読書中 「The Stuff of Thought」 第7章 その2

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature

The Stuff of Thought: Language as a Window into Human Nature


ピンカーはまず冒涜現象は世界中にあるユニバーサルな現象だと本章を始めている.
そして正確にどの言葉がタブーになるかは時代とともに移り変わっていく.言語の歴史をみるときれいな言葉が汚れていく例を見ることができるのだそうだ.
中世の英語のテキストでは現代では許されない表現であふれているらしい.OEDによる15世紀の文章「In women the neck of the bladder is short, and is made fast to the cunt: 女性の膀胱の頸部は短く,女性性器に直結している」


よくわからないがこれは現代では冒涜的な表現だと言うことだろう.cuntが特に問題なのだろうか?


歴史家ジオフリー・ヒューはこう言っているそうだ.「タンポポをpissabed,サギをshitecrow,チョウゲンボウをwindfucker と呼べた時代は股袋の強調の時代とともに過ぎ去ったのだ」
またハックルベリー・フィンは nigger という単語のためによく学校で禁止される.この言葉は尊敬的な用法であったことはないけれども,現在ではマーク・トウェインの時代より遙かに煽動的な言葉になってしまっているのだ.


ピンカーは別の例としてマイフェアレディのイライザの台詞も取り上げている.(本書ではマイフェアレディはよく登場する.ヒギンズ教授が言語学者だからなのか,単純にオードリーのファンだということなのかはわからないが,ピンカーのお気に入りの映画なのかもしれない)

バーナード・ショウはピグマリオンにおいてイライザに上流社会のお茶会で「Not bloody likely」(とんでもねえ)と言わせている.1914年当時この台詞は劇中のご婦人達をぎょっとさせただけでなく,観客にとってもショッキングだった.しかし1956年に映画化されたときには bloody は当たり前の言葉になっていて,脚本家はアスコット競馬場でイライザに「Move your bloomin' arse!」(しっかりそのでかいけつをふれよ)と叫ばせることにした.

ピンカーはこのほかにもいろいろな例をあげている.


日本語でもこのようなことはあるのだろうか.恐らく冒涜的な猥褻語自体は移り変わっているのだろう.舌打ちとともに「くそっ」とか「チックショウ」と口走ってもそれほどタブー感は無いが,(少なくとも私自身は「くそっ」という言葉が大便のことを意味していると気づいたのは,子供時代にそれを使うのようになったあとのことだ)恐らく時代をさかのぼるといろいろと異なるのだろう.

また過去は自由に使っている言葉が現在ではかなり問題含みであるようなケースもあるだろう.
もっともこれはなかなか調べるのが難しいし,面白い事例があったとしてここに書くのもやはり憚られる.なかなか自国語のタブー語はやっかいだ.


次にピンカーが取り上げるのはコメディアンによる無感覚キャンペーンだ.
前衛的なコメディアンは猥褻な単語を猥褻性が気にならなくなるまで繰り返し使うこと(心理言語学者はこれを「意味的飽和」と呼ぶ)により,あるいは言語学者を登場させて,意味と音は恣意的であることを指摘して,この無感覚化のプロセスを進めるそうだ.前衛的なコメディアンとか,言語学者を登場させるというのが面白い.その例も2つのせられているが,これはなかなかネイティブでない私には難解すぎるようだ.(特に最初の例はcomeについて複雑な処理をしているのだが,要点も落ちも理解できない)


似たような「飽和」現象として女性やマイノリティを指す言葉に対して自分たちの仲間内で使うことによりなされることがあげられている.例えばヒップホップグループのNWA (Niggaz With Attitude), Queer Nation(同性愛者の国), Dykes on Bikes(レズビアンのバイクグループ)など.
そしてこれらは完全に中立化されているわけではないので外部者が使うともめ事になりうる.これを見るとQueerというのはなかなか微妙な言葉のようだ.


いずれにせよ冒涜語は時代や地域により異なる.ピンカーはカナダとアメリカの違いをいくつか例としてあげている.また面白い例としてはオーストラリアアボリジニの Djirbal をあげている.これは義理の母や特定のいとこの前では通常のすべての語がタブーになるという現象だ.彼等の前では文法は共通でもまったく違う語彙を使ってしゃべらなければならないそうだ.要するにまったく異なる2つの語彙セットが頭に入っていると言うことだ.日本語では尊敬語などでシチュエーションによる別の語彙という現象があるが,それの大規模なものだと考えればいいのだろうか.


いろいろなタブー現象を紹介したあと,タブーの謎について本節の最後でピンカーはこうまとめている.

タブースピーチは「単語の魔術」として知られる現象の一つだ.言語学の基礎の一つは単語の意味と音の関係は恣意的だということだが,ほとんどの人はそうでないと信じている.彼等はある実体の名前をその本質の一部だと取り扱う.そしてそれを発音することはそれに影響を与えることだと考える.
まじない,呪文,のろい,祈りは言葉を通じて世界に影響を与えようという試みだ.そしてタブーと婉曲語法は影響を与えないようにしようとする努力の表れなのだ.物質主義者の塊のような人でも幸運を自慢するような話をしてしまったときには木をたたこうとするし,恐ろしいことを言ってしまったときには「Gor forbid」と付け加えたりする.それはニールス・ボーアが,馬の蹄鉄をオフィスドアに掲げて「あなたが信じないとしても,これは効くと聞いたものでね」とサインをだしていたのと同じ理由なのだ.


確かにアメリカ人は話しながら(自慢しすぎたというようなときに)テーブルをたたこうとする.聞いてみたことがあるが,テーブルが木製でないときは,何か木でできているものはないか,その場にいるみんなで探したりするそうだ.



第7章 テレビで言っちゃいけない7つの言葉


(1)おまるの口