読書中 「The Stuff of Thought」 第6章 その4

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature



一般名詞である名前の意味は,頭の中の定義と,それに対応するものを指す指示であり,その2義は通常の世界では滅多に食い違ったりしないというのがここまでの説明だ.


ここから各論とも言うべき話題がいくつか取り上げられる.


まず登場するのはなんと生物学的な「種」の問題.「種」問題はことばの意味にも波及するのだ.
ダーウィン以前(そして創造論者にとっては今も)人はすべての種にはその本質があって,必要な特徴により正確に定義できると考えていた.しかし進化を考えるとそれでは済まなくなるのに誰かが気づいた.本質論では恐竜は恐竜の本質を持ち鳥に進化できないことになる.
名前の意味から見たダーウィン革命の真価は「種」を生物の集団に対する指示語に変えたことだ.集団のメンバーはそれぞれの時点で特徴に多様性がある.そしてその特徴の分布はゆっくりと変化していくのだ.種名は系統樹の枝を指し示す語に過ぎない.その時点とそれから少し前と少し後,あまり変わっていない集団を指し示す語だ.


そうなのだろうか.集団に対する指示語かどうかより,その「種」が時間的に(そして空間的にも)一定でないということがポイントなのではないだろうか.うかつにつっこむには大議論がありそうな危険なところだ.



2番目は「冥王星
ピンカーによるとこれこそ科学的な論争ではなくクリプケの言う言語の論理の議論なのだ.
「惑星」という言葉は多くの人にとって,ちょうど名前のようにはっきりとした指示語だ.それは9つの星の集合を指すと言語コミュニティで了解されていた.だから指し示されているものの実体が変わったとしてもそのまま呼び名は変わらないと感じるのだ.天文学者はしかし科学的に首尾一貫したものにつける技術的な単語が必要なのだ.そして市井の「惑星」の使い方には耐えられなくなったわけだ.


もっともこれは「惑星」には「惑星」の本質があるべきだという視点から見ることもできるような気がする.天文学者冥王星のような天体が無数にあることを知り,実は冥王星には「惑星」らしさが無いと感じるようになったのではないだろうか.少なくとも私の「惑星」のとらえ方は9つの星の集合ではなく「太陽を回る軌道を持つ天体の中で,比較的大きめの天体」という語感であり.他に冥王星のような天体が無数にあるのであれば,今回の決定は自然な気がする.



次は法律の世界.
法,特に刑事法はある単語で何を指しているかは客観的に明確でなければならない.だから法律の単語は正確な定義があるノミナルカインドであるべきだ.しかし実際にはそうはなっていない.


ピンカーはレオ・カッツのあげる例として面白い法律を取り上げている.
植民地時代のアフリカで,英国総督府は魔法抑圧法を制定した.そこには細かな魔法に関する定義があった.さて,法では魔法とされていない魔法を使った被告をどう裁くべきか.単語の意味が定義だけなら無罪だ.しかし魔法がはっきりとした指示語なら有罪にすべきだ.
そしてピンカーによると「猥褻」を巡って多くのアメリカ市民は実質的に同じ法的な問題を経験しているという.これは列挙したような「猥褻」の定義があるということだろうか.


法が列挙しているのが定義なのか例示なのかは法解釈として争われざるを得ないだろう.魔法抑圧法のような刑法犯罪の例では一般的には罪刑法定主義が適用されるから無罪とするのが妥当ではないだろうか.少なくとも日本法では「猥褻」について列挙による定義はないように思うが,それともあるのだろうか?



ここからピンカーはクリプケによる知識の種類の哲学的な議論を紹介している.
アプリオリ(事前)知識は肘掛け椅子に座ったまま入手できる.神からの啓示,内省,生得的知識,論理と数学的な推論など.アポステリオリ(事後)知識はそこに行ってみて初めてわかるもので,実際の世界でボールがどう転がったのか,もう一度やったら別の結果になるような知識だ.
クリプケはさらに別の可能性を論じた.アポステリオリな知識だが,必須なもの.明けの明星と宵の明星が同じものだという知識はアポステリオリなものだ.しかしいったん発見されればそれは常に妥当する.そして同じようにいったん科学者が水がH2Oだということを発見したら,水はH2Oでなければならない.
さらにクリプケが明らかに示したのは,私達が固有名詞や自然物の名前を使うときに何にコミットしているかということだ.驚くべきことに私達は論理的な必須知識(でかつアプリオリに知ることのできない知識)にコミットしているのだ.それらは私達がどんな種類の真実を知っていて,どのようにそれを知ることができたのかについての理解をひっくり返したのだ.


これは要するに,実際にデータをとってみて初めて得られる知識でかつ普遍的に妥当するような知識があるということが驚くべきことで,それが普通名詞の名前の意味の基礎になっているということを言っているのだろう.物理法則の発見物語を読みすぎた私のような人にはなかなか実感のない驚きなのかもしれない.



ピンカーはまとめとしてこう言っている.

意味という概念に近づくとパラドックスの香りがする.いくつかの単語で何かを「意味」しようとするときに,正確には私たちは何をしているのだろう.アリストテレス,アルファケンタウリ,水,偶数,2050年に生まれる最初の赤ちゃん,ポールが死んでたら世界はどうだったか,などというときに何をしているのだろう.
ニューロンを発火させて唇を動かすことにより,古代の哲学者との関連に立てるというのは驚くべきことだ.これらの例では彼を直接知っていた人からの言葉の学習の連鎖でつながっている.
めまいがしてくるのは水や偶数などの場合だ.宇宙のどこかにあるかもしれない水やまったく抽象的な事物.まだ存在してもいない人,平行宇宙.これらと私達はエナジーをやりとりしないし,直接感知できない.それでも私達とそれらは透明な意味論の鎖でつながっているようだ.

さらに最後に哲学者コリン・マッギンの言葉も引用している.

ほかの多くの哲学上のミステリーと同じく,言葉の意味を巡る問題は,常に謎に包まれている.それは私達の常識を,そういうことを考えるように進化していない概念上の王国にたたき込むからだ.


第6章 名前には何があるのか


(1)世界の中なのか,頭の中なのか?