げずに,有性生殖が集団淘汰の実例ではないかというメイナード=スミスの主張と,「種淘汰」を巡るグールドの主張を紹介しているだけだ.なおルースは「種淘汰」については,利他的行為のような性質を説明できるわけではなくあまり興味深い「淘汰」ではないというコメントをしている.


次は「形態」


ルースによれば,本来進化は形態の変化を伴うので,形態を研究するものにとってインパクトが大きいはずであったが,現実はそうではなかった.研究者をそれを無視し,寄与も小さかった.しかし21世紀になってここはまた新たな論争の場となっているという.それは形態主義と進化の制約を巡る議論だ.

遺伝的制約についてはまだ明らかになっていることは少ない.
歴史的(系統的)制約についてはエヴォデヴォの進展によりHox遺伝子などと発生の基本の理解が進み,大きな動きとなっている.グールドはここについて系統的制約を強調した主張を行った.ウィリアムズやメイナード=スミスは相同性と適応はそれぞれ深く分析されるべきであり,制約に見えるものの中にも安定化淘汰で十分に説明できるものもあるはずだと主張した.ルースはこの点では後者に親和的なようだ.
ここで構造的制約として,グールドのスパンドレルの議論が紹介されている.主流派の学者の反応は,そんなことはわかっているというところだが,特に大きな問題になるのはヒトの脳と行動特性についてだというのがルースの見立てだ.(このあたりはステレルニーの著書と同じような見方だ)道徳に関する考えを巡るルウォンティンとE. O. ウィルソンの考え方も紹介されている.
最後の物理的制約としてカウフマンの自己創発性の議論が紹介される.ルースはこれについては冷ややかだ.

最後にルースはいずれもダーウィニズムの脅威にはならないとまとめている.


次は「目的」について


ルースによれば,目的と機能からダーウィニズムへの懸念は4つあるという.

  1. 超自然的な存在
  2. 目的と物理は矛盾するか
  3. 目的論はパラドックス
  4. 目的論は擬人化か

まず超自然についてはあっさりと否定している
物理学と矛盾するかについては,自動追尾装置付のミサイルを例にあげて,そうではないと議論している.なかなか哲学的な議論は難しい.
パラドックスかという点についてもなかなか難しい哲学的な議論がなされているが,要するに,組織化された複雑性に対して,デザインというメタファーを与えるのが進化生物学の核心であり,原因による結果が自然淘汰というプロセスを通じて原因へフィードバックされているために「目的」のようなものが現れる.そしてそのような言い回しが許されるのだという議論だ.
最後の擬人化についても哲学的な議論が続いている.メタファーを使うことが進化生物学の説明として適切かと言うことだが,明確に肯定するドーキンスに対し否定する論者が存在するという形だ.ルースはメタファーの使用は問題ないし,理解が進むという観点から望ましいという立場から説明している.

この部分は哲学的なこだわりがなければ,いったいなぜこんなに真剣に議論しているかよくわからない印象だ.いずれにせよ,自然淘汰と適応を理解するには「デザイン」と「目的」というメタファーが有効であれば十分のように思う.


最後にキリスト教との関連が取り上げられる.


まずキリスト教徒による進化の受容と反発の歴史が概観される.ダーウィンのデザインに向かう議論を受けて,当時の主流のキリスト教徒は進化を抵抗なく受け入れたし,それが信仰と矛盾するとは考えられていなかったようだ.しかし1920年代以降社会問題を背景にしてアメリカでファンダメンタリズムが盛んになり始める.カトリックは進化に対しては基本的に傍観者であり続けたようだ.

理論的には「種の起源」以降のキリスト教関係者には選択肢は3つしかない.まず信仰を捨てること,次に「創造」は「進化」と通じて行われたと考えること.最後に「進化」を否定することだ.2番目の考えの極端な例がテイヤード=シャルダンのオメガポイントと言うことになる.この場合「進化」=「進歩」という考えが強くなる.

過去のような自然神学は「種の起源」以降は不可能になったのだとドーキンスは主張するし,それは非常に説得力がある.自然神学は「自然の神学」になり,神は「法則」のみを定め.法則を通じて世界を創造したのだと考えるようになる.ルースが主張するのは,キリスト教はこの立場に立つ方が良く,デザインへ向かう議論は止めて,再び複雑性へ向かう議論に注力したほうがよいということのようだ.このあたりはテンプルトン財団から支援を得ていることもあってキリスト教により良い役割を果たして欲しいというルースの希望が見える.

ファンダメンタリズム,そしてそれの新しい装い,インテリジェントデザインやマイケル・ビーヒーの議論についてルースは冷たい.ビーヒーの議論はその前提(偶然だけでは複雑なものができないから自然淘汰による進化はあり得ない)が間違っているし,また世界になぜ邪悪があるのかをやはり説明できない.ルースはドーキンスの盲目の時計職人の議論に全面的に賛意を示しつつ,自然の驚異に対する愛はキリスト教にあり,複雑性へ向かう議論こそ実りあるのだと言って本書を締めくくっている.


前半の思想史の部分は啓発的な視点も多く,蘊蓄を楽しめる.大きな歴史的視点からダーウィンの位置を眺めることができて読んでいて大変楽しい.後半の各論には,進化生物学的議論についてところどころ甘いところがあるように思う.また「目的」を巡る哲学的な議論は哲学好きな人以外にはやや冗長なところもある.最後のキリスト教との関連についてはキリスト教側の受容と反発の歴史は詳しくて興味深い.
全体的な議論の整理はドーキンスの盲目の時計職人の議論に加えるところはあまりないと思う.自然淘汰を問題なく受け入れている読者にとっては議論を追うと言うよりも,議論の骨格を鳥瞰的な視点から眺めつつ,蘊蓄たっぷりのその詳細を楽しむという読み方がよいだろう.



関連書籍


ルース3部作

Darwin and Design: Does Evolution Have a Purpose?

Darwin and Design: Does Evolution Have a Purpose?

Mystery of Mysteries: Is Evolution a Social Construction?

Mystery of Mysteries: Is Evolution a Social Construction?

Monad to Man: The Concept of Progress in Evolutionary Biology

Monad to Man: The Concept of Progress in Evolutionary Biology


冒頭にもふれた3部作(ルース本人がこう言っているようだ)このほかにも非常に多くの著書があるようだ.




A Reason for Everything: Natural Selection and the British Imagination

A Reason for Everything: Natural Selection and the British Imagination

英国における自然淘汰を重視する考え方,大陸欧州での何か内在的な力が進化に働いているという考え方,偶然を重視する米国的な考え方という切り分けを示していて大変面白かった.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20060331



Blind Watchmaker

Blind Watchmaker

盲目の時計職人

盲目の時計職人

本書のスコープに近い本だ.私の書評はhttp://d.hatena.ne.jp/shorebird/20080217