The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature
- 作者: Steven Pinker
- 出版社/メーカー: Viking Adult
- 発売日: 2007/09/11
- メディア: ハードカバー
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ここでピンカーは子供の名前に戻る.
多くの親は,子供に周りの子と区別できるような特別の名前が良いと思っている.ちょうど良いぐらい特別な名前にしようと皆が考えると,皆同じような特別な名前にしてしまう.このため1960年代には教室はスーザンとスティーブにあふれ,今日クローとディランにあふれているというわけだ.そして次世代の親は,そのカーブを別の方向に向けようとする.このあたりは前回見た日本の子供の名前の傾向と同じだ.1960年代には真由美ちゃんや達也くんが教室に多く(そしていまは中年世代の名前だ),いまの中学校には美咲ちゃんや裕太君,そして幼稚園は七海ちゃんや海斗くんがあふれているというわけだ.
またピンカーはこの傾向は音にも現れると指摘している.流行は始めや終わりの音に現れるというのだ.ここはいかにも言語学者の分析でレヴィットの分析にはなかったところだ.
例としては,20世紀にはジェインという名前が,ジャニス,ジャネット,ジャン,ジャネルを産んだ.それぞれいろいろな綴りを生み出しながら.キャロルはキャロリン,カレン,キャリー,カーラ,カリーナを生み出した.ジェニファーはジェシカとジェンナを生んだという.この音という要素は,同じような有名な名前のどれが流行ってどれが流行らなかったかの謎を説明できるとピンカーは解説している.ダーリンはという名前は1960年代の英国で流行ったが,同じようにテレビで出てきた名前リッキーやマックスウェルはそうではなかった.その当時英国の男の子の名前の1/3は n で終わっていたのだ
日本では漢字が意味と音とを表すので純粋に音だけの現象かどうかはわからないが,女の子の名前の止め字が「こ」から「み」にそしていまは「な」が多いというように移り変わっているようだし.男の子の名前も「お」から「た」「と」などに移り変わっているようだ.
ピンカーは男の子の名前のいくつかが女の子の名前に変わっていく現象も取り上げている.
両親は時に男の子の名前を女の子につける.男の子が欲しかったというより,女の子に独立心と強さを期待してのことだろう.そしてこれらの名前のうちいくつかはセクシーな女優やスーパーモデルの名前になる.(ドリュー・バリモア,ブレア・ブラウン,グレン・クローズ,ジェイミー・リー・カーティス,キャメロン・ディアス,ジェリー・ホール,ダリル・ハンナ,メル・ハリス,ジェイムズ・キング,ショーン・ヤング)
もしこれらが百年前にもあったということがなければ,当然フェミニズムが原因だと主張されただろう.20世紀の初めには,ビヴァリー,ダナ,エヴェリン,ガイル,レスリー,メリディス,ロビン,シャーリーは皆男の子の名前だった.そしてこれは常に男の名前が女の子の名前になってしまうという一方通行だ.
いったん男の子の名前が女の子につけられるようになると,その名前は男の名前としては呪われてしまう.なぜなら両親は男の子の女性のようになって欲しくない気持ちが強いからだ.ジョニー・キャッシュがいうように「スーという名前の男の子にとっては人生は容易じゃない」のだ.
日本ではこのような現象はあまりないようだ.思いつくのは「誠」と「真琴」のような対になった名前だが,これもどちらが先なのかはよくわからない.女の子に男の子の名前をつける両親が西洋に比べて少ないのは文化的な差ということだろう.たぶん日本では「大輔」という名前の女の子にとっても人生は容易ではないのだろう.それにしてもガイル,レスリー,ロビンがいまや女性の名前だとは知らなかった.
ピンカーはこれらの子供の名前を巡るダイナミクスの理解が新語を巡るダイナミクスの理解に役立つと示唆している.
商品名や会社名にも見てきたように流行がある.そして強調語にも流行はあり,この場合一方通行のインフレになる.英語の場合にはterrific(恐怖を引き起こす),fantastic(ファンタジーのような),tremendous(めまいを起こさせる),wonderful(驚嘆の念を生じさせる),fabulous(物語として語られる)などは大昔にその意味が薄れてしまった.現在の話し手は,awesome, excellent, outstanding, brilliant のパンチ力をそぎつつあるのだそうだ.
日本語でも「大変」「とても」「非常に」などは力を失って久しいし,「すごい」「むちゃくちゃ,めちゃめちゃ」も随分パンチ力が無くなってきた.「超」はあまり使われなくなってきたし,「まじ」「ギガ,ギザ」「テラ」とかは定着するのだろうか.
これと似た例としては,セックスや排泄や加齢や病気などの感情を深く呼び起こすような人生のイベントにかかる概念は婉曲語法のトレッドミルという現象を引き起こすことがある.
toilet はもとは身体のケアを意味する言葉だった.(オードトワレなどはこの用法)そして排泄する場所の意味になった.そしてbathroom に置き換えられ,lavatory, WC, gents', restroom, powder room, comfort station に変わっていった.日本語でも「便所」から始まって「はばかり」「雪隠」「厠」「手水」「お手洗い」「化粧室」「トイレ」など随分移り変わりがあるようだ.
これはハンディキャップについての語,好まれない職業,マイノリティ民族の呼び名にも見られる.「体育」についても見られるとあるが(gym, physical education, human biodynamic)これは少なくとも日本では見られないし,なぜそうなるのかよくわからない.体育は忌避されるようなことだったのだろうか?
面白いのは科学用語にもこのような流行があることだ.もともと科学者は,自分の発見をラテン語やギリシア語で表現することを求められていた.(ligand, apotosis, heteorskedasticity)
これは英語での回りくどい表現に道を開き,(頻度依存淘汰,frequency-dependent selection, secondary messenger)そして気の利いたほのめかしへの耽溺につながった(クオーク,ビッグバン,ソニックヘッジホッグ遺伝子)そしてついに今風の省略形まで出現している.(メンブレン(膜)を縮めてブレイン理論とか)
ピンカーはさらに,ダイナミクスだけではなく,単語の広がりには疫学的な条件もあると指摘している.最初の作り手から周りにどのように伝わり,さらにどう周りに感染していくのか.そのうちに新語は死に絶えるか広まって定着するかのどちらかになる.それは毎日人々がどう言葉を使い,気づき広げていくかにかかっている.実際の病原体感染と同じく予測は難しい.最初の小さな差が大きな結果の差を生み出しうるのだ.
要するにピンカーが言いたいのは名前や言葉の移り変わりは社会の単純な原因によるものではなく,個別の心の大きな集団が生み出す複雑な現象だと言うことだ.ここには進化的な考え方を拒否する社会科学に対する揶揄がかいま見える.
名前は移り変わるが,文化の別の側面を映し出しているわけではない.ロールモデルに沿っているわけでもないし,マディソンが女の子の3番目に人気のある名前になったのは,通りの名前にかかるホンのの偶然の結果だ.現象を理解するには,名前をつけることに関するヒトの本性をよく考えなければならないのだ.地位の心理,両親の心理,言語の心理,それまでにある名前と疫学的モデルなどだ.
この考え方についてピンカーは,トマス.シリングの「ミクロ動機とマクロ行動」,マルコム・グラッドウェルの最近のベストセラー「The Tipping Point」を紹介している.様々な経済現象,社会現象は,広告や政策やロールモデルなどの外部の影響に帰しているのではなく,個人の選択が影響を与え合って生じているのだ.
ピンカーは本章をこうまとめて終えている.
私達は単語の意味をつかまえている概念構造の正確性と抽象性をみてきた.今や,私達は名前が外部世界とヒトの脳を結びつけているのを知った.
名前は,音を選び,その対象を指示し,それを同じように使いたいという後継者に伝えていく名付け親からその意味をもらっている.そのすべてのステップは私達をアイロニーに巻き込む.指示の行動と複製の意図は,現実に対するアイデアというだけでなく,私達を,それを区別して使うことはできないにしても,現実に結びつける.
そして音の選択は,ヒトの生活の中でもっとも大きな矛盾を包含するやり方で,それに完全にフィットするというのぞみとユニークでありたいというのぞみの狭間で,私達の社会と私達を結びつけるのだ.
第6章 名前には何があるのか
(4)プロジェクトスティーブ再訪